241 噂操作
ルビの修正をしました
シルエがペンを持つ手をピタッと止めた。カリカリという音が止んで、一瞬、しんと静まる。ディネウはいつものように二の腕か脇に攻撃がくるものと身構えた。椅子の脚を半分浮かせていたため、ガタンと音が立ち、静寂を破る。
「あー、ダメだ…」
不機嫌そうに独言し、シルエは書いたばかりの数行分にぐしゃぐしゃと横線を引いて潰した。ペン軸の先を額にあてて考え込んだ後「違う…こう、だな」と一気に書きなぐる。
ディネウは再び椅子の背に腕を預け、力を抜いた。
「…それは?」
ペンの動きが緩やかになるのを待って、ノアラが遠慮がちに聞いた。
「ここまでが聖都神殿の結界を保つ〝祈り〟の文言。で、今書いているのは、それを分解した式。まだ、途中だけどね」
書きかけだという、長ったらしい式にノアラがスッと指先を伸ばした。対面からでも問題なく文章をなぞり、所々で指を止めていく。
「この箇所は魔術にある特徴と酷似している」
「やっぱり! ねぇ、こっちも見て。王都にあった結界の式」
シルエが書き終えている一枚をノアラの前にペラリと出す。文字、文様、記号でびっしりと埋め尽くされた紙面に目を通しだしてすぐに「結界?」とノアラが訝しんだ。
「これは魔術ではないのか?」
「そうだよね! そう見えるよね!」
手を止めることなく、シルエが声を弾ませる。
「昔ノアラが見つけた古代魔術にも、僕が奇蹟だと勘違いしたのがあったよね。高難易度の奇蹟にさ、文言を分解すると魔術と類似型の式が挟まれているのがあって。やっぱり古代の複雑な術は魔術も奇蹟も、区別なかったんじゃないかな。基礎の術だけ見ると別物でも、力の使い方によって枝分かれした結果であって、強大な魔術師にとってはその壁はなくて――」
他の事例も次々に挙げて、熱っぽく語るシルエにノアラの頷きも早くなっている。
ディネウは今シルエが書いている方をチラと覗いた。密なところと薄いところがある線は暗号文にすら見えない。祈りの文言は辛うじて読めるが、最初の数行を目で追っただけで眠くなり、遠慮もせず「くぁっ」と大欠伸をした。
長くなりそうだと察したディネウは黙って席を立ち、酒と燻製肉を手にした。鍋に煮込みがあったので、大雑把に三等分する。
シルエとノアラの論議はなお白熱し、ディネウが椀を二人の前に置いても、酒を傾けても気に留めない。
しばらく待ったが、魔人や魔力帯の話に戻る様子がなく、痺れを切らしたディネウはそろりと手を挙げた。
「なぁ、すげぇ盛り上がっているところ、悪い。話についていけないんだが」
「あ。ごめんごめん。ちょっと逸れちゃった。今はこれを論じている場合じゃなかったね」
珍しくもシルエが素直に謝り、別の紙にササッとメモを取った。ノアラと話した内容が余程有意義だったのか、機嫌が良い。
「二つの『結界』から共通点を探っていけば、隠された術が推測できるかなって。とはいえ、二箇所だけだと弱い。時代か、構築した者の実力差か、『結界』の主軸になる防御にもまあまあ違いがあるんだ。堕ちた都も調べられれば、もっと確信に近付けると思うんだけど」
「堕ちた都の再調査は価値ある」
ノアラがこくりと頷き、意欲を見せた。
「大きな力は、大きな歪みも生む。古代に魔術師たちが世界を渡ることにした切っ掛けでもある『歪み』は『堕ちた都』上空で発生したと推測する。その『渡り』も歪みを強めた一因でもあるだろう。
十年前の、裂け目を生む暗雲の発生は運良く海上だった。精霊の均衡が崩れたことで、長く穢れに冒されていた火山島に傾いていたのと、火の最高位精霊の助力があり、引っ張ることができたお陰だ。
もし大陸上で開いたら被害はもっと甚大だったに違いない」
地図上の『堕ちた都』を指していたノアラの指はゆるゆると円を描きながらその外周を広めていき、王国の国境手前で止めた。
「あー、だから堕ちた都を囲む結界はやたら強固なのか。被害を都内で収め込むために」
「誰も入れる気ねぇのは、この世界に残った人間が都に戻らないためか」
「この世界に残る決意をした…もちろん、残らざるを得なかった者も含めだが…、人数はそれなりに多いはずだ。でなければ、人々の営みは現在に繋がらない」
国境付近の森や山中には小さな遺跡、集落跡が複数見つかっている。
「隠れ里の先祖もそうなのかな。世界を渡ったところで、『魔力』という力関係は変わらない。煮え湯を飲まされるなら、災害後の苦労が目に見えていても、この世界で生きて行こうって決意した、とかね」
たまたまか、それとも意図してか、止めたノアラの指先の延長線に魔術師の隠れ里がある。弔いを唱えられるだけの沈黙が落ちた後、シルエはしんみりした雰囲気もなんのそので、椀に手を伸ばして食べはじめた。
ディネウは「気付いてはいたんだな」と思ったが態々口にはしなかった。
「なにこれ? あっためてないの?」
「冷めてても食えるだろ」
「あったかい方が断然美味しいのに~」
文句を言いながらも、シルエは煮込みをぺろりとたいらげた。椀に投げ入れられた匙がカランと小気味良い音を立てる。
