26 囚われの身
グイグイと唇に何かを押し当てられる感触にサラドは意識を取り戻した。酸味のある香りが血の匂いに混じる。口を塞いでいた蔦がスルリと解け無理矢理に木苺を口にねじ込まれた。それを吐き出し、思い切り舌を噛もうとして――また、木の根を噛まされた。勢い余り喉の奥を突かれ激しく嘔吐く。歯で切れた舌と根に口腔内を傷付けられ血が口の端からゴプリと溢れた。
開きっぱなしだった目には瞼も睫毛もでき、艶やかな髪を揺らす魔物はサラドの口を唇で塞ぎその血を啜った。上半身はすっかり人の姿だ。
「やめてェ。せっかく美味しい獲物だから、長く楽しめるように餌付けしようと思ったのにィ。死体は美味しくないの。木も美味しくない。まだ楽しませてねェ」
奇妙に間延びしているが、甘えたようにも聞こえるその喋りも、もう人のものと疑わないだろう。
どれくらいの時間が過ぎたのか、今の状況を確認しようとするも目が霞んで良く見えない。垂れた前髪が視界に入ったが、その色はすっかり抜けて乳白色になっている。足元は黒く枯れた落ち葉で埋め尽くされていた。気を抜くとすぐに意識は朦朧とする。
「あっ! 獲物が来たわァ」
ズルズルと動く様はまだ人になりきれていない。足先は土の中にあり、そこから地の力も吸い上げているようだ。
こちらに向かってくるのは聖都の兵士が二名。
――逃げろ!
風の精霊に声を飛ばしてみるも力を失い過ぎて伝えられないのか、兵士は何かを感じたらしくキョロキョロと辺りを見回しただけだった。
「助けてェ」
伏せた姿勢で腕を張り、草の陰から顔を出した魔物に兵士はすぐさま走り寄る。媚びた声で助けを請い、上目遣いでしなだれかかるその姿に鼻の下を伸ばした兵士は魔物と目を合わせた瞬間、全ての表情を削ぎ落とした顔で立ち上がり仲間の兵と斬り合いを始めた。
「うふふ」
剣を打ち当て合う兵士を楽しそうに眺めてニンマリと笑う。血の飛沫を顔に受けた魔物はペロリと舐め取り「あんまり美味しくない」とつまらなそうに、目の前の獲物から興味を失った。
――目を醒ませ!
(風よ! 力を貸してくれ!)
力を振り縛って声を飛ばし、突風を起こして魔物の影響が少しでも弱まる場所へ二人の体が離れるように弾き飛ばす。
左右に分かれてゴロリと転がった兵士たちは、しばらくして呻きながら上体を起こした。互いを眺め、ひぃぃと悲鳴を上げ、怪我した者同士で肩を貸して逃げて行く。
(どうか、無事に逃げ果せて…)
「あれェ? また逃げられた?」
ヒューヒューと呼吸が浅くはやくなる。瞬きをすると暗転しガクリと力が抜ける。
(これまで…か。…情けないな…)
薄れゆく意識もそのままにサラドは目を閉じた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
神殿内の特別な部屋で豪華絢爛な椅子に座した副神殿長と一段低い位置で跪いた導師は再び相まみえていた。
「巡礼に訪れた子供が妖かしに出会い迷子になった他、山林地域で魔物との戦いがあったと報告があります。結界の確認へ赴く許可を頂きたく存じます」
「迷子は五体満足で被害はないと聞く。子供の妄想では? 魔物も既に討伐されたとか。さすがは山林の野蛮な猿は血気盛んだな。もう問題あるまい」
「いいえ、邪気は他にも存在します。むしろこちらの方が質が悪い。手遅れになる前に許可を!」
導師の睨みに副神殿長はガタリと椅子が音をたてる程に体を震わせた。
「あ…足、解放するのは足のみだ。時間は一時。それ以上になった際は…わかっておるだろうな」
副神殿長がスッと手を挙げると背後の鉄格子の奥からガチャリと鉄が擦れ合う音がし、呻き声が漏れた。
導師はすっくと立ち上がり一礼してその部屋を辞す。扉の前に控えていた二名の護衛がすぐに後を追った。
「導師殿、どちらへ?」
「結界の確認へ」
「お供いたします」
「必要ない」
「お供、いたします」
「…ついてこられるものならば好きにするがいい」
大股で歩く導師は普段の重々しい足取りではない。そればかりか神殿を守る壁を越えた瞬間、その姿が消え失せた。
「ちっ!」
聖騎士の護衛は舌打ちをして裏門へ駆け出す。一般兵の護衛も慌ててその後を追った。
聖都の牆壁の外まで転移した導師は邪気のする方向へ迷わず向かったが、その途中、街道脇で「しっかりしろ」と激励する声に立ち止まった。
「どうした?」
「あっ 人が倒れていて…。今、仲間が人を呼びに行ってて」
警らをしていた自警団がなんとか止血を試みていたのは、裂傷を負い血塗れで倒れ伏している兵士二名だった。外した聖都の紋付きの鎧が脇に置かれている。
邪気の気配に逸る気持ちを抑え、導師はその手に光を纏う。〝治癒を願う詩句〟の詠唱もなしに二名同時に裂傷はみるみるうちに塞がっていく。
「すげぇ…。まさに奇蹟だ」
急に傷の痛みが治まったことに目を白黒させながら起き上がろうとする兵士を導師は押さえた。
「まだ動くな。傷は塞がっても受けた支障は残っている。特に心は追いつかない。しばらく絶対安静で過ごせ」
導師の言葉に頷き、兵士はまたゆっくりと体を横たえた。命の危険から脱して恐怖が甦ったのかカタカタと震え出す。
「何があった?」
「体が…操られて…殺し合いをしろと…」
「操られた?」
自警団の仲間が荷車を引いて集まってきた所に、今度は林の奥で炎と黒煙が上がった。リーダー格の者が不在なのか「火消しを」「急げ」と黒煙と倒れた血塗れの兵士とを交互に見て、動揺が走る。
(…邪気が消えた…?)
