23 裂け目を誘う者
夕食までの間、情報を聞き込みに行くという名目でニナは一行の元を離れた。
巡礼者の厳かさと観光客の賑々しさ、そこに魔物の脅威は感じられない。人々は平和を享受し、平和を願っている。
この任務に就いてから小鬼、海での裂け目、巨大な山鳥、そして昨日は裂け目から巨大な山羊が出現した。これは偶然なのだろうか。
ニナは自分の手の平をじっと見つめた。
おもむろにそれを天に突き出し、強く念じてみる。プルプルと震えるほどに力を込めるが何の変化も訪れはしない。少しの安堵と焦燥を湛え、腕を下ろした。
(馬鹿げてる)
ニナは自分の考えを切り捨てるように心の中で呟き、指を握り込む。
(あれをどうにかできるなんてことあるはずがない。全部、偶然、だ)
町中に戻ろうとしたニナは街道脇で話し込むサラドと体格の良い二人組の男を見つけた。そっと気配を殺して話が聞こえる距離を詰める。
「…そっか。今のところ被害がないのは良かった」
「ディネウの兄貴から警戒が伝えられてからは自警団の警らを強化しています。俺たちだって役に立ってみせますよ!」
「じゃあ、これ、」
サラドは何か小さな物を手渡している。受け取った男が小石ほどの物を摘まんでしげしげと眺めた。
「もし、万が一のことがあったらこれをこんな風に投げて。救援信号を送る魔道具だよ。使い切りだけど。ディネウにも伝わる」
足下にある小石を拾い上げたサラドはそれを放り投げた。下手で投げられた石は垂直に天を目指し鋭角の放物線を描いて少し離れた場所にパサリと落ちた。
「すげえ! 魔道具? 初めて見た。こんな石にしか見えない物が!」
「救援を求むって念じてくれ」
「ありがとうございます! こんな貴重な物を!」
「術を刻んだのはオレじゃないから」
ひらひらと手を振って男たちと別れたサラドは真っ直ぐにニナの方を向く。ぎょっとしつつもニナは予断なく身構えた。
「…いつから気付いてた?」
「えっと? ニナがこっちに気付いた時には。話が終わるのを待ってくれていたのかと思って。オレに何か用?」
居心地悪く、サラドとの距離を測り、いつでも逃げ出せる体勢を取る。
「何のつもりだ? 薬だの、菓子だの、わたしはセアラのようにあんたに懐いたりしないからな!」
「ニナのこともセアラのことも手懐けようだなんて思っていないよ。ただ、甘い物は美味しいだろ? …痛みは少しは治まった?」
ギッと睨むニナの目元にサッと朱がさした。その反応を見て、薬は使ってくれているらしいとサラドは判断した。
「…あんた、何者だ? その身の熟し、気配、…同業者か?」
「オレは暗殺者ではないよ。縁あってちょっと教わったことはあるけど。身を守る為にね」
「わ、わたしは暗殺者ではない! まだっ」
「まだ…ね。訓練は受けたんだろう? その武器も、毒の知識も」
「だとしたらどうする? ショノアにバラして衛兵にでも突き出す気か?」
「しないよ。そんなこと。暗殺者だって職業のひとつだろう? まあ、安易に依頼する方はどうかと思うし、人を殺すのが楽しくて仕方ないっていうならちょっと賛同はしかねるけど。育成機関だって抜け出せるものではなかっただろうし、身につける他なかったんだろう?」
サラドの言う通りニナは生き残るためだけに訓練を受けてきた。
体力と身体能力の向上、人に紛れる気配の操作、確実に一撃で人を殺める技術、他人に成りすますための観察と動きの写し方など。
死んだ方がマシだと思う扱きも日常茶飯事で、同じ訓練を受けていた子供が次第に脱落し数を減らす中、どれも及第点を取れない自分が処分されないのか不思議なくらいだった。
残った者は感情のない命令を忠実にこなす道具になっていく。
一通りの技術を身につけ、各々が得意な分野をさらに磨く。
違和感なく人混みに混じることができ、普通の人のように立ち振る舞い、目立たず、印象に残らず、必要な情報を探ることに長けた者、それが目指す姿。
ニナには出来なかった。顔の傷は深く印象に残ってしまう。顔を隠していては不自然で人に溶け込めない。それは言い訳でしかないかもしれないが、できるのは精々隠れて聞き込みをするくらい。