「よし、じゃあ明日、早速、堕ちた都へ行くとしよう」
律儀にもノアラは煮込みを飲み下してから頷く。
「で、ディネウの方の情報は?」
「王都の様子が報告されたんだが、ちょっとした混乱みてぇでな。使い切ってもう無いっつうのを信じない奴等が、薬を寄越せって騒いだり、貴族連中が官警と衝突したり、だな」
ディネウは王都に潜入している傭兵から聞いた寄付薬についての報告を二人に話した。
「えー、お腹ピーピーになる人が続出かと思ってたのに。つぅまんないの。本当に短期間で使い切るとか、アオさんの人選スゴイね」
「瓶のその後については?」
「管理していたはずの空き瓶が知らぬ間に形がなくなったとかで、盗人捜しをしているらしい」
「あらら。責任者さん、かわいそ」
シルエはカラカラと笑うが、負の効果付きの瓶を生み出してしまったノアラは眉間の皺をいつもより少し深くして、ぎゅっと拳を握る。
「結果、良かったろ。証拠隠滅できて。空き瓶を後生大事に取っておかれる方が嫌だろ?」
慰めるように肩に伸されたディネウの手をノアラは身を捩って器用に避けた。
「で、傭兵の方からは目を逸らせてるの?」
「あんま人前に出ないようにしているのもあるが、新たな被害は聞いてねぇな。『丁寧なお願い』をしてくる輩は相変わらずいるみてぇだけど」
アオが釘を刺したにも関わらず、薬の作製者は捜索されている。寄付を終えて去るアオも追尾されていたが、ノアラがついているのだから足取りは途切れ、掴めるはずもない。
港町の酒場のマスターは金子を積まれたところでなびかないし、暴力に訴えようとしたところで返り討ちにあうのが関の山だ。
「ご苦労さまだね」
寄付の追加が望めていないのに、王宮には薬の配給要求が寄せられていると聞いたシルエは苦笑いをした。
納入がまだ滞っている中、王都の兵が『良く効く薬』で手厚い治療受けたという話が他都市にまで伝わっているのは、諜報担当の傭兵が働いたということ。
また、シルエを慮って面白可笑しく吹聴するようなことはしないよう指示したのであろうと推察したシルエは、ディネウの横顔を窺い見た。
すぐ腐る点はあまり話題になっていないと語るディネウは、ごにょごにょと言葉を濁している。『日持ちしない』と知らしめることで、偽造や詐欺防止を図ろうとした思惑は外れた、と。
「ま、噂を操作するのって簡単じゃないよね」
人々は手の届かない『薬』の存在には食いついたが、詳細まで気が回る段階ではないのだろう。
それでも、王都の城下で、手の施しようがない傷痍兵が快方に向かうのを直に目にした者の言葉は人の口から口へと広がっている。薬の効能は傷ばかりではないという羨望と期待の噂となって。
もう一点、王都を揺るがせているのは、薬の強奪という罪を犯した者の身柄が拘束されたこと。そこに、どんなに疑わしくとも捕まることなどなく、訴えることさえできなかった身分の者が連なっている。
また、高額での薬の売買という罪に問えるかどうかの者も、入手先の調査という名目で出頭が命じられた。
「良い傾向でしょ。ま、女王にとっては正念場かもね」
この一件から、過去を遡って身辺が洗われるかもしれない状況に、上層の者たちは戦々恐々としている。
「民はその英断を称賛し、支持しているが、貴族連中は良からぬことを企んで結託しねぇとも限らんな」
「そこは、僕らの知ったこっちゃない」
政争で民が混乱に巻き込まれようとシルエは「関係ない」という態度を崩さない。反論はしないけれど、同意はしかねるという意味を込めて、ノアラは小さく首を傾げた。
「あとな、雨が降り続いているらしい」
ディネウが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「へぇ、この時期に?」
「ああ、聞いただけだが…、ゾワゾワするっつうか、なんとも気持ち悪くてな」
「ふーん。ディネウの勘がそういうなら、そっちも確認してみた方がいいかもね」
ディネウは「ああ」と短く返事し、寒気を追い払うように二の腕をバリバリと掻いた。
荷運びを生業とし、街道を行き来する者から、王都から物資の搬入を急かされているという愚痴も出ている。生活維持というよりも、よりよい暮らしのために、安全な都から出ようしない者たちの代わりにその身を危険に晒せと命令されているようなものだ、と。
この度の魔物騒動で街道の安全が脅かされても、王都からこれといって目に付く支援はなかったのに、と不満を隠せない。
実際には納税の減額や防衛費、修繕費の支給があるのだが、街道の利用者や一般市民はピンとこない。
薬を欲して一悶着したことのある行商人が、『王都の中は安心安全。そのうえ、薬もあるなんて。どんなに窮しても、地方の民はその恩恵に与ることはない』と、静かな怒りにも似た感情をぶつけてきた。
報告内容にある悪感情に、ディネウは知らず奥歯を噛む。
こうしている間にも、王都内の噂も次第に苛立ちと不平不満に変わっていた。