219 漏らさず速やかに
物品管理者、衛生兵はそれぞれ信頼のおける部下を伴っている。薬瓶の封の葉は一段と生気を失って見えた。共通認識として、今日中に使い切る目標を確認し合う。各兵舎、詰所で手分けをして従事できるように、これから研修を行うところだ。
両者は元より非常に真面目で、寄付者の代理人から指名を受けた義を裏切るまいと並々ならぬ責任感も見せている。
物品管理者はこの件に関わる人物の氏名、所属、分担内容、時間帯を書き記す表をおこしてきた。それは、交換した敷布を引き取るだけの者に至るまで、徹底している。
今日は市街へ下りて活動するため、衛兵とは別に官警からも人員が派遣された。キビキビとした点呼の声が響く。
一介の官警では手に負えない内容の密告書は、一致する訴状や捕縛歴の資料を添えて提出して、上層部の指示を仰ぐ形となった。錚々たる名に、このまま何事もなかったことにされるのではないか、密告内容を知ったこの身が危ぶまれるのではないかと不安な夜を過ごした。
結果、それは杞憂に終わった。一夜にして、女王を責任者として戴く調査隊が発足されている。女王の署名入り捜査令状が発行されれば、如何なる者でも無視はできない。捜査対象に身分の差で怯んでいる場合ではないと、任命された者は真偽の確認に乗り出した。
その迅速さもだが、異例続きの対応に解決を本気で望んでいるのが窺える。女王はこのところ、不正の洗い出しに本腰を入れていた。近く、政の中枢人事ががらりと入れ替わると噂になっているほどに。
薬の存在はまだ王宮内でも一部の者しか知らないが、噂が市街に至るのも時間の問題だろう。同様の犯罪を未然に防ぐことも重要だ。
外部ばかりではなく、内に対して、身近な者にも目は光らせなければならない。最初に対応に出た官吏は、今朝も顔を出したものの「他に業務があってお忙しいでしょう」と追い返された。何も手伝うことなく周囲をうろちょろし、日の終わりに空き瓶を持ち帰ろうとしたからだ。「どのような寄付があったのか、資料を残すためで…」と弁明をするも、四角四面な物品管理者にすっかり睨まれてしまった。
集団の編成と配置先を決めているところにショノアとセアラはなんとか間に合った。マルスェイにこれまでの経緯を聞いたショノアは事項と日の流れを頭に叩き込む。
混乱もなく統制のとれた一団にショノアは感心した。人数の把握など火急を要して事にあたったのか。苦労が忍ばれる。
不正な横流しをする隙はなく、出る幕もなさそうだが、与えられた役割を果たそうとショノアも気を引き締めた。
必要量を配付された薬の警護に官警隊がつく。研修で薬の重要性を十二分に理解したからか、あるいは緊張や気合いなのか、ピリピリした雰囲気がある。
研修の場に女王と第一王子が激励に訪れるという一幕もあったと聞き、そのせいかと納得した。
物品管理者は表にショノアとセアラの名もきちんと書き入れた。
紹介されたセアラがペコペコと頭を下げると、ほわりと場が和んで見える。出発する集団それぞれにセアラは「皆様の活動に癒やしの導きがありますように」と短く祈りを捧げた。
名指しを受けた物品管理者、衛生兵、ショノアの三名と、マルスェイにセアラは全ての集団が出発するのを見送り終えると、救護室の一室に向かった。医師が朝から昨日投薬を受けた者を回診している。
怪我を理由に騎士を退任した者には昨日のうちに伝達員を走らせた。望めば投薬を受けられる手筈を整えてある。もうすでに数名が待っていた。その中にショノアの同僚の姿もあり、内心でほっと息を吐く。
彼らの表情は懐疑的だが、捨てきれない期待も窺える。謀反未遂事件で治癒士の働きを見た者なら「もしかして」と思うのだろう。
「容器や封の仕方は違います」
薬瓶を目の前に掲げてもらったセアラは小さく首を横に振った。封を切った瓶の口がセアラの鼻先に近付けられる。その匂いを直接嗅いだセアラは僅かに仰け反り、噎せて「けほっ」と小さく咳き込んだ。その反応にショノアはどこか安心した。やはり、これは特別臭いのだろう。
セアラは指を揃えた手でそっと鼻口を覆い、眉を八の字に下げた。
「ごめんなさい。勉強不足で、匂いだけでは判じられません」
匙に出された薬を差し出され、怪我人は顔を顰めた。とても口にするものの色と匂いではない。不安そうな目を向けられるも、衛生兵はその顎をガシッと掴んで有無を言わさず舌の上に流した。生理的反応に抗えず、涙目になる。
その時、各室の慰問と医師からの報告を終えた女王と第一王子が静かに入室して来た。一斉に臣下の礼を執るが女王は頷きひとつでなおるように促した。第一王子が「気にせず続けよ」と衛生兵に声を掛ける。
女王の前でありながら「うえっ」と声を漏らす失態に、怪我人は顔を青くした。介助者が「失礼します」と声をかけて、傷口を拭う。昨日も従事していたため、慣れたもので力加減も絶妙。薄桃色に再生した皮膚が露わになった。