だから易々とこなしているように見えるサラドに腹立たしさと嫉妬を覚えた。
暗殺を実行するには感情を捨てきれず、諜報を行うには必要な表情を作れず嘘もつけない。とんだ落ちこぼれである。褒められたのは足音がしないことくらい。
それでも始末されなかったのは、この部隊に身を置くきっかけ――父親が裂け目に吸い込まれる所を、そこでニナが「消えろ」と叫んでいた所を目撃された為だろう。あの裂け目が何かの術で、それをニナが無意識に発動したと勘違いされたからだ。
上官からは「アレは使えるようになったのか」と何度も問われている。
まだ騒がしく走り回るのが当たり前な幼い頃、ニナは父親に足音がしないことで魔物みたいだと気味悪がられていた。
その頃、大きな獣以外にも人に似た姿の魔物がいるという噂があった。ふわりと宙に浮いたように移動し、人の心を惑わし、生気を啜り、死者を従える非常に恐ろしい魔物だと。
村を獣の魔物が襲った際、焦り恐れ戦いた父親が無茶苦茶に振り回したナイフで口の端から頬を切られた。痛みで泣く声と血の臭いに魔物は更に近寄ってきた。
そこにあの裂け目が現れた。ゾワゾワと全身を這い回す、生気を吸い取るような怖気。
幼いニナは必死に、まだ拙い言葉ながら「来るな!」「消えろ!」と叫んだ。
その時、目の前に迫っていた魔物が裂け目に吸い込まれて消えた。そればかりか、父親までもが吸い込まれた。
そして、裂け目は閉じた。
魔物の襲撃を聞きつけ助けに来た者にその一部始終を目撃されていたらしい。ニナは父親殺しの汚名と母と生まれたばかりの弟の無事を盾に脅迫され、ただでさえ恐怖と痛みで半狂乱の中では従う他なく、あの地獄のような訓練機関に送られたのだった。
もう十数年前のことだ。細かい年数は忘れたが〝夜明けの日〟よりは前だった。
あの空に光が射した時、魔物が去ったことで解放されるかもとぬか喜びをしたので覚えている。
苦しんで苦しんでいるというのにこの男はただの職業だと宣う。ニナは奥歯をギリリと噛んだ。
「ニナ、何をそんなに焦っているんだ? 会ったばかりの頃はもっと冷静だっただろう?」
「あれを目の前にして平気でいられるかっ! あんたはあれの何を知っている?」
「あれって裂け目か? うーん…詳しくはわからない。空間を歪め繋げるものらしいとしか。ただ昔、何度も遭遇はした。その頃は操る魔物がいたんだよ」
「操る…魔物…」
明らかにニナの顔色が蒼白になった。指先がカタカタと小さく震えている。
「…今日はもう宿に戻ろう。そろそろ夕食だし、な?」
歩き出したサラドにニナも従った。
この任務の途中、不慮の事故で命を落とせば母と弟には咎めはないのでは、もしかしたらそれをうまいこと装えれば逃げ出すことも不可能ではないのでは、そんな考えが頭を過ぎることもあったが、いざとなると本能は無様にも生にしがみつくし、ささやかな抵抗も無駄だと体が嫌というほど知っている。
そしてショノアが監視して報告していることも。
「…身を守るため、と言っていたが、暗殺者に狙われたことがあるのか?」
「……」
「だんまりかよ。そんなの『そうだ』って言ってるようなものだろうに」
「…教わったのはその前。オレは力も強くないし、魔力も高くないし、でも仲間よりは素早かったからそれを生かすにはどうすればいいかって考えてね」
「暗殺対象になるなんて、何やらかしたんだよ」
「さあ? 何でだろうねぇ、オレも教えて欲しい。…ぷっ。あはは」
急に声を出してサラドが笑った。左の口の端に八重歯がちらりと見える。
「…なんだよ?」
「いやー、こんなにニナと会話をするなんてね」
「したかったわけじゃない。もう話しかけるな!」
「うん、そうだね。みんなの前ではね」
くつくつと笑うサラドを睨み、ニナは早足で彼を追い越して先に宿へと向かっていった。
翌朝早くから、まるで隊列を組むように巡礼者や観光客が聖都に向かう道を歩く姿を見たショノアは思わず鍛錬の手を止めてしまうくらい感嘆した。
「すごいな。皆、信心深いのだな」
