232 雨の王都
登城を命じられたショノアの心は鬱いでいた。
幾日も続く雨もその要因のひとつ。王都の空はどんよりとした厚い雲に覆われ、陽の光を拝めない。朝方か夕暮れ時のような薄暗さとはいえ、昼日中だというのに明かりが灯されているのは王宮だからこそだろう。
「よく降るな。雨垂れの調べは聞き飽きたぞ。まったく、憂鬱になる」
「いやぁ、雪だと音もしないだろう。あの静けさとあっという間に白く塗りつぶされる世界の方が不気味ではないかね?」
すれ違い様に偶然耳にした会話は危機意識の欠片もない。長雨に翻弄されて城下は活気を失っているが、自分の腹が痛まなければそれで良いという態度の者が如何に多いかを知る。
「相手が天候とあっては詮ないが…。なければ恵みを望み、多ければ迷惑だと言う。人は勝手だな」
窓を打つ雨の音に、ショノアは小さく嘆息した。
ショノアの先を行く案内役は謁見の間や応接間を素通りし、回廊を抜け、王宮の中でも中枢へ達した。勝手にうろつくことは許されない、大臣など要職の執務室が並ぶ区域だ。ショノアも警護の任務でしか来たことがなく、そわそわと目だけで周囲を窺う。
詳細は聞こえずとも、ザワザワとした話し声が漏れ、時に怒声も響く。顔色の悪い文官が慌ただしく扉を抜けていく姿も散見された。常とは違い、どこか落ち着きがなく不穏な雰囲気に、一歩毎に緊張が増していく。
女王の側近が退陣を迫られて引き継ぎが行われていることなど、ショノアは知る由もない。息苦しささえ覚える圧迫感に、寒気がするほどの緊迫感。その異様さも、国を動かす要人たちが集まる場所故だとショノアはひとり納得して気を紛らわせた。
案内役は更に歩を進める。並み居る重鎮よりも奥に御座すのはもう王族しかいない。途中から予測はしていたが、それでも「手違いでは?」という視線を投げてしまう。ショノアの戸惑いを他所に、案内役は役目を忠実に果たすため、少しも歩みを緩めない。
警護の関係上、建物の構造は頭に入っているが、近衛ではないショノアは踏み入ることがない範囲に気後れがする。王族専用の色を用いた絨毯を踏むことが躊躇われる。だが、否応なしに入室の許可が取られ、中へと促された。
そこは第一王子の執務室だった。王子は書類から目を上げてショノアの顔を確認すると、鷹揚に頷く。ショノアはガチゴチに緊張しながら挨拶の定型文を口にした。
「薬の件では大義であった」
「もったいないお言葉です」
薬の寄付者から指名を受けた立場で上げた報告書に何か不備や不足があったか、問題があったか、とグルグルと思い出す。
「楽にしてくれ」
第一王子は寄付された薬や市井の様子など、ショノアが見て感じたことを何でも良いので聞かせてくれと告げた。その手元は書類の端をピラピラと捲って弄んでいる。
報告ならば、物品管理者、衛生兵の監督、救護室の担当医師、寄付者の対応をした官吏、それぞれが提出している。それらを総合し纏めたものが王子に上げられているはずだ。
わざわざショノアを呼び出した理由を考えつつ、報告書にも記載した内容を一通り述べる。時折差し挟まれる質問にも正直に答えていく。
薬は運搬中に瓶が破損し、一部無駄を出してしまったが、概ね計画通りに使用された。ショノアたちは主に進捗や事故が発生していないかを見て廻った。
負傷した全ての者に投薬できたわけではない。重傷の者、後遺症が心配される者が優先され、軽傷と判断された者にまでは行き渡らなかった。もちろん、己よりも余程酷い傷の痛みに呻く同僚を前に、異を唱える兵はいなかった。だが、心の裡に不満がなかったかどうかは定かではない。
王子が引っ掛かっている事項は何なのか、その表情を注視していたが、どの箇所でも変化はなかった。
「城下の反応はどうだ?」
兵の詰所の近辺では薬の効果が噂になりつつあったが、今はまだ騒乱にはなっていない。その後の雨続きで市民の活動が鈍重になっているのは却って良かったといえるだろう。官警隊も睨みを利かせている。このまま冷静に受け止められると良いのだが…。
王子が机上の書面に目を落とした。爪先がコツと音をたてる。
「その後の薬瓶についてはどれだけ知っている?」
実のところ、薬は一服のみ手つかずで残されていた。事故対応用に除けていたもので、最後のひと瓶だ。
得も言われぬ悪臭が放たれたことで異常を察し、保管庫の鍵を外して見ると、瓶が壊れ、中身が溢れていたという。封の葉はすっかり枯れていたが、口部分の破片を見るに、開けた様子はない。
念のため、使用済みの薬瓶を確認したところ、ひとつも原形を留めていなかった。厳重に閉じられた木箱の中で、元の数が把握できないくらいの破片や崩れた土と化していた。
寄付の代理人は『空瓶の再利用は不可』『壊れやすい』と忠告していたが、焼き物の瓶がこんな短期間で自壊するとは誰も考えない。
