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22 山に棲まうモノ

 はじめはちょっとした違和感、そして体を這う寒気。

サラドは慌てて矢を番うが、ガツンと叩きつける音が響くと空中に現れた線のように細くて小さい継ぎ目がいきなり大きく裂けた。それに気付いたニナが体を強張らせ、身を引く。


「く、来るなっ!」


ガツンと二度目の音。角突きをするように裂け目をこじ開けるモノ。押し返そうにもその勢いは凄まじく、長い顔に二本の立派な角を持った生き物の頭部が飛び出した。


「くそっ、ダメだ。間に合わない!」 


サラドは迎え撃つしかないと覚悟を決め、弓を手放した。吐き出されるように体全てが露わになり、降り立った蹄がガツガツと地を叩き鳴らす。


「消えろ! 消えろ! 消えろ!」


及び腰ながら拒絶するように突き出したニナの手の先で、役目を終えた裂け目はスッとその瞼を閉じた。


「消え…た…?」


その時向こうの暗がりからニナを見つめる目と目が合った。ゾクリと全身の力が抜ける程の恐怖が襲いかかり、ドサッと臀をつく。


 山羊に似た巨大な魔物は堂々と立ち塞がる。顔の脇についた目の横長の瞳孔が眼球全体に膨らみ光を吸い込む漆黒に変わった。生きたものの気配ではなく、周囲の気を喰らい尽くす眼。目に映るものは全て死の道連れにすべく、頭を下げて角を突き出した。あの角に弾き飛ばされたらひとたまりもないだろう。


(もっと高い山の岩場に生息するはずが、何故ここに迷い込んだ? 混乱ではない殺気が――仕方ない)

「ショノアさまっ そちらに誘導しますっ 合図をしたら思い切り振り下ろして!」


動きを見切っているように魔物の頭突きをサラドはひらりと躱していく。跳ね上がって鋭く蹄を突き立て踏みつける攻撃も流しながら、短剣で受け返し少しずつ移動していく。

ショノアはその巨軀に恐れをなしたが、グッと奥歯を噛みしめ、腰を落として剣を上段に構え、待ち構えた。サラドが身を翻すと大きな頭がヌッと目の前に迫る。ショノアに攻撃対象を変えそうになったところに透かさずサラドが短剣を当てて気を引いた。山羊の頭がぐるりと向きを転じる。


――今!


無防備な首にショノアは思い切り剣を振り下ろした。体重をのせた剣にガチリと堅い衝撃が走り握る手から腕にかけてビリビリと痺れる。首を深く断たれた巨軀がドスッと地に伏した。首は切り落とされず繋がっているがその目から漆黒も生気も失われている。流れ出るのは血ではなく黒い靄のようなものだった。

ショノアは肩で息をしながら足下に転がるモノを見下ろした。


「倒せた…?」


攻撃を受け流した際に傷を負ったのか手から血を滴らせながらサラドが腕を伸ばすと白い炎がブワリと巻き上がり魔物の亡骸を包んだ。幻のような炎は一瞬で収まり、魔物の体が砂のようにサラサラと崩れ、風に消える。


(ああ、やっぱりだ。この山羊は実体のない迷い込みしもの、生きているものではない。こんなに頻繁に道が開く筈はない、どうして…。誘引するものがある? 何者かが関与している?)

サラドは沈痛な面持ちで短く祈りを捧げた。既に目の前には何も残っていない。



「サラさん、怪我を!」


それまで固唾を呑んで見守るしかなかったセアラが泣き声で叫びサラの手をとって〝治癒を願う詩句〟を唱えた。淡い光が傷を覆うと、血が止まり、僅かに傷が浅くなった。


「…。すみません。私にはこれが精一杯みたいです」


セアラは治りきらないどころか赤く痛々しい傷のあるサラドの手を掴んだまま、俯いた。


「セアラの治癒の光はほんのり温かい。温かさのある光を持つ者はいい治癒士になるよ。オレのお墨付き。自信を持っていいよ」

「本当に…?」


サラドが力強く頷くと、もう何日も悄然としていたセアラの顔が喜びで色づいた。


「ニナも大丈夫か?」

「ニナ? 怪我は?」


ニナは前と同じように差し出されたサラドの手をパシリと払った後で、我に返ったようによろよろと立ち上がった。自分を抱きしめるように片手を肩に回し、フイッと顔を背ける。