「少しでも長く聖都の中に滞在したいのでしょうね。宿泊しない者は特に。あの列を避けるのであれば時間をずらした方が良いでしょう。もう出遅れてしまいましたし」
「そうだな。では乗合い馬車の停車場で発つ者の話を聞いてみようか」
「一般用の街門とは別に荷を受け入れる専用の門もあります。定期的に農産物を運ぶ者や御用商人から中の様子が聞けるかもしれません」
サラドの提案で賑やかな通りで人々の様子を観察しつつ屋台の食べ物も堪能する。港町では海鮮が主だったが、ここでは素朴な甘味や飴、切り分けた果物が多く肉や魚はあまり見られない。砂糖は貴重で高価だがここで売られている飴は穀物から作られていて、昔、神官が弱った赤子のために提供したという逸話にちなんでいるそうだ。琥珀色のトロリとした飴はさぞ子供が喜ぶことだろう。飾り切りされた果物は供物としても散見される。
聖都への道から少し外れて馬車の方へ向かおうとしたところ、道脇に馬車を止め、右往左往する人が目に入った。馬車には紋がついており、貴族か豪商だろうと察せられる。
「どうかされましたか?」
「子供が…飽きて馬車から離れてしまったようで」
「迷子か。では我々も手分けをして探そう」
「ありがとうございます」
いなくなった子供の特徴を聞いて名前を呼ばわりながら進むと「おーい」と林の中から声がした。そちらに向かうと迷子の子供と地元の青年と思われる男がいた。子供は擦り傷を負い癇癪を起こしている。
「見つかって良かった。ご両親が心配しているぞ」
子供はメソメソと泣いて立ち上がろうとしない。セアラが宥めると次第に落ち着き、ひっくひっくと息を詰まらせながらも泣き止んだ。セアラは自身も養護院にいたため子供の世話に慣れているようで、その姿は優しいお姉さんそのものだった。
「どうしたの? 何か怖いことがあったの?」
「おいで、おいでって呼ばれたの。でもバシッてされて逃げてきた」
「誰にバシッてされたの?」
子供は首を傾げて、横に振った。「わかんない。こわいひと」とまた泣き出しそうになる。セアラが抱きしめて「よし、よし」と背中をさすると目を擦って眠そうな仕草をした。
「助かりました。泣くばっかで要領を得なくて、どうしようかと。仲間が探しているだろう人を呼びに街道に向かったはずなんですが戻って来ないし。それに…」
「貴殿はここで何を?」
「おれは自警団の者で、交代で警らをしていたところです」
自警団所属だという若者はそわそわして何かを気にしている。
「あ、あの。この場をお任せしていいですか。仲間の元に行きたくて」
「街道で保護者たちが探している。声を掛けてきてくれると助かる。お仲間と合流できると良いのだが」
自警団の若者は急いでショノアたちが来た方向へ向かった。何やら焦っている様子だ。
セアラは擦り剥いている子供の膝に手を当て〝治癒を願う詩句〟を唱えだした。その光に触発されたのかピリッと気が揺れた。
「ショノアさま、セアラと彼についていてあげてください。少し外します」
「サラ? どうした?」
「少し――」
ショノアがサラドのこの表情を見るのは何度目かだった。小鬼の時、山鳥の時、山羊の時。ということは――。
「わ、わたしも行く!」
荷物をその場に残し武器は手にしてサラドが林の奥へと向かう。追うようにニナも走り出した。更に林の中に分け入った所でそれは現れ出ようとしていた。
「ひっ!」
ニナはサラドのすぐ後ろまで追いついたが二、三歩、後退った。
目よりも少し高い位置にある裂け目は小さい。が、その指一本ほどの長さに鋭い爪が外に向け引っ掛けられている。カリカリと別の爪が隙間に差し込もうとする音がする。
弓を準備する時間はない。接近戦になるが、やむを得ないと短剣を抜き放ち、詠唱を紡ごうとしたサラドの頭の中に声が響いた。胸がぎゅうっと痛み張り裂けそうになる。
――助けて 助けて
それは人の言葉とは違うもの。音も違うもの。
大気の震えの如く、陽炎の如く、細波の如く。
人の言葉で表現するなら「助けて」と呼ぶ声。
(精霊が助けを呼んでる!)
その時、少し離れた空の上でパンッと何かが爆ぜ、青い煙がたなびいた。魔道具による救援信号だ。
(――どうする?)