薬を盗もうとした者が力強く握ったために割れたのだとか、薬瓶を盗んだ者が代わりの破片や土を入れて、発覚しにくくしたのではないかと囁き合う。どちらも内部の者でなければ手が出せないはずなので、犯人捜しは徐々に苛烈になっている。
ショノアは「あ、」と呟いた。
(そういえば、あれは…、そういうことだったのか)
何の説明もなく、いきなり手の平の匂いを嗅がれ、ぎょっとしたのを覚えている。きっとショノアらにも疑いが掛けられていたのだろう。犯人の手や服には強烈な臭いが付着しているだろうから。
この事態に物品管理人は肩を落としている。指名を受けた彼は非常に真面目で責任感も強い人物。盗難や不正利用には特に目を光らせていた。投薬中も関係者以外が容易に触れることがないよう徹底していたし、使用済みの薬瓶は全て回収、数もきっかり合わせている。木箱に釘を打つ際はショノアも立ち合って確認したのだ。
「セアラの話では、聖都でいただいた妙薬の瓶は同一のものではないということですが…。薬の品質が瓶に何らかの影響を及ぼすことがあり得るのか、参考までに聞いてみます」
「移住地でも素晴らしい祈りを見せてくれた神官見習いのビショフ嬢だね」
「はい」
「其の方らはその後も騎士、兵士たちを幾度も見舞ってくれていると聞く。大勢がその祈りに救われていると」
投薬後の診察、経過観察を行う医師と衛生兵に伴い、セアラは希望者ひとりひとりの手を取って共に祈っている。セアラに祈りを望む声は絶えず、忙しい日々は続いていた。ショノアとマルスェイはセアラの護衛と補助として付き従っている。しつこい患者を引き離すことも一度や二度ではない。
「今、『聖女』を兵士から取り上げては恨まれそうだな」
王子が悪戯っぽく笑む。
ショノアはドキリとした。あれからセアラは王宮に滞在を続けている。表向きは一人でも多くの要望に応えるためだが、本当の理由は王都の神殿が彼女を不当に扱い、利用することを避けるためだ。もしや、セアラを帰すように神殿から苦情があったのか。
「其の方らは陛下直々に視察を命じられているそうだが、しばし、私に付く許可をいただいた」
「殿下に…でございますか」
「ああ、出発の準備をしてくれ。北の神域に参拝を。先般、我々は湖畔にすら辿り着けず、そこに非常事態ということで、果たせなかったからな。其の方らに導いてもらいたい。ビショフ嬢にも改めて祈りの奉納を依頼をする。我が国の民が働いた無礼を謝罪し、怒りを収めていただかねば」
「怒り…ですか」
セアラを神殿に帰さずに済みそうなことにほっとするが、困惑もある。
「そうだ。北の神域は霊峰と、王国の水源でもある湖。『水』の司るところ」
冬期の王都は積雪も殆どなく、どちらかといえば晴天が多い。時折乾いた風が吹くが、火の加護故に火災もなく、安全で暮らしやすい都として評判だった。農閑期の出稼ぎ先としても一番の人気だった。
そう、だった。
この時期の長雨など稀。天候回復の兆しは見えず、水路の氾濫も時間の問題だろう。
倉庫の床から雨水が流れ込み、備蓄の食糧が一部被害にあった。予期せぬ雨量に移動が間に合わなかったらしい。城下の各家庭でも大なり小なり冬超え用の保存食に影響が出ているだろう。
また王都とは逆に、例年ならば雪に覆われる地域が晴天続きで気温も高い。季節の始めに降った雪は溶けてしまった。「今年は暖かくて過ごしやすいな」と呑気でいられたのは最初のうちだけ。雪下で保存するはずの野菜類が腐り出し、収入源と食材を失い、困り果てている。
雪の中で眠らせた野菜は生鮮を保つだけでなく、甘味が増す。真冬に納入されるそれらは王都でも貴重だというのに。
慌てて塩漬けや吊し干し等に変更したが、それだって冷え込みがあってこそ完成するもの。
まだ氷も張らず、このまま暖冬となれば夏に向けた氷室作りも心配される。
ただでさえ魔物の活動で王都への物流は滞っていた。飢えるほどではなくとも、民は不便や我慢を強いられている。不平不満の矛先が統治者へ向かうのも待ったなしの状態。
王子には焦りがあった。
火災、魔物、長雨、次々と王都を襲う災害に求心力は低下の一方。臣下の忠誠も揺らいでいる。やはり長年女王の側近を務めていた者の影響力は大きい。また、不正の洗い出しや密告を受けて捜査中の者に高位貴族も多い。王配である父は気を乱しており、頼れない。今が正念場だ。
(今度こそ、私がしかと務めねば)
難題に頭を悩ます女王の力に。後継者としても、息子としても。
仮令、参拝など無駄なことと嘲笑されても、天候不順と神域に関係がないのだとしても、姿勢を示し、民を安心させなければ。
王子は苦悩などおくびにも出さず、膝の上でぎゅっと拳を握った。
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