256 兆し
シルエは杖を斜め中空に向けて勢い良くグルンと回した。杖に嵌めた石の残光で描かれた二重円は瞬く間に文字や記号で埋め尽くされ、浄化と解呪の光が雨雲に放たれる。
その軌道を目で追うディネウの機嫌はすこぶる悪く、身内にさえ威圧感を与えていた。
馬車列を追う雲は光に散らされ、一時、晴れたかに見えた。だが王都から長く引いている尾は途切れず、またむくむくと形を成していく。
シルエの目にはそれだけでなく、街道周辺から上がる小さな小さな黒い粒状のシミを取り込んでいく様が見える。
「ほら、見たでしょ?」
舌打ちするディネウに、シルエも雲を指して喧嘩口調で返す。
あいにくとディネウにはシミが見えない。だが、徐々に灰色の雨雲が元に戻っていく様は誰にでも見える。
「もっとやれんだろ? 繰り返してりゃ、消えるんじゃねぇのか!」
「僕にアレを追って、ずっと浄化し続けろって言うの? 元を断てないのに?」
「あ゛あ?」
一触即発かと思われた時、パンッと弾ける音と救援を求める信号が四人の頭に響いた。見上げた空の範囲に青くたなびく煙はない。
「くそっ! こんな時に」
「結構遠い…この座標は…王国内じゃない。急がねば」
ノアラが転移陣を発動しかけるが、ディネウはまだ雲の行方を睨んでいている。
「ディネウ、業腹なのはわかる。だけど、雨は即時に危害を与えるものになっていない。馬車を追い越して行く様子もない。大丈夫。湖畔の守りは堅い。最高位精霊は司る水の主導権をやすやすと渡したりしない。だから、今はこの要請に応えよう」
サラドの説得にディネウはぎゅっと握った拳を自身の太腿に打ち付けた。
「…っ! 仕方ねぇ! 行くぞ! ノアラ、転移せ!!」
ディネウがサラドとシルエの手をガシリと掴むと、すかさずノアラがその上に手を置き、術を発動させた。
転移時の浮遊感も薄紫色の光も消えないうちに、サラドは標的――角突き暴れる牛を捉えた。
その目は光を映さない漆黒。往くべき道を失った困惑と、身に起きた理不尽に対する憤怒で我を忘れている。
「…迷い込みしもの」
サラドの呟きで相対するモノの正体が伝わり、三人はそれぞれ最善の構えをとった。
鞘から抜かれる剣の音が冴え冴えと響く。降り立つなり、ディネウは剣を振り下ろした。苛立ちをぶつけるような太刀筋でも違わず、呆気なく頭と胴が切り離される。
そして、首が地に落ちる前に閃光が見舞い、灼かれて跡形なく消え去った。シルエを中心に爆発したかのような光は円周を拡大していき、牛が暴れていた範囲を拭う。
チロリと揺れた白い炎の出る幕はない。
「コイツ一体だけか?」
ブンッと大きく剣を振り、纏わり付く嫌な気を払ったディネウが凄みのある声で問う。
そこに居合わせた者は何が起きたのか理解が追いつかず、ワッと歓声を上げるまでに少々の時間を要した。
「ハイッ。っした! 一時はどうなるかとっ!」
一人の若者が腰を直角に折る勢いで頭を下げると、他の者もばらばらと続いた。
牛を取り囲んでいたのは出稼ぎ中の傭兵たちで、作業用具や大きめのナイフしか手にしていない。
「はじめは、どこからか家畜が逃げて来たのかと思ったんです。随分と気が荒いなと見てたら、やたら人を襲うような動きをするもんで、仕方なく倒すことにしたんですが」
救援信号の魔道具を投げた傭兵が、あわあわと手をばたつかせつつ早口で説明する。
「手応えはあるのに、確かに傷付けたはずなのに、血は出ないし、黒くモヤモヤとしたものが流れ出るし、仕留められないし、ずっと繰り返し、で」
事切れることのない不気味な牛を前にして、傭兵たちが足留め役を担い、現地の者には集落に避難勧告、または武器になりそうな物を取りに行かせたという。
彼らが奮闘した証に、到着した時は周囲が穢れでべっとりと黒ずんでいた。
「ああ、アレは完全に動きを奪ってやらねぇと。そんで道に返すか、浄化するしかねぇ」
『迷い込みしもの』という存在はややこしい。
物質はあるが実体はない。死者に分類されるがアンデッドでもない。故に疲れも痛みも知らないといった風で、半端な傷では攻撃が止まることはない。
ディネウが言う意味を完全には理解できなくても傭兵は「ゾッとします」と同意する。
この現場にいる傭兵の小団はみな若く、魔物と戦う経験も最近やっと培われた。
ただの獰猛な牛ではないと判った時はさぞ動揺したことだろう。それでも、逃げなかったのは褒めるに値する。
ディネウはポンポンと肩を叩いて労った。
「コレがどこから来たか、見た者はいるか?」
皆が首を横に振る。
「あ、でもここで対峙する前は山の上にいたみたいです」
発言した者が指差すのは山と呼ぶには小さな、こんもりとした木立で、なぎ倒された木と崩れた石段が見える。
「ふぅん、この上にあるのは祠?」
「あ、ハイ。この地域の鎮守様だそうです」
シルエがサラドに耳打ちし、細く狭く急な石段に足を掛けた。サラドに目配せされてディネウは眉間の皺を深くしたが、顎をしゃくった。
「あの、」
傭兵はシルエを止めようと手を伸ばした。
土地の者以外が訪れるのを厭い、出稼ぎ労働者は詣でることを許されていないから、と。
「だいじょーぶ。ちょーっと、ご挨拶させてもらうだけだから」
シルエは制止を遮るように杖を振り、足場の悪くなった石段をさっさと登っていく。
傭兵は困惑して、助けを求めるようにディネウを仰ぎ見たが、厳かな頷きが返され、伸した手を力なく下ろした。
石段に点々と残るシミ。シルエは慎重に気配を探る。
(最近、ここを参った人の中に王国で穢れの影響を受けた者がいる?)