「なに…が…起こった?」
痛みも滲みることもなく、体から失せていく苦痛に怪我人は只々呆ける。
その傷の回復具合を目にしたセアラはこくんと頷いた。サラドの火傷を治した薬と良く似ている。あの時には柔らかで淡い光が見られたけれども。
「ごめんなさい。私もその…あの時はとにかく必死で、細かくは覚えていなくて」
胸に抱いた医学書を握る手に力がこもる。この本の随所にある書き込みは、症状別に処方される薬の内訳や組み合わせの可否だ。何にでも効く薬など想像もつかない。
衛生兵と医師が言い当てた成分についてはセアラも知っているもの。健胃や栄養補助、痛みの緩和など、主となる薬効に追加されることが多い。
衛生兵は次の怪我人に匙を差し出した。女王が見つめる中で緊張に指が震え、液が零れそうになる。一滴たりとも無駄にしたくない。
その驚くべき効能を目にしても、女王と第一王子は表情ひとつ変えない。動じない様は流石の一言に尽きる。第一王子は『陛下からの労いの言葉』をショノアに伝言として託すと「我々がいては落ち着かないだろうから」と執務に戻った。最高権力者が退室したことで、誰ともなしに長めの息を吐き出す。
物品管理者は薬の残数と退任者の名簿とで睨めっこしている。各所には予備は一切支給せず、もし瓶が割れるなどの事故や不具合があった場合は至急こちらに連絡するように言いつけてある。
「足りてくれ」と祈りにも近い呟きが漏れた。
「あっ、こちらの傷薬も寄付の品ですか?」
「ええ、そうです」
特別な薬が入った木箱の下、もう一段にセアラは目を留めた。許可をもらって、二枚貝を容器にした軟膏を手に取る。
「この香り、やっぱり…。この薬は私が育った養護院にも寄付がありました。よく効くんですよ! 傷痕も残りにくいんです。何度、作っても同じようにならなくて…。きっと、特別な秘訣があるんだわ」
セアラは薬の匂いをもう一度、懐かしそうに嗅いだ。ほうっと頬に赤みがさす。
「あの、感謝の祈りを願う患者さんがいるのですが、お願いできますか?」
望まれたセアラは「もちろんです」と答えて別室に移動した。その隙にショノアはマルスェイに神殿でのセアラの扱いを耳打ちした。
「王宮に滞在できるよう掛け合ってきましょう。この事態ですからね。祈りを求める者が多くて神殿に帰っている暇はないでしょうから」
マルスェイはにこりと笑うと、物品管理者に離れる旨を伝えて救護室を出て行った。
粛々と作業は続けられる。残りを他の者に引き継ぐと衛生兵とショノアは各所の進捗と様子を見に廻った。
使命感、効能の高さへの驚き、薬が腐る前にという焦燥、それら様々な要因に知らず興奮状態だったのだろう。この特別な薬が狂気じみた欲望を刺激するものだと、その時は真に理解できていなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ふわぁ、と大きな欠伸をしたシルエは、着替えもせずに自室を出た。
「さぁーて、…あれ?」
大鍋で作った状態で放置していた薬がひとつも残っていない。
「ちょっと、僕が寝てる間に何してくれてるの?」
「なんで、一直線に俺ンとこに来るんだよ!」
「えー、だって…」
これまでの薬瓶は専用ではなく、融通してもらった物で代用していた。故に同じ瓶は別の用途で余所でも使用されている。偽物問題が発生した以上、変更は必須。現在も傭兵が狙われているため、予定していた補充は取り止め、今後についても再考すると話し合ったはず。
「ごめん。シルエ、その、薬なんだけど、勝手にもらって、その…」
サラドが革紐を編んでいる手を止めて、顔の前でパチっと手を合わせて謝った。卓上の浅箱には追加で納品された鈴が入っている。
「んー…。じゃあ、しょうがないかぁ…」
「おい、随分と態度が違わねぇか? コイツなら何してもいいのか?」
「えー、だって、サラドだしー」
ディネウの苦情に、答えになってない返しをする。薬の行き先は想像がつく。
「どうせ、王都の兵舎にでも持って行ったんでしょ」
口を尖らせて、承諾しかねるという意思を、一応は示す。気まずそうに、サラドの目が右に左にと揺れた。
「え…、まさか、王宮に?」
「うん…」
「それに関しては、あれだ。その方がよ、話が広まり易いか、と」
「んー?」
「薬を奪うような真似をしても無駄だって情報をだな」
内容物はこれまで作っていたものと同じ。治癒に慣れていない者でもギリギリ副反応がなく、効能はなるべく高く、その均衡を微調整した薬。
ただ、ちょっとした問題がある容器を使用した。
「え、まさか、あれ、使ったの?」
「おう、使ってやった」
悪戯が成功した子供のようにディネウは嬉しそうだ。サラドは全面的に賛同したわけではなさそうな顔をしている。