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225/280

225 その頃、ニナは

 煮炊きのゆるやかな煙と匂い、穏やかな笑い声は人の心を和ませるものだが、ニナは無表情でそれを眺めていた。これ以上見るべきものはないとでもいうように、木陰に潜めていた身を翻す。


貧民街からの避難先である移住地、その集落のひとつで母と弟が一緒に暮らす様を、笑みを交わす顔を見られた。

生活の基盤はまだまだ整っていないが、冬を越せないほどではなくなった。それさえ確認できれば、十分だった。


 森の中へ移動して、枯れた蔦が入口を覆う洞窟をそっと覗く。中はもぬけの殻。平らに均された床に敷物はなく、棚のように掘られた壁に食器のひとつも残されていない。

ここに匿われた者もそれぞれに行き先を見つけられたのだろう。


小さい穴から射し込む光が細い筋を描く。静かな闇がそこにはあって、居心地が良い。ニナはしばし休憩することにした。

周囲に目を配り、気を張ることが常の体が弛緩する。壁にもたれかかるだけのつもりでいたのに、ズルズルと座り、更にそのまま横になった。ゴリゴリとした岩肌に寝転ぶのは痛いが、嫌ではなかった。


(なんで、こんなに落ち着くんだろう…)


 ぐっすり眠ることなどないニナが気付けば目を閉じ、意識を手放していた。時間にしてどれくらい経ったのか定かではない。穴から入る頼りない光は朱く色付き、角度も低く見える。

起こした上体は、少し軽くなったように感じた。


 休暇を与えられたニナは、厩の馬丁に灰色に黒い斑模様の大きな馬を預けると、ここに駆けてきた。王都を離れる旨はショノアに伝えたが、各方面への報告に忙しくしている合間に声をかけたので、しかと聞き取られていないかもしれない。


「…帰るか」


ふと口から漏れた言葉に「どこへ?」と自ら突っ込んだ。


 北の国境、神域の湖にもほど近い森は人気(ひとけ)がない。幾つか荷物を持ち込めば、密かに生活ができそうだ。現にこの洞窟は兵士に見つかることなく、脱走者の隠れ家として使われていた。

もう、自分の行動如何で母と弟に危険が及ぶことはない。いっそ、王都に帰らないという選択も有りではないだろうか。


「…いいかもしれない…」


森から糧を得て、獣を狩って、それを売った金で不足する物を手に入れて…、そんな暮らしが可能な気がしてくる。心が急に軽くなり、ニナは一晩ここで過ごすために必要なものを集めに行こうと枯れた蔦のカーテンを潜った。


 暖を取るための乾いた朽木を拾いあげる。洞窟の周辺は元住民に取り尽くされたのか、簡単に手に入る木の実など残されていない。小動物は二度ほど取り逃がしている。


(向こうになら…)


視線を上げて北方面を見るが、森の奥へ向かうのは良くないことは学習済み。迷って時間を無駄にするだけだと首を振った。

一日食事を抜くなど慣れたもの。それでも、この先も食が確保できそうにないという実感は少々堪える。

今度は急激に心が冷えていった。


(ここに、一人住んで…どうする? この先ずっとただ無為な日々を? そうして生きる意味は…何だ?)


人と関わるのは得意ではない。一人でいるのは苦にならない。

今までは苦しくても痛くても怖くても、命令に従って生きる他なかった。死はすぐそこにあって、考える余裕もないくらい訓練を課されていた。


ニナを取り巻く環境は任務で王都を離れてから大きく変わった。ほんの少しのゆとりが、人らしい感情を思い出させている。考えたこともなかった『将来』や『生涯』という命題を急に突き付けられたような心境に、ニナはしばし茫然とした。


『ニナは良い調整役だし目端もきく。感情に寄らず情報を集める手腕は視察に、彼らの旅に必要だよ。人々の暮らしに何が不足しているか、何が問題か、きっとニナだからこそ報告できる』


