24 裂け目の向こう側
聖都の二つ目の壁の内側、神官たちが生活する区域の端、神殿を守り囲う壁の近くに物見の塔にも似た建物がある。頑丈な石造りの、以前は倉庫として使われていたその中で、粗末な設えの部屋の主は空で弾けた魔術の気配にすぐに気付いた。同時に聖都の牆壁と街道を守る結界に触れる気配にも。
主は顔を上げて、その窓にチラッと目をやった。
この部屋には外を眺められる大きさの窓はない。申し訳程度の明かり取りの窓は手を伸ばしてやっと触れる高さにあり、一般にはまだ高価で普及していないガラスが嵌め殺しにされ、ご丁寧に鉄格子までついている。
壮年期に入ったばかりだが、見た目では年齢が判別できないほど衰えているこの部屋の主。整髪油で梳られ頭にぺったり添う金色に見える髪と痩せこけて目ばかりがぎょろりと印象的な顔は髑髏のようで、その体つきを隠すように詰め襟のシャツに、ゆったりとした身丈の長い衣を重ねている。神官でも見習いでもない衣装は素材も絹などの高級なものではなく装飾も殆ど無い。
骨と皮となった手を止めると、書き物机から離れ勢いよく立ち上がった。扉も木戸と鉄格子の二重になっている。
扉の前には彼の護衛という名の監視が立っていた。聖騎士の制服を纏った背の高い鋭い目の男。
「お待ちください。導師殿、どちらへ?」
「あの方に謁見を求める。連絡してこい。結界に異常がある」
導師殿、と呼びながら敬う気のない目が部屋を出て行こうと鉄格子に手を掛けた男を見咎める。
「…止めるな」
静かでありながら有無を言わさぬ導師の声に聖騎士の男は怯んで、一歩下がった。
「導師様のお側には私がつきます」
問答を聞きつけて隣の部屋で控えていた一般兵の制服を着た男が出てきた。聖騎士は仕方がなさそうに先だって階段を下る。続く導師の足取りは重く、歩幅が狭い。
導師とその護衛二名のみが住む建物を出ると聖騎士は立ち止まり振り返った。
「迎えに上がるまで、ここでお待ちください」
導師の住まいと神殿への壁の距離は近い。元は壁の一角だったのを壁の修復で独立させたのか、塔の扉と壁の通用門は向かい合わせで、塔の壁の一部分は石の色が違う。壁側の通用門は狭く小さい扉のため礼をするように腰を折らないと潜れない。そこに立つ門番と話をつけた聖騎士は内側に消えていった。
導師は空を眺めた。青い煙が少しだけ残っている。そこに見て取れる魔術の残滓に確信を持った。
(救援信号か。その連絡先や作り手の情報は完璧に隠蔽されている。そこまでしなくても読み取れる者などいなそうなものを、慎重だな。間違いない。こんなもの作れるのはあいつしかいない)
聖騎士が戻るまで導師は静かに気を張り巡らし結界付近の邪気を探った。結界に触れて痛みを覚えたのか今は奥へと移動したらしく気配は遠い。
その佇まいを邪魔しない距離を保ち一般兵の護衛が痛々しいものを見る目で守っていた。
導師とこの神殿で第二位、副神殿長の地位にある高位の神官がまみえるのは必ず決まった部屋だ。
高い背もたれある天鵞絨張りの椅子はその地位を示すかのように絢爛豪華だ。細工彫りに金彩色を施した肘掛けに大粒の宝石で飾った手をゆったりと置き、副神殿長は口を開いた。
「これはこれは、導師ジェルディエ殿が会いたいと仰ってくださるとは何用ですかな?」
副神殿長という地位に相応しい慈愛に満ちた顔と残酷で享楽に満ちた顔を使い分ける初老の男は今、楽しそうに酷薄な笑顔を浮かべている。
椅子の背後には隠し壁の向こうに鉄格子の部屋、見た目通り牢と呼ぶべきか。暗く中の様子は窺えないがそこからヒクッヒクッと浅い呼吸が聞こえてくる。衛生状態の悪さを誤魔化すためか香が焚きしめられていて匂いがきつい。
