201 シルエの思い出 旅のはじまり ⑨「いってきます」
春まで、またはそれ以上かかると思われていたシルエの骨折は、あり得ない早さで癒合している。シルエは体に魔力を巡らす訓練をしている最中に、自身の経過について気付いた。
除痛のためシルエとサラドが互いに治癒をかけっこする時間が気に入っているため、その事実は伏せている。
あんな体験をしても、傷の痛みがあっても、まだどこかでこんな日々が続くのではないかと思えた。
シルエ以上に、尋常ではない早さでサラドの傷は癒えている。風の最高位精霊の関与が考えられるとしても、人体の回復機能を遥かに凌駕していた。翌々日には起き上がって家事をしている所を見つかり、ディネウに怒鳴られていたくらいだった。
順調に快方へ向かっているのは喜ばしいことだが、それは同時に、この村で過ごす残りの日数が少ないことを表している。
サラドは気絶状態だったため、ディネウと風の最高位精霊との会話を聞いていない。決定事項として「四人で行く」と伝えてはある。だが、サラドは拒否をしなかったけれど、了承もしていない。困惑したようにシルエとノアラを交互に見ただけだ。
このままではまた一人でこっそりと旅立ってしまうのではないかとシルエは気が気じゃなかった。今はまだ歩行の補助に松葉杖が必要なので、もし出立してしまったら追いつくことは難しい。
「俺がちゃんと説得するから、シルエは骨が変な風にくっつかないように治療に専念しろ」
ディネウに頼るのは癪だが、シルエは甘受した。物理的にサラドを止められるのはディネウくらいだろうから。
結局、サラドがじっと静養することはなく、マーサの薬小屋の奥でせっせと薬や薬に準ずる品を作って過ごしていた。行商人に頼んだ背嚢や外套などの支払いに替えるためだ。
薬は使用に注意が必要なものもあるため、安易に卸すことはできない。同じ効能でも成分が違うものが数種あるうち、過って服用しても危険がない基本的な薬だけ。それでも、悪化を防いだり、命を繋ぐ一助になるようにと願って丁寧に仕上げていく。
その他に、これからの季節によく出るのが、体を温める効果に滋養を兼ねた飴。強い薬効はなく、予防や補助目的に、寒さで体が弱った時の他、狩りや屋外での作業中など広く使える。
しかも、サラドが作ったものは優しい甘みで薬臭さがない。それどころか、甘味は貴重なため、特に不調がなくても欲するくらい味が良い。
たとえ糖や蜜を多く使って作ったとしても、他者ではこうはならないから不思議だ。口に含んだ時に苦味や癖のある香りを強く感じ、途中甘みの方を感じるようになっても、また後味が舌に暫く残る。サラドが作った飴を食べたことがある幼子が、それと思って口にした瞬間「うえっ」と吐き出すなんてこともある。
作業は焦がさないよう箆で常にかき交ぜる必要があり、煮詰まって水分が抜けてくると抵抗が強くなるため案外力がいる。火から下ろす頃合いを見極めるのも、まだ熱く柔らかいうちに伸して定量になるよう刻み、舌触りが良くなるように丸くしていくのもコツと手際の良さが要る。マーサは体力的に厳しく、もう作らないと公言していた。
「私ももう年でね。今までは弟子が採取に行ってくれていたから作れていたが、この薬についてはもう無理だと理解しておくれ」
マーサは村の外から薬を求めて来る者には予め、今までのように用意ができなくなる旨をそれとなく伝えていた。継続を望まれても、材料が入手できなくなるので応えようがない。ここなら手に入ると期待させ、無駄足を踏ませるわけにはいかず、冷酷でもはっきりと告げる必要があった。
マーサは聴き取った症状や経過、どんな薬をどれだけ処方したかを記入していた帳簿に目を落とし、再度、念押しした。
「前にも伝えたが、この薬の主原料は特殊な条件の場所にしか根付かない。栽培には成功していないんだよ。手に入らなければ、どうしようもない。今回は偶々作れたけれど、次はない」
持病を抱えた主人のために定期的に来ている遣いの者は「そこを、なんとか…」と追い縋っている。マーサから今後の調薬が難しいと聞き、他を当たったが、結果は芳しくなかった。そもそも、ここが最後の頼みの綱だったのだ。
災害や魔物被害が増えてから、稀少な薬草はより入手困難になった。薬の値は高騰している。少し入手しにくい薬草が使われているだけで、幾ら請求されてしまうかわからない。薬が手に入ったとしても効能が怪しい場合が多い。信用度の高い医師や薬師は王族や貴族のお抱えになっていることが多く、まず診てもらえる者が限られてしまう。
マーサは知識も豊富で、その薬はこの辺鄙な村まで来る価値があるくらいに品質も確か。
「そのお弟子さんであれば作れるのですか。どこかで出店するのでしたら紹介いただけませんか」
「…独り立ちして店を出すわけじゃないんだ。修行の旅に出る…といったところか。意地悪で断っているんじゃないよ」
マーサは首を横に振った。遣いの者は今回出された薬を大事に抱え「また、来ます」と力なく言い、帰って行った。
「サラド、盗み聞きとは良い趣味じゃないよ」
「…ごめん」
奥の部屋でしていた作業音が途中から断たれていたことで、マーサはサラドが扉裏に控えているだろうと察した。特別な処方をしていた客に断りを入れる様子は、最後までサラドに見せずに済ませたかったと心中で溜め息を吐く。