その気配の消失に導師は黒煙の発生元を見上げた。邪気によるものではない、嫌な予感が胸に押し寄せる。
「すまないが、彼らを神殿の治療施設へ運んでやって欲しい」
「聖都…内…ですよね」
自警団の面々は人名救助には吝かではないが、聖都の中に入るのは渋っている。
「街門…はだめだな。裏門まででもいい、そこで、」
そこに護衛が追いつき、聖騎士が血で汚れた聖都の鎧を見て激昂した。
「貴様ら! 聖都の者に何をした!」
「やめろ! 彼らは救助してくれた者たちだ」
人垣の中に導師の姿を見つけ、聖騎士の護衛は形ばかりの礼をとる。
「お前は先に戻って治療室の手配をしろ。傷は治したが休養が必要だ。それから、えっと、」
導師の視線を感じた一般兵の護衛は「ジャックです」と名乗った。
「ジャックは彼らを裏門へ誘導してくれ。くれぐれも彼らが不利益を被らないように注意しろ」
「御意」
「導師殿はどちらへ? おひとりにする訳にはいきません」
「つべこべ言わず、行け」
眇めた目で見据えられ、聖騎士の護衛は再び舌打ちをして来た道を取って返した。
「すまないが、よろしく頼む。皆の助力感謝する」
導師が頭を下げると自警団の者たちは恐縮するように眼前で手を振った。
「ジャックも頼む。時間内には戻る」
荷車に兵士を乗せ、鎧も運んでくれている自警団を見送ると導師は林の中に歩を進めた。まるで道筋を示すように血の跡と邪気があった方角は一致している。
ようやく現場だった場所に辿り着くと、そこには水がかかって鎮火した後の焼け落ちた大木と、炭になった人のような形のモノがあった。
(この火は魔術とはちょっと違うな。でも自然の火ともいえなさそうな…)
炭化したものに指先を触れ、邪なるモノを感じ取り、導師はスッと手の平を天に向ける。凄まじく眩い光が落ち、その炭を跡形なく灰に変えた。
焼け焦げた木の残骸を痛ましく見つめ、導師は踵を返した。戻りたくはないあの場所へ――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時間にして少し前、導師が副神殿長と応酬していた頃、ショノアと自警団の若者はセアラの案内で林の中を進んでいた。
「セアラ、みつけたって何を?」
「前にサラさんに悪いものの見つけ方を教わったんです。それで、こっちにきっと」
「待ってくれ。魔物がいるとしたら我々だけで応戦できる相手とは限らない。人を集めた方が…」
「あっ! すみません。私、考えなしで」
しかし、時既に遅く、うつ伏せから肘をついて顔を上げた魔物がショノアたちの姿を捉えた。
「何だ? この血溜まりは…」
「助けてェ」
「ハッ! どうされました?!」
「駄目です! ショノア様!」
セアラがその場に膝を着き、胸の前で手を組んで祈りの言葉を唱えると、魔物は「グギギギィ」と呻き声を上げ、土を跳ねらせながら奥へ逃れていく。
「何だ、あれは…まさか人型の魔物…?」
「木の根元にも誰かいる!」
「何だと? 助けねば!」
自警団の若者が指した、魔物が向かう先には枯れた大木があり、枝や蔦が絡みついてその幹に埋め込まれるように人影がある。
ショノアは剣を抜き放つと、動きの鈍い魔物を優に追い越し大木に駆け寄った。
「私のっ 獲物っ 奪わせないっ」
大木に剣を振り上げると、攻撃を避けるように蔦も枝もスルリと解け、磔にした人物を解放した。グラリと揺れた体を踏み留まらせ左目を開けた人と目が合ったショノアは息を飲んだ。白髪で老人かと思ったその人物は、
「サラ?!」
ショノアに気付いたサラドは構えられた剣に左腕を当てスッと引いた。流れ出た血に怯み二の足を踏むショノアにサラドの強い眼差しが「逃げろ」と訴える。
「ゔあ、ごっ」
――伏せろ!
「え?」
強い、強い声が頭に響き、祈りの言葉を繰り返し唱えていたセアラは顔をもたげた。駆け戻ってきたショノアに覆い被さられ守られたところに熱風が襲いかかった。
「ひいっ」
自警団の若者も頭を手で覆って伏せている。
三人それぞれ風に耐えながら目だけ大木に向けると、逃げようともがく人を象った魔物をガッチリと掴んで放さないサラドが映った。
空を舞う炎が急激に膨れ上がりクルリと回ると鳥の形を成す。炎の翼を広げ、サラドと魔物に体当たりをした。
「駄目っ、逃げてっ サラさんっ!」
炎の鳥はサラドと魔物、大木を包み、螺旋を描きながら天に昇った。ゴオオッと燃え上がり、燃やし尽くす。「ギャア」という魔物の悲鳴も「ア、ア、ァ」と小さくなりすぐに聞こえなくなった。
他の木に延焼することなく、黒焦げになったふたつの人影が頽れると、炎はふいっと消え去り、大木の上にだけ雨が降り注いだ。
シュウシュウと音をたてながら白煙を上げ火は消えていく。
(助けられなくて、ごめん)
すっかり灰になった落ち葉の上に倒れ込み、最後の力で木の精霊に声をかける。
――大丈夫。根の一部はまだ生きている。また成長できる。呪われた身を救ってもらった。ありがとう。
口元にうっすら笑みを浮かべてサラドは意識を失った。