「…すまん。大事ない」

「うん。無事なら良かった」


跡形もなく消えた魔物に茫然自失から立ち直ったショノアは剣を鞘に収めた。夢幻ではなく実際に戦った証に手にはまだ衝撃が残っている。


「ショノアさまの剣筋は重くて強いですね。羨ましい」

「羨ましい?」

「ええ、いくら鍛えてもわたくしは筋力が思うようにはつきませんでしたので、小手先の技術で何とか立ち回るしかないのです」

「…そんな風には見えなかった」

「ショノアさまは強さもあるし太刀筋も真っ直ぐなので、たくさん経験を重ねれば骨と骨との間を狙って断ち切ることも可能ですよ」

「あの一瞬でその場所を見極め確実に当てるというのか」

「そうです。わたくしの友は剣を痛めないためにもそうしていました」

「…信じられん。いや、それよりも! 何も残らないとはどういうことだ? 小鬼とは違うのか?」


ショノアは目の前で起こったことに思考が追いつかず取り乱している。


「再び現れ出でることがないか確認したいので、ここで休憩をしましょう」

「ここで? いや、また出るのか? あれが?」

「ショノアさま、落ち着いてください」


ニナは体の震えを悟られないように無表情を取り繕っている。セアラはキョロキョロと辺りを見回し続けた。つい先程魔物が出た場所で寛げるはずもなく、終始そわそわしたままサラドが「もう大丈夫そうです。出発しましょう」と言い出すまで気の休まらない休憩は続いた。


 サラド以外の三人が人心地ついたのは宿場に着いてからだった。

ここも宿が一件のみの小さな宿場だ。険しい修行道を抜けて来た者の安息所とでもいえるだろう。


「まあまあ、こんな可愛らしいお嬢さんがあの道を越えていらしたんですか?」

「すまないが、取り急ぎ聞きたいことがある。ここに来た巡礼者が魔物に出会ったという話はないか?」

「嫌ですよ。そんな物騒な話、〝夜明けの日〟以降聞いた事なんてありませんよ。さあさ、お身体を休めてくださいな」


宿の従業員は珍しい若い女性の巡礼者一行を労ってくれ体を清めやすいようにとタライとたっぷりの水でもてなしてくれた。

ショノアは「急ぎこの危機を報告せねば」とサラドを質問攻めにしながら覚え書きにペンを走らせている。

その間にセアラは夕べの祈りを済ませた。見かけた宿の者がつられて手を組むくらいにその姿は好印象だった。



 翌朝、日課の鍛錬を始める前に、周りに人がいないのを確認するとショノアはこっそり豪奢な筒に触れた。

そこに入れた紙には短い文章が綴られていた。


 〈魔物については別働隊を派遣する 小鬼と併せこちらでの調査が済むまで他言無用〉


(あの脅威が伝わらなかった? あんな急激な発生では逃げるのも叶わない。もし、所構わず彼方此方でおこったら被害は甚大だ。早急な対策が必要なはずなのに――)


ショノアは筒を持ったまま無駄にぐるぐると室内を歩き回った。


(いや、でも隊を派遣するとあったし、こちらは任務に専念せよとのことかも…。そうだ、そうに違いない。騎士団にも過去に魔物と戦った経験豊富な方がいるし)


魔道具の筒を丁重にしまい、ショノアは鍛錬に集中し去来する不安を払拭することにした。



 いよいよ最後の宿場に向かう。これまでの山道と比較すれば格段に歩きやすい。

三人は心なし早足になっていた。普段はしんがりで隙なく警戒を怠らないニナも何かに怯えるように時折後方や頭上に目を馳せている。お陰で予定よりも早くに到着した。

 そこは町といって差し支えのない規模だった。何件もの宿屋に商店や屋台が軒を連ねる。道は舗装されており両脇は特に賑やかで、その先には聖都の街門が遠くに見え神殿の上部が霞んで見える。


「おっきい…」


天を突くような神殿の尖塔を目にしてセアラが呟いた。田舎では山以外にまず見ることのない高さがある。


「馬車はこちらの宿場にも着くのだな」


乗合い馬車から降りる人々を眺め、ショノアは遠く聖都の街門前に馬車が列をなしているのに目を凝らす。


「聖都の街門前に着く馬車よりもこちらの方が多いと思います。その…聖都は検問も厳しく時間がかかりますし、物価も高いので宿はこちらにとって朝早くに徒歩で並びに行く人の方が多いんですよ」

「確かに、子供の頃やっと着いたと思ったのにやたら待たされた記憶がある」


 聖都は入門税も高い。その上神殿に入れるものはごく僅か。殆どの者は壁の外から眺めることしかできない。その事実を知らずにはるばる国外から巡礼に来た者はどれほどがっかりすることか。

ひと目その輝かしい建築を見たいと願いながら入門税も払えずにこの宿場で諦めて帰る者もいる。それ故この宿場は栄えている。神殿やその内部を描いたとされる絵は特に人気の土産物だが、模写に模写を繰り返されたもので質はイマイチと言える。


「では我々も宿を探すとするか」


 夕暮れ時、宿や店の客引きの声が途絶え宿場町の喧噪が急にしんと静まった。

鐘の音が響き、祈りの言葉を唱和する声が微かに届いていた。道の往来で立ち止まり胸の前で手を組む人。そっと頭を垂れる者。これがこの町の日常の光景なのだろう。

セアラも供花を携え祈りの台の近くにいた。そこは人で溢れかえり、容易に近付けない。再び鐘が鳴ると今度はそこに集まった人々が祈りの言葉を口にする。セアラもそれに乗じた。少しだけ田舎の養護院での夕べを思い出した。



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