そう語ったサラドが頭を過ぎる。しかし、任務はこのところ予定外ばかりで、祝福を与えに行くセアラの送迎と護衛になったり、第一王子を追って聖都へ向かったり、視察はどうしたという状態だ。


(そもそもわたしは生きていたいのか)


『死にたい』とはまた違う、かといって生きたいと強く願う気持ちは湧いてこない。これが楽しみ、あれをしたい、そういった希望も願望もない。ニナの心にあるのは只々、命があるから生きているという事実だけだ。


 心に虚しい風が吹いた時、ザワザワと足裏に不快な感触が這った。体が危険を察知して、ピリピリと神経が昂ぶる。


『逃げろ』と脳裏に浮かぶ警告。


そのままゾワゾワと体を這い上がってくる怖気は記憶にあるもの。呼吸が乱れて浅くなる。


「オカシイ…オカシイ…力ガ溜マラナイ…」


「許サナイ…許サナイ…邪魔立テスル者ヲ…」


「忌マワシイ…忌マワシイ…魔力ナシノ分際デ…」


怨嗟だけが頭の中に聞こえてくる。その声はまだ遠く、ニナがここにいることは知られていないようだ。


影に見付かる恐怖に、抱えていた木片を放ってニナは走り出した。一切後ろを振り返らず、夜になっても休むことなく、走って走って、少しでも遠くへ。朝が来ると手頃な町から乗合い馬車に乗り、座席でじっと気配を消した。ドクドクと煩い心臓の音に冷静さが乱される悪循環にひたすら耐える。いつもなら自然と情報収集してしまうが、他の乗客のお喋りもあまり耳に入ってこない。

ガラガラと車輪の音を響かせて馬車は進み、気付けば、王都の牆壁を目の前にしていた。


(ああ、無意識に戻る場所はやはりここなのか…)


ニナは心の何処かではほっとしたことに自分自身で落胆した。

馬車を降りてからは、町を駆け上がり、一直線に王宮の厩へ向かう。一際大きくて脚も太い馬は放牧場でのんびり草を食んでいた。その姿を目にして、警戒に張り詰めていた糸がほんの少し緩む。笛を咥えて小さく「ピッ」と鳴らせば、馬はポクポクとニナに近付いて来る。


耳に残る影の声に怯える心が伝わったのか、馬は触れようとするニナに噛む振りをして警告した。その反応にニナも緊張し、鳴らすつもりがなかったのに「ピ」という情けない音が震える。聞こえるか聞こえないかギリギリの音。開いた鼻孔がニナの匂いを嗅ぎ、探るように動いていた耳が前を向く、ブルルと鼻を鳴らすと馬は自ら顔をニナに近付けた。

ニナの口からポロリと笛が外れ、「あり…がと…」とか細い声が漏れた。馬は鼻をのばし、撫でるよう要求する。


自分以外の生き物の体温に触れているのが心地良く、心が静まることをニナは知った。灰色に黒の斑模様の体に力を込めてブラッシングをしていく。せっせと手を動かしているうちに気が紛れ、ニナは怨嗟を頭から追い遣ることができていた。揺れる黒い尾、耳や鼻先を動かす気配、鼻息の温かさ、それらに救いを求めるように馬の傍で過ごした。


 『気配』に気付いたのは翌日、馬を放牧に出して馬房の清掃をしている時だった。

新しい寝藁をもらいに向かった先で厩番が不平を口にしていた。余程面白くないことでもあったのかカリカリとしている。次は使用人用の食堂に向かった時、食物を前にして気も弛み、和やかである雰囲気がどうにも悪い。なんとなく気になって、様々な場所へ足を向けた。


耳を傾けた会話の端々から見えてきたのは、魔物の攻撃で倒れた兵士たちに対して大規模な治療行為があったこと。その際に使用されたのが寄付された薬で、その効能が驚くほど高いということ。


