251 悪寒
「へっ…ぶしゅっ」
ノアラの屋敷に転移で着いた瞬間、ディネウが豪快なくしゃみをした。
「うっさいなぁ、もう。あー、ヤダヤダ。移さないでよ」
片耳を塞いで悪態をつくシルエはしれっと自身に浄化をかけている。
「あー…、こりゃ、あれだ。あの痺れっつうか、ゾワゾワのせいだ」
『堕ちた都』の収監施設を囲む壁を抜ける際の不快感だと主張し、ディネウは体をブルリと震わせる。それでも振り払えない。
「…前も、こんなにしつこかったか?」
「僕はなんともないよ。それ、ただの悪寒。移動中も二の腕を摩ってたじゃん」
ノアラも頷く。自魔力が多く、知識も経験も積んだ二人は魔術攻撃に対する防御力も耐性も高い。ディネウは納得がいかない様子で「ずびっ」と洟を啜った。
撤収を提案したのはディネウだ。陽も傾き、視界が悪くなってきたのもあるが、湖がある北の方角から吹く冷たい風にスンスンと鼻を効かせ、「イヤな予感がする」と言い出してのこと。
泊り込んででも調査の続行をノアラは望んだ。堕ちた都には直接転移ができないので移動の時間が無駄になるから、その要望はもっともである。その時点ではシルエも「んー…。もう、少し」と言っていた。
だが、サラドからノアラに転移を望む信号が送られてくると、シルエはさっさと帰り支度を始めた。
意見が二対一になれば、ノアラは我を通さずに合わせる。魔術の発動を妨げられているここに、一人残るなど迂闊な真似はしない。
「ただいまー」
玄関の戸を開けたが、しんと静まり返っている。明かりも一つしか灯されておらず、薄暗い。
「あれ? サラド、帰ってきてるんだよね?」
ノアラがこくりと頷き、首を傾げた。
堕ちた都を離れ、魔力の干渉が及ばない地点まで移動してすぐ、サラドの持つ魔道具と屋敷の座標を繋いでいる。サラドから、『無事、転移完了』を伝えるリンという音の返信も確認した。
「えー、またどっか行っちゃった?」
三人も続いて転移するつもりでいたが、ディネウが森の中に血痕と不自然な動物の遺骸が複数あるのを発見したため、少し周辺を調べてから帰宅となった。それでも時間差はさほど長くないはず。
「ヴァンのとこじゃねぇか?」
「そうかなー」
体は大きくとも、まだ仔馬のヴァンは甘えたがりだ。特にサラドに構ってもらえそうな時はヒヒーンと鳴いたり、ブルルと鼻を鳴らしたり、前掻きしたりと忙しない。
シルエは耳を澄まして「物音しないけど」と言いつつ、裏庭へとつま先を向ける。
「テオは…もう寝たのか?」
留守番時、「先に休んでいていいよ」と言ってあるが、日が暮れてもテオは待っていることが多い。帰宅に気がつく、居間の定位置に座って。眠気と闘い果てて椅子で眠りこけていることも何度かある。
聖都から連れて来た当初は人の気配に怯えて部屋の隅で縮こまっていた。それが今では、何かに熱中していても、不意に、屋敷にいる誰かしらの姿を探して、ほっとした表情を見せるまでになった。
サラドはその変化を喜んでいる。
「おかえり」
「わっ!」
シルエが取手に手をかけようとしたその時、急に扉が開き、サラドが現われた。
「なんで、家の中で気配消してるの!」
「あ、なんかごめん。テオが寝てるから、静かに…って思っちゃって」
「お前が、気ィ抜きすぎだろ」
「えー、だって。ノアラの屋敷内ほど安全な場所ないしー」
ニヤニヤと笑いながらディネウに背を平手で叩かれたシルエはムスッと口を尖らせた。
「帰ってきたら、テオがそこでぐったりしてて。ちょっと熱があるから、寝かしつけてたんだ」
サラドが指した卓には、テオが選んだ保存食の瓶と皿と匙が置いたままになっている。絵の道具もあるが筆は進んでいないようだ。
「えっ 朝は元気だったけど。風邪ひかせちゃった?」
昨日、休憩も促さず、寒空の下で放置していた自覚があるシルエとノアラは慌てた。
「多分、知恵熱かな。ここのところ順調だったけど。まだまだ身体の成長は追いついていないし。昨日は微妙に知り合いって感じの人が周りにたくさんいたから、思った以上に緊張していたのかもね」
「だから余計に調査書の作成に集中していたのかも」とサラドは眉を下げて微笑む。
「ほら、みろ。いつもテオに仕事を振り過ぎるなって――へっ…ぶしゅ、あー…」
「ねぇ、その『あー』ってなに?」
「あ?」
「ディネウも風邪?」
「いや、これは、違う…と思うんだよな。なんか、こう…。ゾクゾクというよりゾワゾワなんだよ」
「何が違うの? もう、認めちゃいなよ。鬼の霍乱だってあるよ」
