260 輿の中身
スッと輿を指す左手の動きに誰も彼もが釣られた。見るからに重そうな大剣だが、片手でも難なく支えられている。隙はない。
「そこに入っている者の『憑きもの』を湖で濯ぐ魂胆か?」
その指摘に王子の微笑みが一瞬崩れる。
参拝に臨むにあたり、王子も祭事の作法を一通り浚った。
神事の前には沐浴を行い、俗から清に移行して分離をはかる。水に浸かるのは生命回帰の意味合いもあるという。神と見えるには、生まれたての無垢な心身に戻してからということだ。
その際、ふと、心に魔が差した。
罪や穢れを落とし、不浄を祓うのに神域の湖ほど最上の場所はない。もしも、そこで禊をできれば…と。
少しの逡巡を経て、意を決したように進み出る王子に合わせて護衛たちも慌てて陣形を直す。行く手を阻む男と王子の間に割り入った形になり、思うほど近くには寄れていない。
「…ご明察通りです。この輿におりますのは我が父…王配殿下です」
「殿下! 何奴とも知れぬ輩に、そのようなこと、説明する必要はございませんっ!」
侍従が止めに入る声が王子の言葉に被さるが、近くにいた者にはしっかりと聞こえた。
ショノアもその一人。「えっ」と思わず上げた声と呆気に取られた様を、再びディネウに眼球だけでジロリと睨めつけられる。
「無礼な真似は止めよ。…お前も、この方が只者ではないのは理解しているだろう? ここまでお見通しなのだ。もう、全てをお話しして許しを願うしかない」
侍従を咎める王子の表情は苦悶に満ちていた。
「聖都での静養の甲斐なく、王配殿下の気は鎮まっておりません。…今は仕方なく、侍医の処方により眠らせてあります」
王配が謀反未遂を起こしたのは『憑き物』のせいだとして、聖都に向かったのは周知の事実。ところが、その時の殊勝な態度が嘘のように、帰ってきた王配は苛烈さが前面に出ていた。
政に携わる王配の為人が見掛け通りの穏やかな面だけではないことなど、近しい臣下であれば知って当然である。もちろん第一王子はそれも含めて尊敬していた。
しかし、まるで別人かのように当たり散らす姿は、疑念、憂懼、落胆、失意を招く。
王都から遠く閑所にある離宮での蟄居を命じられた際も素直には応じなかった。
王配の責任を自ら引き受け、夫婦二人で暮らすべく、母である女王は退位の準備を推し進めている。だが、そのことにも気付いていないのであろう王配は、王都から去ることに抵抗し、手がつけられないほど暴れた。
また、解体されて各隊に配属替えとなった元特殊部隊員の王配に対する妄信的な忠誠――洗脳は解かれておらず、その姿を目にするや、現在の指揮官に従わなくなった。蟄居先に送ろうにも失敗したのは、彼らが王配の望みを叶えようと働いたせいでもある。
特殊部隊員の身体能力は高く、また容赦がないため、味方同士であるはずの兵士間に血が流れた。
そんな父の有り様に、特に可愛がられていた末の妹姫は衝撃を受け、憔悴している。
できれば、その威厳と評判を取り戻した上で、余生を静かに過ごしてほしい、息子として、臣下としてそう願ってしまった。
出発直前に、王子は水を司る神域での禊に一縷の望みをかけて、父を連れて来ることを決行したのだ。
「頼れるのは、もう…ここしかないのです」
王家の恥となる内容に周囲の者は息を呑んでいる。今回随行したのは近従と近衛兵が中心だが、王配の件は秘されており、極少数の者にしか知らせていない。
「どうか、水の神の御慈悲を賜りたく」
王子はグッと口を引き結んで、目礼をした。
「普段その恵みを当たり前に享受しておきながら、感謝は頭の端にもなく、困れば文句を口にする。それでいて、助けてもらえるとなぜ思う?」
辛辣な言葉に、王子は伏せた目を上げられない。
「…決して…、水を蔑ろにする気は…。どうか、その広く深い湖と同じ寛大な御心で…お願いいたします」
真っ向から否定できない。ある意味、王子はまだ若く、正直過ぎた。
「仮令、その『憑きもの』が大きな湖にしてみれば取るに足らないシミだとしても。生命を抱き、育む偉大な水がおおらかな心で受け入れるとしても。清い水に泥をかけること、許せるものか」
冷静を保っていた声に僅かな怒気が混じり、ビリと空気が震える。自戒するように微かな嘆息が聞こえた。
「それに、その『憑きもの』が、この湖から川へ流れ出て、王国中の水を汚染しかねないと疑わないのか? もしも、それで被害が拡大したとしても水の怒りが収まらなかったと言い逃れる気か」
王子や文官の顔色がサッと青褪めた。どんな言葉も言い訳にしかならなそうで、開きかけた口を閉じる。
その心情を表すかのように、上空に厚い雲が差し掛かりフッと暗くなった。降り出した雨がポツリと頬を打つ。
「雨が…」
しかし、前方で足留めをする男には薄日が射している。空を確認する素振りをした後、威圧感がいや増す。
王子は嫌な予感がして、後方を振り返った。背後はもっと雨脚が強い。もうずっと雨にあたっていたのか、ずぶ濡れで震えている者も。
