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202 風の聖域

 袋小路の壁面に、どう頑張っても体を捩じ込むことはできない亀裂があった。手を近づけると、そよそよとした微風の中に強い魔力を感じ、指先からぐにゃりと空間が歪むような、負荷が急激に体を抜ける。瞬きの間で目の前にあった壁は失せていた。まだ転移術に慣れていなかった頃の、酔うような感覚と降り注ぐ眩い光に顔を顰める。振り返ると、背後には空間を斜めに遮る大岩があり、その表面に彫られている図や文字には見覚えがあった。あの時は上部が湾曲した扉の形をしていることが確認できたが、今は上下とも半分以上が土に埋まっている。


「これは、これで…。ノアラが喜びそうな変化だな」


 シルエがいるのは当時とは比較にならない小さな空間。狂った風で削られ続けていた山の空洞は、今やその面影はなく、ただ岩の重みで崩れただけに見える。天井まで身長の倍ほどの高さしかなく、足元も岩だらけで平らな箇所がない。風穴の下の方がガランとした分、広く感じるかもしれない。

土の精霊の地道な修復により、かなり埋め立てが進んでいるようだ。祭壇へ続く階段だったと思われる岩が頂上へ吐き出されるか、山の一部となるのか、どちらにせよ、時間の問題なのだろう。


「ノアラはこれを直すって目標、まだ持っているのかな」


 天に空いた穴から射す光を遮るように手を翳すと、突風が吹き込み体を打った。その風とは逆方向にグイッと引き上げられる力が働き、足が浮く。その力に乗じ、軽く跳躍をして穴を抜ける。ふわっと着地をした先は山の頂上で、洞窟内にあった扉岩と良く似た大きな岩の板が垂直にそびえていた。

その根元には朽ちかけた箆とボソボソになった矢羽が風を受けて揺れている。


 扉の形をした岩の表面に渦と長い尾を組み合わせたような図を見つけて触れると、瞬間的な風が顔に吹き付けた。あの日と同じだ。

上空でゆらり、と雲が霞み、長い翅とそよぐ二股の尾が見え隠れする。

頭のてっぺんからぺしゃりと押し潰されるような強い圧。それがなくとも、シルエは素直に跪いた。


「拝謁を賜り――」


――人間の(ヽヽヽ)堅苦しい挨拶はいらないわ。前のままで良いのよ? 一寸の間に大きくなったわね


 まるで久しぶりに会った親戚のような口振り。

大きくてツヤツヤとした眼がふわりと柔らかな色に照る。精霊にしてみれば二十年という年月も『一寸』でしかないのだろう。


『前のままで』という要望にシルエはぐっと喉がしまる思いをした。以前の邂逅時、不遜な態度をとった自覚はある。

風の最高位精霊の姿は様々な特徴を備えていて、特定の何かには似ておらず、形容し難い。印象もくるくると変わる。人のような表情の変化がない顔は感情の機微がわかりにくい。その代わりに鏡面のような眼は一見無機質でありながら、微妙に色を変え続けている。サラドならばそこから敏く感じ取れるのだろう。シルエには揶揄されているのか、本当に素のままの態度を望まれているのか判断がつかない。


「水の最高位精霊様から伺い、こちらに参じました。異常などはございませんか」


――そうね。変な気配はあったわ。火の最高位精霊(あの方)の懸念通りに。ついさっきのは、あなたが排してくれたけれど、麓の方は多少荒れているかもしれないわね


風の最高位精霊の眼に暗い色が膨らむ。麓からじわじわと穢れが広がれば、たとえ空が本拠地だとしても悪影響は免れない。


――今日はあなた一人なのね?


首を巡らせずとも風の眼をもってすれば、シルエが一人なのは聞くまでもないことだろう。


「…サラドは火の神殿へ向かいました」


――そう。火と仲良しだものね。一番先に話したのは我なのに


やや拗ねたような口振り。精霊も嫉妬をするのだろうかとシルエは興味深く感じた。そうなれば、強力な好敵手になりうる。


「ここに、結界を敷くことをお許しください」


――ええ。いいわよ。ずっとずっと前にもあったのだもの。下も清めてくれたものね。心地が良いと下位の精霊(小さきもの)たちが喜んでいたの


風の最高位精霊の周囲には様々な色の小さな光がキラッキラと瞬いている。


「痛み入ります」


 シルエはすっくと立ち上がり、杖の先端から中央までを撫でるように滑らせた。指先から流された魔力を受け、杖に埋め込まれた石がポワっと灯る。蹴り上げてクルリと一回転させ、石の軌跡で二重円を描く。祈りの言葉と、握り手の指先、それと杖に添えられた手、それぞれが忙しなく動くのに応じて円の中に文字や文様、記号が浮かび、光を増す。


最高位精霊を取り囲んでいたキラリキラリと乱反射する無数の光が、次々にシルエに纏わり出した。ザワザワと耳を撫でる風の音は詠唱の旋律と合唱しているかのよう。時々、態と調子外れにヒュウと唸るのは悪戯心なのか。

いつの間にか最高位精霊の顔が迫っていて、大きな眼にひたと覗き込まれている。滑らかでゆるやかな凸状の全身鏡のような眼は、その実、表面が細分化されていて、数多の自分が見つめ返してくる。シルエは落ち着かない気分を払拭するように大きく息継ぎをして、清浄と守護の祈りに集中するため目を伏せた。


