243 「大丈夫」
自然と覚醒したニナは深く眠った感覚に戸惑い、上体を起こしても暫しぼんやりとしていた。呆けてはいるが、頭の鈍痛も疲労感も、いつになくスッキリしている。夢を見た記憶はないが、残像のようなものに心がざわつく。体の内がむず痒い気がして、ブルッと震えが走る。くしゃみがひとつ出た。
「風邪ひいた? 大丈夫?」
心配そうな声でサラドの存在を思い出したニナは驚きに肩を跳ねられた。意識を失う直前、頭をその膝にのせたこと、柔らかく包むような手が下りてきたことを思い出し、じわじわと羞恥が押し寄せてくる。
「な、何ともない!」
プイッとサラドから顔を逸らしたニナの髪に生温かい微風が当たった。
――ニナ? やはり、いないか。困ったな。出発はもうすぐなんだが…。最悪、後からでも合流してもらえるよう、言伝を頼んでおくか
「ん? ショノアの声だね。ニナを探しているみたいだよ」
まるで、ニナの目覚めを待っていたかのように聞こえてきた『外』の音。
「どうする? 戻る?」
サラドの問いかけに、否応なしに体が小刻みに震え出す。ニナがここに居る理由は――
「王都がおかしいんだ。特に王宮周りは顕著で、ぐにゃっとしてて、あの裂け目が来るときに似ている。それが、とても大きくて、…怖い」
ニナは抵抗なく恐怖の言葉が溢れたことに自分で驚き、咄嗟に口を手で塞いだ。痛みや弱さを見せるなど、特殊部隊の訓練では言語道断だったのに。
「ニナは今、王都にいるんだね?」
ニナが弱々しく頷く。
「…。集中しているのは、堕ちた都ではない?」
サラドが思案げにボソリと疑問を口にする。その意味はニナにはわからない。
「王都か…」
無意識にサラドのマントを握っていた手をニナは慌てて引っ込めた。
(まるでセアラみたいだ。何、似合わないことを…)と苦笑が漏れる。
マントの裾が揺れて、隠されていたランタンの赤い光が目を刺激した。チラチラと揺れる炎がじっとこちらを見ていると錯覚し、俄かに緊張が走る。
不可解な行動も合わせ、ニナは(どうかしている)と己を叱責した。
「あんた、変に頑固だよな。王都どころか、王宮だって、あんたなら誰にも見つからずに潜入できるだろうに、律儀に王都には入らないなんて」
僅かであれ期待している心を否定するかのように、『一緒には来ないだろう?』と確認を込めて指摘する。
「…約束、したし。もう迷惑をかけたくないからね」
サラドの微笑みは寂しげで、ニナは曖昧な相槌を打った。直接赴けなくともサラドが王都を気に掛けているのがわかる。
小娘には到底理解できない複雑な経緯に、そう簡単には解くことができない誤解が絡まっているのだろう。
サラドの言う約束は(正式な決め事ではなさそうだが)とは突っ込めない。
(わたしが戻るか、別の場所に逃げるか、何かしら決意するまで、待ってくれる気なんだろうか)
それでもサラドは行動に移さず、ニナに寄り添っている。
(…もし、保護を求めたら、このまま連れて行ってくれるんだろうな)
そんな想像が疑いもなく浮かぶ。ニナには甘すぎて毒にもなりそうな選択。
サラドの表情を窺えば、不安など微塵も感じさせない飄々とした様で「ん? どうかした?」と首を傾げた。
ニナは恐怖に立ち向かう覚悟を決めるかのように「フッ」と勢いよく息を吐く。
「…わたしは戻る。大丈夫。出発するみたいだから、逃げられる。…王都に何が起こるかは知らないが」
「そうか、…うん。そうだね」
気丈に振る舞うニナを、サラドはポンポンと肩を叩いて励ました。
「じゃあ、行く」
「うん。気をつけて。また、ね」
サラドに背を向けて一歩踏み出す際に赤い灯火の残光が尾を引いた。
馬房の隅に居ると認識すると闇が薄まっていくのを感じる。
「ブルルッ」と馬が鼻を鳴らし、鼻息が髪を揺らした。いつもとは違い、奥側を向いて立っている。
「ずっと…ずっと、気にしてくれていたのか」
ニナは斑模様の大きな馬に手を伸ばし、首筋を撫でる。生き物の体温と指の間を抜ける毛並みが心地よく、癒やされる。
「…ありがと」
返事のように「ブルルッ」ともう一度鼻を鳴らされた。大きな体躯の馬には狭く感じられる馬房の中で、ニナを気遣うようくるりと向きを変える。落ち着く体勢を探すように脚が踏み鳴らされた。
「ニナ? ニナか?」
いつもゆったりと構え、あまり動かない馬の行動に、厩を去ろうとしていたショノアが振り返った。
「…良かった。よく戻ってくれた」
ショノアは「どこに行っていたんだ」などと責めるようなことは一言も言わなかった。第一王子から任じられた用件と、「やむを得ず他の御者を雇っていたらセアラに嫌われるところだった。任務の遂行も怪しく、正直不安だった」という本音を漏らすと、心底ほっとした様子で厩を後にした。
