226 伝染していく悪感情
ディネウとシルエが帰宅した時、屋敷には甘く香ばしい匂いが漂っていた。二人は顔を見合わせて裏口の炊事場へと向かう。そこでノアラは火から下ろした鍋をじっと見ていた。ほんの僅かに鼻の穴が膨らんでいる。中身は糖を煮詰めて作った蜜につけられた茹で豆。
「ノアラ、随分と嬉しそうだね? アオさんのこともあるとはいえ、どうりで、いそいそと出掛けると思ったら」
香りの正体、黍糖にシルエは得心がいった顔をする。アオの避難先を選んだ理由が宝石云々よりもこれの気がしてくる。口が開いた袋をひとつ残し、あとの数袋はサラドが食料庫に運んでいた。一欠片を摘まんで口に放り込めば、甘味が疲れに染みる。しかし、次第に口中を強すぎる甘さが占めていき、顔をしかめた。袋の口をディネウにも向けるが、首を横に振られた。
夕食を終えたテオも甘い香りに誘われ、しばらくサラドの傍でソワソワウロウロしていたが、完成までに三、四日かかると教えて就寝を促せば素直に従った。期待を胸に眠っていることだろう。
「ちぇっ、こっちはディネウと掃除してたっていうのに」
「港町に行ってくれたんだ?」
サラドが眉尻を下げて「体調は? 無理してない?」と労う。『掃除』という言葉を読み取り、港町の窮状を問うより先に体を気遣ってくれるサラドに、シルエは「へーき、へーき」とへらっと笑った。
「もう、キリがなくてさ。とりあえず一巡だけ。あとは諦めた」
ノアラが驚いて顔を上げたが、慌てたように手元に目を落とす。纏う魔力が揺らぐのを感じ、シルエは首を傾げた。ディネウが少し呆れて「どんだけ、甘豆食いたいんだよ」と言っても、ノアラは頷きだけを返した。豆から目が離れるのは、視界の端にある砂時計をチラッと見遣る時だけ。
砂が落ちきるのを確認して、サラドが「終わり」と声を掛けるとノアラはふうと息を吐いた。
ノアラから渡された鍋をサラドは火にかける。クツクツと沸騰した頃合いで、手際良く笊にあけて豆と蜜に分け、蜜に糖と水飴を更に加えて煮溶かす。トロリとした糖蜜の濃く甘い香りにノアラの目が釘付けになっている。できた蜜に、笊に分けておいた豆を再びつけてノアラに渡した。
「…なにしてんの? まさか」
「少しだけ時間を早める」
「は? 時間? もしかして、この間の瓶から応用を?」
ノアラはこくりと頷き、また疲れたように息を吐く。
「まだ、範囲に限界がある。問題点を洗い出し、実用に向けて調整と改良をせねば」
「時間を早める術って何? しかも鍋の中だけに使ったってこと? 逆にどんな精度なの? っていうか、術の使い道おかしくない?」
その凄さがわかっていないディネウが興奮に手を上下させるシルエの肩を「落ち着け」とポンポンと叩く。
その間にノアラは詠唱を紡ぎ、大きめの砂時計をひっくり返す。鍋から少し離した位置で手を包む形にして、じっと見詰めだした。集中に入った様子に、シルエは大仰に片手で目を覆い「嘘でしょ…」と呟く。
サラドはまた別の鍋で煮立てずに茹でている豆を動かさないようにそっと灰汁を取っている。
「そっちはなんなの?」
「これは、普通に作ってみている。ノアラの術を使ったのと違いがでないか、思わぬ効果が付加されていないか検証することにしたんだ」
「…それは、また。全部無事にできあがれば、好物のおやつにノアラはご機嫌でいられるね」
「どんくらい短縮させているんだ?」
「通常は一晩つけるのを、この砂時計で二回」
「逆に遅くすることもできんのか?」
ディネウはノアラを見たが、まだ口を小さく動かしており、こちらに注意を払う余裕はなさそうだった。
「…ノアラは豆に夢中だし。僕らもその間にご飯食べよ?」
「おう、話は落ち着いてからだな」
サラドは新たな糖蜜を煮ながら「ごめん」と謝った。
「なんか…、その、動いている方が楽で」
困り顔で笑い、そうポツリと零したサラドにシルエは不穏なものを感じた。
ノアラが術で糖蜜に一晩浸した状態にした豆は再び火にかけられた後、笊に広げて乾かされている。冷まして乾けば完成なので、その作業もノアラは術を用いたいようだったが、ディネウに「こっち来い」と手招きされて大人しくテーブルについた。
もうひとつの茹で豆は一度目の蜜につけられている。
「んで、そっちはどうだった…って、帰って早々豆を煮るくらいだから、問題なさそうだな」
「そうでもない」
すぐさま否定したノアラにディネウは眉根を寄せる。
「魔物が出た」
「あ?」
「船内で、鼠だ。航海中に急変したとみられる」
「それ、実物を見たの?」
ノアラはふるっと首を横に振った。