見上げると、濃い灰色の雲が流れ来るが、一行の先頭より先には行かない。見えない壁に阻まれているかの如く渦を巻き、横に流れて広がっていく。
「これは…雨の境目?」
侍従も文官も目を瞠る。当惑するばかりで答えは返せない。
「それも、お前たちが連れて来たモノだ。降り続ける雨も、降らぬ雪も、その責を、民衆の不満を、押し付ける腹積もりならば、今直ぐ立ち去れ」
腹にズシリと響く一層低い声が、最後通牒とばかりに告げる。
「そんな…ま、待ってくださいっ」
「ハハッ、ハハハッ」
追い縋ろうとした時、突如として場違いな笑い声が空から響いた。
「何だ?!」
雨雲でも陽光の全ては遮らないはずなのに、闇がみるみる深まる。周囲は瞬く間に真っ暗闇へと変貌した。
「殿下! 殿下! ご無事ですかっ」
護衛たちの鎧がガチャガチャと音をたてる。互いの位置を確認しようと声を掛け合うが、距離も掴めない。下手に動けば傷付け合ってしまう。底なしの深い闇は足が地を踏む感触さえあやふやにさせる。
「ハハッ、ハハハ」
笑い声の発生源はすぐ側のようでもあり、ここではないどこかではないかとも思われた。音以外一切の五感が働かない中で、すぐ耳元で、または遠く谺のように四方八方から聞こえる。
一行は混乱と恐怖に落とされた。
「コンナニ役二立ツトハ、良イ拾イモノダッタ! 複製ノ種ヲ仕込ンダ中デモ特二強イ」
眠らされているはずの王配に何かが起きたのか、ガタンと輿の箱が大きく鳴った。
「父上!」
王子は音がした方向を向き、それから輿があるはずの後方を振り返る。暗闇の中で方向感覚を失わないように足の位置は変えていないはずだが、大きくずれている。護衛や侍従の呼ぶ声もかなり遠く離れた。
「ハハハ。コレハ血筋トシテハ中々良イ素材ダ。潜在魔力ハ有ルヨウダシ、覚醒ハ後々デキヨウ。一先ズ、器ハコレデ手ヲ打ツトスルカ」
王子の耳朶を囁やき声が右に左にと撫でる。髪が逆立つような不快感に「ヒッ」と喉が詰まった。
「ソレニ、道ガ通ッテイルナンテ、素早シイ! 湖マデ行キ着ケナイノハ残念ダガ、魔力ガ際限ナク流レ来ル。コレダケアレバ…キット…」
淡くぼんやりとした石はともすればすぐに暗闇に飲み込まれてしまいそう。だが、近付けば存在を主張している。愉快そうに笑い続ける声は石の連なりをなぞって飛び回る。
声を漏らさないようにスカーフの上からぎゅっと口を塞いでいたニナは「道が通った」という言葉に肩をビクリと跳ねらせた。
「蘇レ。守護者ヨ。今コソソノ力ヲ示ス時。敵ヲ屠レ。目覚メヨ」
笑い声から一転、呪わしく滔々とした声にズンと地が蠢く。
セアラの「きゃぁ」という悲鳴とマルスェイの「ああ…」というくぐもった声が視覚で得ていた記憶と違う方面から聞こえた。
「憐れな。命令に従うしかない王国の犬め。そうして疑いもせず仇なすか。アイツが目を掛けてやっても、このザマだ」
舌打ちと鞘を滑る金属音、それと後半にかけて憎々しげに変わりゆく独白にショノアは咄嗟にディネウがいた方向を振り仰ぐ。
(犬…とは、酷い貶みだが、確か最初も…)
罵りも尤も。ショノアたちは神域を穢すところだった。そのための道を通してしまった。道案内と祈祷以外の事情は知らなかったと身勝手な言い逃れはできない。
ショノアは騎士爵を賜っているとはいえ、その中でも地位は下で、従者すら伴わない身だ。王族に対して意見をすることなど許されない。――が、後悔して止まない行為を繰り返そうとしていたことにやっと気付く。
そのことにすら無自覚だったから、無視された。一瞥されただけで、話す余地はないと。
うちのめされて、視界が黒く塗り込められたようになる。足元がぐらつく。急激な目眩かと思ったが、そうではない。
「ちょっとぉ、邪魔されたくないから、皆さんにはじっとしててもらって」
混迷した中に、やや苛立っているが緊張感のない声が割り込んだ。
直後、大地が激しく揺れて、堪らず膝を突く。
(あ、これは、前にも…)
単なる地震とは違う揺れにショノアは覚えがあった。それを覚ったところで対策が取れるわけではなく、既に衝撃が足から頭に抜け、身を守ろうと低くした姿勢から動けなくなっている。
(くそ…)
光が闇を割いて迸る。ショノアはなんとか情報を得ようと、眩しさに痛んでも目を開いた。
光の源に棒状の杖を掲げて堂々と立つ人物。ふわりと広がった衣が銀の翼のようにはためき、裁きを与える天の遣いと見紛う。
その背中合わせにいる人物は、細い体の線に沿った長衣につばの広い帽子を被り、静かに三日月の杖を地に突き立てている。纏う藍色に金の髪が際立つ。
最強の傭兵は王子の前でどっしりと構え、大剣で何かを弾き返していた。先程まで湖の側にいたはずなのに、あの闇の中で如何にして移動したのか。広い背中に庇われた王子には強烈な光も当たっていない。
そして、灰色の外套でニナを守るように包み隠している白い髪の男。
「あ…」
痺れた舌でショノアが声にできたのはその一言だけだった。
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(*˘︶˘*)