210 火の精霊の願い
形は山犬でも、その体躯は見上げるほどに大きい。
控えめに吠えた「グルゥ」というひと息で、熱波に対抗すべくノアラが築いた氷の壁は敢え無く溶けた。滝のように落ちる水が足元を濡らす間もなく蒸発する。もわもわとした蒸気は身を焼くほどに熱い。再度氷を発現させようにも、魔力ごと相殺されてしまい、奮闘するノアラの拳はプルプルと震えた。
じっとこちらを見詰めていた山犬は突然、ブルブルと身体を左右に揺り動かした。
その体内からにゅっと何かが突き出る。辛うじて五指があるとわかる形。火の精霊がサラドを呼んだ時の再現かのようで、シルエは咄嗟に手を伸ばした。パチパチと繰り返し手を打つ痛みに、幾層もの膜があると感じる。それを貫いてしっかと握ったのは確かに人の手の感触。
炎の山犬が身体を振る勢いと合わせ、グイッと引く。ぐるぐる巻きにされたかのような人の全身がズルリと引きずり出されると、山犬は一度ブルッと大きく身体を震わせた。その体は二回りほど小さくなっている。
繭のように、中の人物を包んでいた風と水飛沫がパッと飛び散っていく。その中心で四つん這いになり、溺れたかのように「ゲホッ、ゴホッ」と激しく咳き込んでいるのはサラドだった。
「サラド! サラド、大丈夫?」
「シルエ! 手を貸して!」
シルエの声に顔を上げたサラドは愁眉を開き、その手に縋り付いた。力を求められたシルエも緊迫した表情から一変、喜色満面になる。
「もちろん! サラドの頼みなら何だってするよ!」
やる気満々で「任せて!」と肩を回すシルエ。
立ち上がったサラドは「ありがとう。心強い」とにっこり笑い、ガラガラ声で歌うように詠唱をはじめた。
祈りの言葉とも、韻を踏んだ魔術の詠唱とも違う。古代語とも普段使用している言語とも違う。
だが、どこか懐旧の念を催させる響き。
シルエも杖を回転させて陣の円を描き、詠唱に入った。浄化と守護を祈る厳かな言の葉とサラドが紡ぐ旋律は絶妙に結びつき、二つで新たな音を作り出している。
サラドが横目でシルエの様子を窺う。その視線にシルエも目配せを返し、小さく頷く。ピタッと結の語が合わさる。
余韻の中、山犬が真白く輝いて光が溢れた。その足跡を辿るように、白い炎が頂上を目指して登っていく。
山犬は再び、水を振り払うかのようにブルブルと身体を揺り動かした。飛び散るのは火。鍛冶屋が鉄を打つ際の火花のような輝きの火だ。火花は島の至る所へ飛んでいく。まるで星が生み出されているかのよう。
火山島全体が星で飾られてキラキラと輝き、鎮まるのと共に光も収束していく。
その身から火を放った山犬はサラドと同じくらいの大きさまで縮んだ。
サラドがほっと息を漏らし、山犬を撫でる。甘えるようにパタパタと尻尾を振ると、その尾を追ってクルッと回り、火玉に、それが凝縮してポスっと音をたて、小鳥に変じた。定位置だとでも言いたげに、いそいそとランタンに戻る。
「あー…と、何だ、その。どうやら一件落着、でいいのか?」
「みんな、ごめん。火山島に来るの、大変だっただろう?」
「心配したんだよ! だって、火の神殿って、…あ」
言い終わらないうちにシルエの体が大きく傾いだ。
「シルエ?!」
「あ…、マズイ…。魔力を消費しても、体が軽く感じてて。風の最高位精霊の力に触れたからだと…、油断し…た…」
「魔力の枯渇だ。風の神殿跡でも極大の守護術を展開したから。しかも、神に近い場所で」
ノアラの解説にシルエがとろんとした目で「へーき、ちょっと眠い…だけ」と言った途端、ガックリと体が抜けて、ディネウに凭れかかった。
「うわっ。遊び疲れた子供じゃあるまいし、急に寝こけるな」
「ごめん、シルエ…、でも、ありがとう」
「んー…。サラドが…無事で…良かっ…た」
おぶろうとサラドが手を差し出せば、シルエは朦朧としながらも腕を突っぱねてディネウから離れる。
「サラド、てめぇも、無理すんな」
「うん。でも、少し…、少しだけ」
筋肉を完全に弛緩させたシルエはそれなりに重い。見たところ、本当に眠気だけで、魔力消失による不調はなさそうだ。それでも魔力を流し与える。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、負担をかけないように。
「ぐー…」
サラドの背でシルエはすぐに寝息をたてた。その表情も緩み切っている。
「俺はやっぱり、魔力っつうのが、よくわからねぇんだよな」
大剣を鞘に収めると、ディネウは後ろ頭をバリバリと掻いた。
「出血多量とか、極度の疲労困憊とか、そんなものだろうと想像したところで、多分、違うんだろ? 転移して来た時から、なんか、妙な興奮状態にあるな、とは思ったが…やっぱり、おかしかったんだな」