それを受けて、救護室付近も覗った。確かに重傷者で溢れて気鬱だったのが、明るい談笑が聞こえてくる。少し異常な興奮状態にも見えた。


その時、救護室から出てくるセアラを見かけた。ショノアとマルスェイ、それから兵と官吏を伴い、城下にある兵の詰所へ向かうらしい。見送りの者が幾人も出ており、「夕刻にまた戻る」と言っているのに、惜しむ声がちょっとした合唱のようになっていた。


「ねぇ、見た? あの救護室担当の子の顔! ずるくない? ニキビだらけだったのに、ツルッとしていたのよ!」

「いつも『消毒液で荒れて痛いの』『昼も夜もなくて』とか、さも大変そうに言っていたのに。手はあかぎれひとつないし、顔色だって良かったわ。見て、私の手なんて、これよ? ずるいわ」

「薬は魔物を退けるために戦った兵士に、なんて言ってるけど絶対嘘! あそこで働いている人たちはこっそりもらったのよ! ずるい! そこで使われたシーツを洗っているのは私たちだっていうのに!」


耳を澄まさなくても洗濯場から聞こえてくるかしましいお喋りは「ずるい」という言葉を頻りに挟む。その度に、見えないくらいの小さな棘が抜けないままチクリチクリと痛むような不快感が襲う。


「それに、あの『聖女』だとかいう神官見習い。なんなの? 怪我が治った兵士がお祈りしたいだとかって、挙って並んでいるんですって。兵士も、若い女の子だからってデレデレして、ばっかみたい。治したのはその娘じゃないんでしょ?」

「それで王宮の客間を与えられたらしいわよ。その部屋に文句をつけたんですって。騎士様と魔術師を侍らせて、ワガママも言えて、いいご身分ね」

 

 王宮の内宮にも、王族のために小さいながら立派な礼拝堂がある。だが、神官は必要に応じて神殿から招く。儀式などで清めや準備のために泊まることもないわけではないが、それも、高位の神官なり王都の神殿長であって、神官見習いにこのような対応が取られることは異例だった。


その見習いが年も近く、高貴な出自ではなさそうだという噂に羨望や嫉妬が渦巻く。

彼女たちの表情は歪み、心の内は洗濯物が入った盥の水と同じくらいに濁っていく。


(ちっ、こうなることは予想がつきそうなものなのに、なにやってるんだ)


セアラの性格上、大方、立派な部屋に遠慮し、もっと質素な部屋、例えば使用人の部屋にしてほしいなどと言ったのだろう。部屋を用意した側からすれば、世話をしてやるのに何が気に入らないのかといったところか。

セアラの本心や本質など関係ない。王宮内で客間を任せられる使用人は、それなりの身分出か、賓客をもてなす仕事に矜持が高い者。

人に世話されることに慣れていないセアラに不満を抱くのもある意味仕方がない。


そんな話がここまで下ってくる間に、誇張と推測が混じって、『聖女』と囃し立てられて思い上がったワガママな神官見習いの出来上がりだ。


 悪口を囁かれているセアラを気遣い、苛立っていることにニナ自身は気付いていない。同じ任務を負ったからといって仲間意識はなく、他人を慮ることなどなかった心の変化がここにも出ていた。


 妬みや嫉み、暗い感情はどんどん膨れていっている。

気色の悪い『気配』に、心がザワザワ、足裏がゾワゾワする。


 ニナにしてみれば、王宮内はいつだって殺伐としている。神経がピリピリと痛むような警戒は当たり前のこと。それでも、使用人たちの愚痴は小さな小さなトゲのようなもの。中庭から王宮の中心部を見上げた際は目眩かと錯覚した。ぐにゃりと歪んで、まるで、裂け目が現れる時のような――


(なんだ、これは…)


体を絡め取る感触から逃げ、城下の方面へ向かうと、そこにもトゲトゲが満ちて「逃げろ、逃げろ」と追い立てているのを感じ取った。


「嫌だ…。怖い、たす――」


馬房の隅で、新しく敷いておいた寝藁に身を沈め、縮こまる。

視界が暗くなったせいか、ニナが隠れている陰が一層濃くなった気がした。



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