「うるせぇ」
サラドが体を温める効能を考慮した材料を用意し、小鍋で煮出す間もシルエはその傍をうろついて離れない。待ちきれないとばかりに棺からミイラ化した子供が消えていた旨を説明しだした。
サラドの目が見開かれ、手が一瞬止まる。
「びっくりだよねー」
「サラドも居れば良かったのだが。きっと僕らだけでは気付けないこともあった」
ノアラが残念そうに言い、今日のことを記した紙束を渡す。それと交換のように三人には即席で作れる保存加工した豆を使用したスープが出された。穀物も入っていて、その一品でも充分に腹を満たす。
サラドは小鍋の火加減を見ながらも書類に目を落とした。シルエはその横で立ったまま食べ始める。ノアラも卓へ移動することなく、ディネウが引き寄せた背無し椅子に腰掛けた。
竈の火を囲む四人の間にあった僅かな緊張をシルエが破った。
サラドは罪状など書き留めたものを読みながらも、シルエの話に相槌を打つ。
触発されたのか、どうしても気になるのか、ノアラも短い言葉を挟んだ。
二人の着眼点はその力同様に異なるので、互いを補完し合う。
よく頭がこんがらがらないなとディネウは感心しつつ、やや熱のこもった喋りを聞いていた。
サラドが書類をパラリと一枚捲った際に、小鍋をゆっくりと撹拌する。ふわっと癖のある香りが立った。
次の頁が、収監施設の地下に伸びる基礎構造をノアラが計測値に基づき予想した図と、石柱、牆壁の防御機能の関係であるのに気付いたシルエは「それ、ね…」と顔を歪ませる。
規模はかなり違うが、王都の結界と秘された水鉢は同じ手法を用いたものだろう。
都の守りを維持するのに必要となる魔力。それを補うための犠牲とは、本当に多勢から微量ずつで済んでいたのか。
壊したことへの後悔はないが、もう調べられないのは惜しい。
サラドは暫く書面と睨み合ってから、先に進んだ。読み終えると、ふぅと息が漏れる。力なく下げられた手からノアラが紙束を受け取った。
「その子…の、体は…」
絞り出すように言ったサラドの面持ちは悲痛で、続きの言葉は呑み込まれた。
小鍋を火から下ろして、濾し取りながらゆっくりカップに注ぐ。ノアラの分に蜂蜜を追加で垂らした。
受け取ったディネウは渋い顔をして「不味けりゃ、不味い方がマシなんだがな。後味が中途半端に甘いと余計に口に残るっつうか」とブツブツ言いつつ口をつける。
暫く三人が茶色の液体を飲むズズという音だけが響いた。
「…あの壁を越える際、オレたちは警告程度の攻撃しか受けなかった。動けはする、けれど、また通ろうとは思わない痛み。でも、それが罪人と指定された者の場合、無事では済まないだろうと思って」
気を紛らわすようにサラドは後片付けを始める。スープの鍋も器も洗い終わっていた。
「あー…。生命反応の有無も関係するかもだけど…。そうだ、ね」
シルエは言葉を濁した。あの場に施された魔術の水準の高さ、それと容赦のない構造から察するに、出た途端に消し炭なんてことも有り得そうだ。ただし、既に『死』が与えられたと記録されていれば『物』扱いであることも考えられる。
「あの箱に手向けられていた花は外から持ち込まれていたけど…」
「死霊術で操った小動物に運ばせた、とかが考えられるね。だけど、あの重たい蓋を開けて、子供とはいえ人ひとりを連れ出すとなれば…難しい。自ら行うなら…命がけだね」
サラドの言わんとしていることをシルエが続けた。
「初見で、蓋と内部の様子から最近開けられたと判断し、それまでは魔人がそこにいたと仮定したのは誤りだった」
ノアラが苦苦しく言う。
「確かに、あの警備体制で自由に出入りなんかできないもんねぇ」
記憶を探るように目を瞑る。
開いた蓋の状態はどうだったか。獣がぶつかった偶然か、故意に開けさせたか、それらを示す痕跡はなかったか。検証せずにほぼ断定してしまったことを内省する。
「もともと足取りが掴めねぇ相手だ。そこにいないってことに変わりはねぇだろ。魔人とそこに関わりがあるなら、深刻になるよう間違いでもねぇだろ」
ディネウの言葉にシルエとノアラは少し気を緩めた。
「昔、戦った時って影じゃなくて本体だったんだよな? どんな姿つってたっけか?」
「小柄な、中年男性。顔色が悪く、痩せていた」
ノアラが答える。
「あのコとは随分年齢差があるねぇ。そしてその後の二十年、順当に加齢しているとすれば…」
「もう、いい歳だな」
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