「原料が手に入らなくなるのを気に病んではいけない」
「…うん」
「そもそもサラドがいなければ、今までもあの薬は作れなかったんだ。とてもじゃないが私には採取できないし、見つけることだって難しい」
「…精霊が教えてくれなければ、オレにも無理だよ」
「さ、手を止めたんなら、ついでに休憩をおし。茶でも淹れようかね」
マーサはこの話はお終いという合図のように、帳簿をパタンと閉じる。サラドはその帳簿にそっと目を馳せ「オレがやるよ」と湯を沸かしに奥へと身を返した。
冬が来る前に、なるべくたくさん精製してマーサの薬小屋をいっぱいにしておいた各種材料を使ってしまったため、サラドは採取にも出掛けることにした。
森に行くことを周りは案じ、賛成しかねた。特にシルエは一緒に行くこともできないため「行っちゃダメ」と拒否反応を示した。それでも、森に行けば山中から風が解放されたことで今まで以上の精霊と会えるのだと嬉しそうに言われれば、誰も反対できない。
まだ弓を引くような無茶はできないが、罠は仕掛けた。ディネウが捕獲や運搬、解体、加工を手伝う。獲物のうち半量ほどは村に提供し、ジルやマーサが反感を買わないようにも手を尽くした。
ノアラもジルの背に隠れながらだが、村で試しておきたい事を出来得る限りした。また、ジルの魔術書を借り、基礎を復習するように読み返す。本音を言えば模写をしたいが紙は貴重品で、ノアラが自由に使えるほどの量はない。魔術書は単なる教本で、魔術の発動自体に関係したり媒介になることはないが、持っているだけでも安心感があった。そんなことはお見通しだと言わんばかりにジルは愛蔵の書をノアラに与えた。
「これは、もうお前さんの物じゃ。わしが旅の魔術師から貰い受けたこの書を、わしの魔術を、ノアラに継ぐ」
「…ありがとうございます」
正面を向けて差し出された書をノアラは両手で恭しく受け取った。頬が紅潮する。
「わしは結局この本をくれた魔術師には再会できず、ほぼ独学じゃったが、ノアラはきっとすごい魔術師になるぞ。自慢の弟子じゃ」
ノアラは魔術書を胸に掻き抱いて「精進します」と小声で宣言した。
他の三人が着々と旅立ちに構えている様子にシルエは焦りを感じていた。後の問題はシルエの怪我のみだろう。副木を外すまで、大事をとってあと数日というところ。日数が短くて済んだので、筋肉の衰えもなさそうだ。
シルエは奇蹟の力を隠すのを止めた。
薬を求めて来た人に対して承諾とマーサの指示を受けて〝治癒を願う詩句〟を唱える。とにかく実践訓練を積んでおきたい、その一心で。
シルエの心にあるのは実験に臨むような気持ち。村の人々への献身的な気持ちは欠片もない。それを見透かされたのか、マーサからは自分を通さず勝手に人に治癒をしないよう厳命された。
複数の慣れない相手に効き具合の違いや症状に触れた感覚を得ていく。打ち身や切創、あかぎれ、除痛、疲労緩和くらいしかなかった治癒の経験は、飛躍的に増えた。
もちろん、それはもうすぐ村を出ていくからこそできること。奇蹟の力が使える者がいると神殿に伝われば、神の元で仕えるようにと迎えが来ることも考えられる。その危険を冒してでも、できることを増やしておきたかった。
シルエが奇蹟の力が使えること、しかも、町の神官よりも有能であるかもしれないと知ると村人の態度が一変した。過保護だと馬鹿にされてきたが、それにも納得したようだ。
シルエとノアラの能力は村にとっても有益のため、サラドと共に旅立つことに意見するようになった。本人の意思を全く無視した村人の要望には鼻白む。
いよいよシルエとノアラを村に留め置こうとする動きが現われた頃合で、討伐隊を組むのに人員を募集している話が伝えられた。冬になると山や森で獲物を得にくくなった獣や魔物が里に下りてくる件数が増える。ディネウが加入しようとしていた傭兵団も間違いなく参加するだろう。
怪我の回復も準備も万全とはいえないが、ある霧の濃い早朝、四人はひっそりと村を旅立った。
「いってきます」
「なぁに、いつでも帰って来るが良い」
「そうね。珍しい草でも見つけたら、どう調薬するか相談に乗るわよ」
見送るジルとマーサに、笑顔を向けて。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
見上げた天に空いているのは、元の小さな穴だ。底の一点を照らす光は細い筋で、その中で土埃がキラキラと舞っている。奥から穴に向けて吹く風がそよそよと髪を揺らす。風が穴を抜けるピューという高音はどこか楽しげに聞こえた。
「さて、」
シルエは暗い闇が待ち構える洞窟の奥に体を向けた。杖を前に突き出し、ゆっくりと左右に振って障害物を確認する。左手を岩肌に当てていても、目が慣れてくるまでは必然的に一歩が小さくなった。弱いけれど、常に向かい風を顔に感じながら進む。
あの時はサラドに背負われ、自分の足で歩いていなかったため感覚が違うとはいえ、洞窟の道は明らかに短い。その殆どが塞がってしまったのか、枝分かれともいえない窪みがあるだけで、すぐに行き止まりに当たった。
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