「結界に触れたものがおります。確認に行く許しを」
「駄目だな。大切な御身自ら行く必要などない。聖騎士に…、いや兵士にでも行かせれば良い」
一段低い場所で跪いている導師の要請をしっしっと払うような手つきであしらう。
「それで、もし対処できず兵士が敗れるようなことがあれば、聖都への巡礼が危ぶまれるようになるでしょうね。神殿への信用も落ちるでしょう」
頭を垂れたまま退かない導師に副神殿長は苦い顔をする。
「一度、兵士に下見に行かせてからだ。すぐには認められん」
「では早急にお願いします。手遅れになる前に」
「…くれぐれも馬鹿な真似はするな。今度は手加減できないかもしれんぞ」
副神殿長が意味深長に装飾品でごてごてしい指で首をするりと撫でて見せた。導師はグッと奥歯を噛んで、この場は耐え自室に戻り許可を待つことにした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目の前に裂け目から出でようともがく爪。
頭に響く助けを求める悲痛な精霊の呼び声。
自警団の若者に渡した救援信号の魔道具の発動。
(どうする? 迷ってはいられない。裂け目は小さい。まだ押し返すことが可能だ。まずは確実にこれを閉じて――)
「亡者の掟を壊り現るる者に告ぐ。我が名はサラド。常世現世の狭間の門を護りし者の盟友なり。土に穢れを撒くこと――――ニナ!」
焦りで少々丁寧さに欠き早口となった詠唱の途中で、その声音から逃れるように移動した裂け目がパカリと口を開け、長い足をにゅっと突き出し、爪がニナの衣服を引っかけた。
「ぐっ!」
「ニナ!」
ニナは服を脱いで逃れようとするが爪が引く力はあまりにも強くズルズルと引き摺られている。咄嗟にサラドはニナの腰に腕を回したが、二人分の重さをものともせず、目の前に迫った裂け目に一息で吸い込まれた。
突如として陽光のきらめく林の中から暗闇に放り出され、二人はゴロリと転がった。
サッと体勢を立て直したものの、サラドは再びガクリと膝を着いた。
(力が入らない。息がうまく吸えない)
光を呼ぶが、もとより魔力が少なく辺り一帯を照らし出すほどの光は作れない。今サラドを照らすのは蝋燭ほどの頼りない灯りだった。
(魔力も押さえられてる。精霊の気配が全くない。早く脱出しないと、息がもたない)
僅かな灯りに照らされたうごめくモノ。全体像は見えないが、今はおとなしく足を折りたたんでいる。
サラドは這うようにそちらへ近付いた。
「黄泉路に迷いし魂よ。我が名はサラド。常世現世の狭間の門を護りし者の盟友なり。我が祈りは旅路を照らす灯火なり。その体は土へ、その魂は環の中へ還り、しばしの安息を」
息も絶え絶えの掠れる声でなんとか詠唱を紡ぎ、手をかざすとうごめくモノは霧散し、ひと粒の光がふわりと舞って消えた。
「…ニナ…出口…を…探そう」
カハッカハッとおかしな浅い呼吸をし、膝と手をついているサラドに対し、ニナは悠然と腕を伸ばし、何にも触れない空を探っていた。さながら舞いを踊るように。
「…ニナ…」
「先に戻ってくれ。こんな機会ない。もう少しここを調べたい」
「ニナ…は…息…だい…じょぶ…なの…か…それ…に、この…圧力…」
「何言っているんだ? なんともない。むしろ体が軽い」
サラドがふざけているとは思わなかったが、大袈裟だなくらいにニナは感じていた。
ずっと恐れるばかりだった裂け目の内側がこんなに静謐とした世界だとは思いもしなかった。体を這う怖気も生気を啜る感触もない。この中に投げ出されてすぐに不思議と心は安らぎ落ち着いた。
ここは父親が消えた先。悪い場所ではないことを調べられたなら、今まで抱えてきた罪悪感も薄れるだろう。