周囲の光をも取り込んで、通常より大きな力が巡るのを感じる。祈りの結をもって光が弾け、波のように広がり出す。そこに息を吹きかけられたような風と最高位精霊の翅が起こす振動が加わり、波はより高く広く、守護の力を運んでいく。


もうどの角度から吹いているのかさえわからないくらいにめちゃくちゃな風がシルエをもみくちゃにした。全身を打ち、足をすくう風の音はキャッキャと燥いでいるかのよう。


「うわ…」


シルエに纏わりついていた光が小さな旋風となって離れていく。奇蹟の光の波は乱反射する光をはらみ、自分の術でありながら、様相が全く違っていた。


風の最高位精霊は屈んでいた背を伸ばしていた。その存在が捉えられないくらいに素早く動いていた四枚の翅が静止すると薄い膜に美しい虹色が反射する。スッと伸ばした腕で一周を指し示すとグルっと風が舞い、巨大な柱が建ったように山を囲んだ。祝福を示すかの如く、柱の一部に彩雲が現われる。


森の奥で、潜伏していたらしい魔物の断末魔がいくつか上がった。眼下では黒い靄が地や木々から昇り霧散していく。清浄の力の煽りを受け、抗えなくなった魔物が消滅したらしい。

風と雲の柱は流され、一時の悪戯のように消えてしまったが、強力な結界は確かに施されていた。


「聖域だ…」


邪なる存在や害意を弾き返す結界に留まらず、近寄らせない聖域へ。地の力がぐんぐんと強まっていくことを、ピリピリと痺れる指先や体内の魔力が乱されることで実感する。

それはシルエの力だけではとても成すことができない偉業。伝承にあった聖域化が最高位精霊の協力によって完成している。否、シルエの術はきっかけにしか過ぎず、力の殆どは風の最高位精霊だろう。

途端に恥ずかしくなったシルエは構えていた杖を下ろし、両膝をついて恭しく礼を執った。


――これは、助けられた小さきものたちの希望。精霊のため。我ら風は特定の場所など必要としない。ここにあった祭壇は人が敬意と好意で建てたが、その役目を終えていた。我はもう、人との繋がりも要らぬ、と思っていた。けれど、閉じ込められていた子らも元気になり、またここを通りたいと望んだから。人のすることは…人に任すわ


「申し訳ございません。人が…無礼を働きましたことお詫びいたします。わたくしも御前を失礼し、すぐに立ち去ります」


――いいのよ。あなたの働きは精霊のためでもある


 人もおいそれとは立ち入れない聖域となった山頂で、シルエは目眩に堪えながらそっと顔を上げ、風の最高位精霊の姿を目に焼き付けた。


「…改めまして、加護を賜りありがとうございました。この力を高め、本懐を遂げたのも、お力添えをいただきましたお陰です」


――異な事を。言ったでしょう? あの願いは我の力には相応しくないと。加護があるだけでは何にもならぬ。できて、背中を押し、行き先を示すだけ、よ。努力は人がするもの。精霊の力ではないわね


 ディネウが交渉して得た風の加護。最高位精霊の加護ともなれば、人の身には大きすぎる力の筈。


 旅立ち後、魔物と戦う度、助けを求める精霊の声に応える度、三人がめきめきと成長し、実力を上げていったのは紛れもない事実だ。それに対し、サラドの技術や体格の伸びは緩やかだった。

シルエは三人の成長率を、狭い世界だった村を飛び出し、思う存分力を揮い、様々な経験を踏んだためだと分析していた。自分たちがやっとサラドに追い付いてきたのだと。

だが、ディネウはズルしているような後ろめたさを感じたのか、日課である鍛錬により力を入れた。もともと驕ることも慢心することもない性格ではあるが、その優れた力は仮初めで、いつか不意に失うかもしれないと厳しく己を律した。村で暮らしていた年月で身につけた剣の腕や膂力は努力のたまものであった筈なのに、それに対しても懐疑的になっているようにシルエには見えた。ディネウらしくない、とさえ思うほど。安易に加護を強請ったことを後悔しているのかと聞けば、少し悩んで首を振っていた。


シルエは密かに呆れていた。少し考えればわかりそうなものを、自分を追い込むことばかりして「バカみたい」と…。


――裏切らないように誠実であろうとするのは好感が持てるわ。加護がなくとも、その力はあなた方のもの


 今こうして冷めた心で風の最高位精霊と対峙すると、あの(ヽヽ)ディネウが自信を喪失し、ある日突然、加護を失って剣が持てなくなるのではないかと不安に駆られるのも頷けた。あの時、あんな態度を取れたことが不思議なくらいに、力の差は歴然としている。酸っぱいものが喉まで迫り上がってくるのは、磁場の転換のせいか。それとも、今更ながらに自身のふてぶてしさに気付いた慚愧の思い故か。


――また次はサラド…、そうね、お仲間も一緒に来るといいわ。下まで送りましょう。行きなさい。ほら、お仲間が来ているわよ?


 頭に直接響くその声は語尾にかけて風の唸りと同化していた。巨大な姿は殆どが空の色に溶けて見えなくなっている。もう輪郭線も不明瞭な手が此方を向き、そこにフッと息が吹きかけられた。サーと雲が流れる。


旋風に巻かれたシルエの体は、瞬きの間にまた移動していた。



 

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