祠が置かれる場所は得てして魔力溜まりや地力の強い場所だ。
普段から人々が祈り、大切にしていればその念も定着している。
不安や不調を自覚していなくても、無意識に救いを求めに来るのは何らおかしくない。
「…『歪み』で道が繋がった跡はもう残ってないね」
サラドは何もない空にさわさわと這わせていた手を、ゆっくりと横薙ぎに払った。
祠の周りは木の根が張り巡らされている。踏みつけないように爪先立ちになり、足運びに気を配る姿勢は武闘としては隙だらけ、舞としては優雅さに欠ける。
滑稽にも見えるサラドのふわふわした動きに、尖っていた神経が凪いでいき、シルエは「ふぅ」と息を吐いた。
「でも、『裂け目』が開いたのはここ、だと思うんだよね。だって、シミが濃ーく落ちてるもん。念の集まる場所だから余計なのか…」
シルエは杖の石突で土を弱めに突いた。淡い光がホワリホワリと地に染みていく。
「あったかいって」
「ん?」
「木がね。あったかくて、生き返るようだって喜んでる。一時避難した精霊も光に誘われて戻って来るよ」
迎えるように両腕を広げて宙を見ていたサラドが振り返ってシルエにへにゃっとした笑顔を向ける。
シルエは照れ隠しに顔を俯かせて「そ」とだけ返した。
サラドに促されて、二人で祠に挨拶と非礼の詫びと祈りを捧げる。
石段を登りきり、祠が見えた時点では『守りたいのはこの土地に住む者で、他所者が気安く足を踏み入れるのは気に食わない』という拒絶が感じられた。
だが、サラドの語り掛けとシルエの力を受けて、地を覆う根を持つ木々が放つ気は軟化し、鎮守となっている存在も静かに受け入れてくれている。
「うん。シルエの光はいつも清らかであったかいんだ」
ちょっとだけ自慢気に発せられたサラドの言はシルエにではなく、この地にいる彼らに向けられたもの。
それがわかっていても、シルエはつい心中で零してしまう。
(命の環に還すことができなくても?)
シルエの光は強すぎる。どうやら質の問題で、力加減をしてみたところで消滅させてしまう。奇蹟は神に願って得られる恩恵だというが、迷うモノを黄泉路に帰す慈悲などない。
「一度、迷ったものはまた迷いやすいから。苦しみが続くより、救いになる。きっと別の形で命を巡らせる」
「…ん」
まるでシルエの心情を見透かしたようなサラドの言葉に視線を上げられず、ただシミの対処に専念した。
念入りにコツ、コツと杖を突き、浄化と癒やしを施す。穢れで薄暗く見えた祠周辺を木漏れ日が穏やかに照らす。
「えっ、いやっ、歌わないよ」
サラドが突然、素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
「あ、ごめん。声に出てた。…精霊がね、歌わないのかって」
「歌って…何?」
「あっ…と。鼓舞というか、応援というか、元気付ける歌なんだけど。まだ上手く歌えなくて、効果は殆どないんだ。街道近くで歌ったのを聞いていた風の精霊がいるみたいで」
「何ソレ? 歌った? いつ? 僕、聞いてない!」
「その、シミの調査で、湯元に行く前?」
「ええー」
驚きで地を打つ杖に少々力が入る。光とともに吹いた風に残っていたシミがブワッと消し飛ばされた。
――と、その時。救援信号が鳴った。空を振り仰ぐがやはり青い煙はない。
「あっ、また?」
ディネウとノアラ、それから傭兵たちは他に魔物や狂わされた獣がいないか周辺を見回っているところだった。
「次はどこだっ?」
ドスの利いたディネウの声に「ひぃ」という悲鳴が坂下から聞こえた。そこには斧や鋤を手に「お前が先に」「いや、お前こそ」と責付き合う人々がいる。
「あ、あの、アニキ…」
「地元のお偉いさんへの説明は頼んだぞ」
救援信号は距離に関係なく直接届く四人以外に聞こえていないが、良くない事態だと察した傭兵は強く頷いた。
「…遠い。また別の国だ」
ディネウの背に隠れる位置にいたノアラはこめかみにあてていた指を放し、ゆっくりと瞼を上げる。
「ちっ。行くぞっ」
「りょーかーい」
いつの間にか、四人は集結していた。
「いつ魔物が出ても迎え討てるよう警戒はしておけ!」
傭兵たちは背筋をしゃんと伸ばして「ハイッ」と威勢の良い声を揃えた。
「じゃ、行くよー」
緊張感のないシルエの掛け声にノアラが頷く。
シルエが「おまけね」と言って杖をトンッと突いた。光の波は『迷い込みしもの』の消滅とともに浄化した範囲を越えて一帯を覆う。
眩しさに目を細める間に、白い光に紛れて薄紫色の転移陣は抜けて行った。
「あれ、さっき負った傷が治ってる?」
「おれもだ。打ち身の痛みがない」
光が収まって、ディネウたちが去ったことに気付いた傭兵たちはそんな会話を交わした。
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