「出口なら、ほら、そこに。わたしは後から行く」
ニナが指した先には確かに林の風景が見える先の尖った楕円形がある。サラドにはそれまで辺り一面の暗闇でしかなかった。
「…無理…する、な…」
「無理しているのはあんたの方に見えるけど? 早く行けば?」
ニナはそう言ってサラドに背を向けた。まさに這々の体といった様子のサラドが視界の隅を掠め、急に引っ張り出されるように消えた。「がはっ」と首を絞められた声がした気がしたが、振り返った時には静かな林の様子しかその窓の先にはなかった。
ニナは腕をいっぱいに広げ、距離を測るために歩幅に注意しながら進んだ。相変わらず何にも触れない。足は下から支えられて立っていることに問題はないが、地面といったものはないように感じる。
天も地も右も左もない。
暗闇というより目に入るものが何もないという視野。
全容はわからないが、死体で溢れていることも、魔物がひしめいていることもない。
静かで穏やかな空間だ。
ここでうたた寝をしてしまいたいとすら思う。
ニナは名残惜しく思いながらも元来た方角にとって返した。林の窓はまだそこに、あんなに歩いたのに変わらぬ距離にある。
きっと、きっとあの時も父は開いた別の出口に抜けただけだ。この中に入ったら魔物も襲っては来なかった。ひとりきりでいても危険な目に遭っていない。
そう結論づけてニナは心も軽く林の中へと躍り出た。入ったときに引っ張られたような他の力を感じることもなく、ただその場で跳躍をしたかのように着地をした。
ピチュピチュと鳴く鳥の声。草を踏む感覚。体重を感じる体。無事に元の世界に戻って来た。
ゾワリと体を這い回す怖気が一瞬したが、振り返ると裂け目はきれいさっぱり消え失せていた。手を伸ばしてみても何もない。
だが、ニナは知らない。
閉じた裂け目の向こうでこちらを見る双眸があるのを。
「ミツケタ 我ガ種ヲ撒ク者――」
「おい、どこだ?」
ニナは辺りを見回した。随分苦しそうにしていたがそこにはサラドの姿はない。ショノアとセアラの元に戻ったのかと移動してみたが、そこにもいなかった。
「ニナ、一人か? サラはどうした?」
「一足先に戻ったはずだ」
「こちらには来ていないぞ」
「何か不測のことでもあったのでしょうか?」
迷子になった子供はセアラの腕の中ですっかり落ち着き、うとうとしている。そこへ子供を保護していた自警団の若者が両親と使用人、それから聖都の兵を連れてやってきた。
自警団の若者は憮然としている。聖都の兵との関係はよろしくないようだ。
「それじゃ、おれは仲間を探したいんで、失礼します」
迷子を見つけた一番の功労者である若者は一礼をして林の中へと去って行く。仲間は街道へ向かったと言っていたが合流は出来なかったようだ。
残されたショノアは家族に子供が「おいで」と言われ「こわいひと」に「バシッてされて」と話していたことを説明した。聖都の兵に子供と家族が付き添われ去った後もしばらく待ってみたがサラドは戻って来ない。
「まさか、と思うが先に聖都に入ったことなどないだろうか」
「荷物を置いたままか?」
「そういえば…。サラさんは聖都に入れないかも…と話していました」
「何故だ? じゃあ、逃げたとか?」
「理由は聞けませんでした。けれど、サラさんが逃げる理由なんてないと思います!」
セアラが珍しく憤然として語気を強めた。
「とにかく、ここにいても仕方がない。聖都の街門が閉まる前に入ろうか。後から来るかもしれん」
三人は街門にて検問に応じ入門税を納めて、念のため門兵に「仲間が後から一人来るかも」と伝えて聖都へと足を踏み入れた。