「もっと早く、気付いてやるべきだったな」と自嘲めいたディネウの呟きに、ノアラも顔を俯かせた。
「それにしても、そいつの、さっきの…は、何だ? 殺気や攻撃の気配はなかったが、それでも好意ではない…なんて言うんだろうな…良くない気を発してた」
ディネウがサラドの右腰に提げられたランタンを指す。その中で火の小鳥がピョンと跳ねた。
「ドラゴンなんて、はじめて見たぞ。力がない精霊じゃなかったのか。まさか、お前…」
ディネウの目はサラドの左腕と腰鞄に差した短剣を見ている。サラドは首を横に振った。
「ああ、ううん。火の最高位精霊が力を貸してくれて、あの姿に。呪詛に囚われた精霊を取り込んで回っていたんだよ。でも、オレの力じゃ浄化が間に合わなくて。シルエが来てくれて本当に助かった。…無理を強いちゃったけど…」
自身の魔力では足りない大きな力を精霊から借りる際、その対価としてサラドは血を捧げる。やむを得ない場合を除いては、弟たちから「やめろ」と反対されている方法。
例えば、枝先に残った雨の玉が陽の光を集める役目をして、枯葉に火が付く。落雷が火を生む。積み重ねられた塵の油脂が熱を持ち、発火する。非常に稀な偶然でも重ならなければ、森の中で火の精霊に会うことはない。
偵察を主とするサラドの活動上、火を常備しておくのは妨げとなるし、何より森林火災の原因にもなる。サラドがどちらを選ぶか、歴然としていた。
差し迫った状況で、火の気がないのに火の力を所望するには、精霊を喚ぶ力と併せて必要なため、自傷する他なかった。小さな火を預かってからは血を流すこともなくなっていたが、それでも強大な威力を望んだ分の礼をサラドは惜しまないだろう。
「俺たちが来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「あ、えっと、ね」
サラドは火山を見上げた。そこに火の最高位精霊の姿はない。高温で熱せられてゆらゆらと歪む頂の上空にサラドは目礼をする。声は返されないが、鷹揚に頷く火の最高位精霊の姿が脳裏に浮かぶ。
ディネウとノアラを促して、港へ向かう道すがら話すことにした。
「呼ばれて行った先は火山島じゃなくて、精霊界だった」
「は? 精霊界だ?」
「そう、だから、いきなり焼かれたとかはないから安心――」
目も口もあんぐりと開けて固まるディネウの姿は珍しい。だが、それ以上に、ノアラがサラドの体を確認するようにペタペタと触っていることに驚かされる。
「あ、あの…ノアラ…」
「実体はある」
納得がいったのか、ノアラが詰めた息を吐き出した。次にその目が宿すのは好奇の色だ。
「精霊界はどんなところだった?」
「あ…っと、体が馴染む前で、怠いし目はかすむし…。火の最高位精霊と話をするのが精一杯だった」
ノアラが残念そうに息を吐く。「ごめん?」と謝るサラドに「世界渡りの支障が出ていないなら、いい」と首を横に振った。
「…世界を渡ったってことか。嘘だろ」
復活したディネウが頭を掻き乱した。
「さっき、シルエが風の最高位精霊と会ったような話をしていたよな…。ってことは、オレが湖からこっちに来てから、まあまあ時間が経っているのかな。そうすると、時間の流れは違うのかも」
空に目を馳せて、陽の高さを確認する。夕暮れも近い。
「それで、お前を精霊界まで引っ張るくらいの理由が?」
「火の最高位精霊は呪詛と穢れを払うために、噴火を起こして島を海に沈めるつもりだった」
「は? そんなことしたら火はどうなるんだ?」
「海の底にあっても火山ではあるよ。噴火の源は海の底よりもずっと深い地中にあるんだ」
疑問符が顔に書いてあるようなディネウにノアラが解説を始めたが、彼は早々に「すまん。よくわからん」と降参を示した。
「何故、島を沈める必要が?」
「人を近付けさせないため」
魔人の術が組み込まれた呪詛の土塊は、火山島の力を啜り、精霊を喰らって得た力で、更に穢れを広げる。溜まった力は術の主に送られているという。排除するのに最高位精霊自ら力を揮えば、その大き過ぎる力が一気に充填されてしまう。
被害がじわじわと増えていくとしても呪詛に抗うか、大量の力が奪われることになってもこれ以上の被害を生むのを止めるか、板挟みになっていた。
「それから、全ての火の精霊を精霊界に帰す、と。…風の最高位精霊であれば『個々の精霊が好きにすればいい』と自由にさせるのだろうけれど。火の最高位精霊は、そうは考えないみたいで。有無を言わせず、ここにいる下位の精霊に『一旦、精霊界へ』と命令するって」
サラドを呼んだのは、この世界に残る精霊を託すため。サラドの身体には精霊界への道がある。
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