「その、市場で聞いた話だから、少し大袈裟にされているのかもだけど。おっきな鼠が…、それでも街道とかで出ていたのに比べたら小さくて、小犬くらいのが、海上の船で出たんだって。乗り合わせていた傭兵が難なく倒して、感謝されていた。船を囓られたら損害は大きいからね」
「それって出航してからどれくらいの話?」
「港町から出て、向こうに着くちょっと前のことらしいよ」
「船上で魔物…ねぇ」
シルエがディネウを見遣る。やはりこうなることを見越していたのか。
「ふーん、船内という閉鎖された環境で、不平不満による穢れが結集した…ってところ?」
「ってことはこっちでも同じ様なのがそろそろ出てもおかしくねぇってことか」
ディネウがバリバリと頭を掻く。腕を組んだシルエが難しい顔をした。
「港町はだいぶ祓ったつもりだけど、傍から落ちていたからなぁ。小さな呪い…違う…な。うーん、病原菌みたいなもので、誰の体内にもあって、ちょっとしたきっかけで発症しちゃう、そんな感じ。解呪した人も再発するっぽいし」
「そんなん、もう、どうにもできねぇだろ」
「普通は穢れにまでならないのが、こう、増大させる? ねちっこく続く? …そんな働きかけをされたっぽい。しかも、人から人へ移る」
ディネウは足を投げ出して、背もたれに上半身を思い切り預けて天井を仰いだ。
「なんつぅか、よくもまあ、こんな厭らしいことを次々に思いつくな。魔人はただ人が窮するのを楽しんでいるだけじゃねぇの?」
「徐々に穢れを広めていく方法は気長に見えるけど、魔人が人と比較して長寿命だとしたら、少ない労力で確実に、なのかもしれない」
サラドが「あくまで推論だけど」と前置きをして述べる。
第一段階として魔物の襲撃と急増で不安を掻き立てておけば、自然と伝播し、やがては世界を覆い尽くす。その過程で、穢れが地に及ぼした影響や精霊が離れたことで起こる災害や、魔物が暴れて大きな被害が出れば、恐怖は払拭されることがないまま増大していく。
「この流れを食い止める手立てが…ない」
サラドは苦渋にぎゅっと目を瞑った。組んだ手の指が震えている。
この世に魔力がある限り、魔物の一切合切を滅亡させることは不可能だし、サラドはそれを望まない。そして、負の感情といえども、人からそれを奪い、消し去ることもまた不可能。
「ねぇ、サラド」
組まれたサラドの手にシルエは己の手をふわっと重ねた。その冷たさと震えから苦悩が痛いほどに伝わる。
「確かに港町の穢れも祓ったところで焼け石に水かな、とは思ったけどね。港町の人は短気な旅客にもう慣れっこみたいだった。跳ね返せるくらいに逞しいよ? もちろん流されている人もいるけどさ。魔物だって退治できる姿を見ている。そう簡単には絶望しない。たった十年前のことだもん。まだ、あの日々を生き抜き、乗り越えた記憶を持っている人は多い。感情って案外ずっと維持するのは難しい。負けるばっかじゃない」
〝夜明けの日〟の前は、終末論が出るほど諦念や悲嘆が蔓延っていた。鼓舞しようにも「この世はもう滅びを待つだけ。せめて死後の安寧を望む」と返される。魔物に蹂躙され、災害に生活を壊され、幾度となく挫かれた心には響かない。「真面目に働いても無駄」だと、略奪や刹那の快楽に身を落とす者も多く、世は乱れる一方にみえた。
「昔だって、ディネウのバカみたいな強さに触発されて、一度は闘うことを諦めた傭兵が戻って来てくれたじゃん。その志は受け継がれ、皆が守ってくれていたもの。今回だってそう易々とは崩れないよ」
「…うん」
シルエに諭され、サラドは項垂れるようにして頷いた。
「魔物が出たという船に祈りは捧げたけど、死者への祈り以外だと、オレには浄化の実力はないから」
だから、心配だという言葉をサラドは呑み込んだ。ディネウの傭兵の休業宣言と他国への労働派遣が活きていることを悟っている。彼らはこの短期間でぐっと実力を上げ、小隊であればそこそこの魔物ともやり合える。
「僕の術とは全く違う護りの力がサラドの祈りにはあるから、その船、寧ろ羨ましいけどね?」
「そうだな。シルエのが『祓う』ならサラドのは『除ける』って感じだよな。存在自体を許さないのと認めるけど近寄らせないのと」
ディネウにカラカラと笑われ、シルエは「どうせ、僕は優しくないですぅ」と悪態をついた。
いつもの二人の掛け合いに、サラドもぎこちないが微笑みを浮かべた。
「…でも、あの頃は『不安』や『空虚』って感じだったけど、港町に充満していたのは『憤り』や『苛立ち』なんだよね。これからまた変化していくのかな」
理不尽な怒りや暴力に曝され続ければ、抑圧された者はぐるぐると昏い感情を心に押し込めたまま、抗う気力を失う。
精神力が強靱でも、小さくとも希望なくしては平静を保つのに限界がある。シルエはそれを身をもって知っている。サラドの憂いを払うための手段を笑顔の下でシルエは探っていた。