辺りが静かになってからニナはそっと振り返った。そこは木板の壁で、一面の闇など、どこにもない。
本来、そこにあるはずのない灯火が見える気がして、目を凝らす。優しい、赤い光の気配はひと呼吸おいてからゆらと揺れて、ゆっくりと遠ざかっていった。
「…ありがと」
ニナはそちらに向かって、小さく、本当に小さく、息をするくらいの小声で呟く。
心の中で自分に言い聞かせるために唱えた「大丈夫」は、サラドの声と口調だった。
王都は相も変わらず雨が続いている。しとしとと強弱の変化もなく降る様は最早、不気味である。
第一王子の出発は手間取っていた。どうにも馬が不機嫌で、統率がとれない。なるべく落ち着きのある馬を選んでも、馬車に繋ぐ段階になると暴れたり、他の馬と相性が合わなかったりと、何度も入れ替えをしている。馬丁たちも「こんなことははじめてだ」と頭を抱える始末。
馬たちの不調は悪天候のせいばかりではなく、怯えだろうとニナは判じた。人よりも馬たちの方が王都に迫る『何か』を鋭敏に感じているのだろう。
護衛らの騎馬と仰々しい馬車の隊列に加わりたくないニナは、その遅れを良いことに、さっさと馬車を出した。先行するのは、道順の確保及び円滑な案内のためという正当な理由もある。
途中の宿泊休憩もすぐ決まり、傷害や事故もなく順調に進み、ショノアたちは前回と同じ場所に馬車を停めた。ここから先は道らしき道がなく、歩いて行くしかない。
「あの、本当にこれを使うんですか?」
マルスェイは丈夫な麻袋をギュッと掻き抱き「渡したくない」と主張する。
「だって、これでなくても! 他の物で代用できますよね? ちょっとくらい道程が長くったって良いじゃありませんか」
この遣り取りも何度目になるのか。ニナは会話を無視して、馬の世話を始めた。暫くここで待たせることを言い聞かせるように、ブラッシングをする。
「マルスェイ、いい加減にしろ。また蒸し返す気か」
「マルスェイ様、帰りがてら再度集めるということで納得されたのでは」
ごねるマルスェイをショノアとセアラの両者が同時に宥めにかかった。
「うう…。本当に、本当に、絶対ですよ! 殿下の指示があっても、必ず、集める時間をくれるんですね?」
「ああ、約束する」
ややうんざりした口調でも、ショノアが言い切れば、マルスェイは渋々差し出した。麻袋はショノアの手を経てニナに渡される。
ずっしりと重い麻袋の中身は、透明な塗料が付着している以外は何の変哲もない小石。移住地で井戸掘りに適した箇所を探る際にサラドが目印として置いていたものだ。魔力を受けると、塗料がほんのり光る。
マルスェイがひとつ残らず回収し、研究対象として大事に保管していた。
出立する際に「役立つから、持って来い」と伝えられただけのマルスェイがその理由を質問できたのは道中の休憩時になって。
ニナは湖畔までの道――確実に迷うであろう道程――を定めるためだと端的に述べた。
「これを使えば、不要な経路を省ける。他の目印では不可能だ」
詳細な説明がなくとも直ぐ様、その有用性を理解したマルスェイは「なるほど」と膝を打った。今一歩わかっていないショノアとセアラに、何故かマルスェイが自慢気に解説する。
予め決めていた数を落としたら、一度セアラに索敵をかけてもらう。ぼやっと光る小石が作る道筋を確認する。遠回りの箇所を抜き、確定した部分には目印をつけ、また進む。
地道な作業を繰り返すことで、狂わされた方向感覚を修正し、最短の道を導き出せる。
「…ですが、地に放り投げるなんて、認められなせん」
小石の使い道にショノアもセアラも賛同しようとしたが、その前にマルスェイはキッパリと否を突き付けた。
「いや、待て。前も地に置く形で使われていただろう? それに、さっきは如何に使えるかを語っていたのに、使わせないとか、何を考えているんだ?」
「それとこれとは別問題です。この小石…ああ、正確にはこの塗料ですがね、これは素晴らしく、貴重な資料なんですよ。失うわけにはいきません」
「そもそもマルスェイのものではないだろう?」
「何を! 私が拾い集めたから、ここにあるんですよ! 私に権利があります!」
それから後、馬車内ではマルスェイの説得が繰り返された。
御者台のニナにも聞こえる問答は堂々巡り、すっかり飽きている。
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三年目に突入です
予定ではエンディングを迎えているはずだったのですが
最近、更新ペースが落ちていまして (;´д`)
毎日や定期で更新されている作者さんって本当に凄い (*゜∀゜)