200 シルエの思い出 旅のはじまり ⑧ジルとマーサ
ジルが感慨深そうに「風穴にそんな秘密がのう…」と呟いた。
「わしもな、それなりに悪ガキだったからの。風穴に行ったことがある。村長、その頃はまだ村長の孫じゃったが…、に煽られてな。魔術を身につけたわしをやっかんだらしい」
「あの時は本当にいい迷惑でしたよ。年下の子の挑発にのるなんて。恥ずかしいったら」
マーサに溜め息を吐かれ、ジルはバツが悪そうにしながらもカッカと笑った。
「ピューピューいっていた音が、穴の側まで行くと低い唸り声のようになって…。穴を埋めたらどうかと思いついてな。だが、土がこちらの顔めがけて返ってくる。それはそれは驚いたもんだ」
ジルは目を眇めて、少々意地の悪い笑みを浮かべる。
「因みにあやつはサッサと逃げ帰ったぞい。『怖くなんかないし、怒られたくないからじゃない。守るべきを守る立場だからだ』なんて、べそをかいての」
「度胸試しで風穴に行った子供には大抵ちょっとお灸を据えて終わりにするのよ。だいだいが良い勉強をして帰って来る。もう、自ら無謀なことはしなくなるからね」
実兄を直と見詰めるマーサの目は「例外もいるけど」と言いたげだ。ジルはスッとその視線から逃げるように遠くを見遣り、小さく嘆息した。
「あの時、低くなった風の音に耳を澄ませていれば、苦しんでいるのがわかったのかもしれんな…」
報告の傍ら、ノアラは忘れないうちに今回の出来事を書き留めていた。書き出しはまだ指の震えが治まっていなかったのか、字も大きく乱れていたが、下段にいくにつれ文字列は細かく、随所に図も入れている。細部が思い出せないのか記憶があやふやなのか、うんうん唸って悔しそうにしていた。
「ジルにも、これ…見えていたか」
「ああ、ほんの一瞬じゃったから、幻でも見たのかと思ったわい」
ジルが目にしたのは天気が見せた悪戯のようなもの。ノアラが描いた風の最高位精霊の姿に驚きを隠せない。
「古い文献にあった神の一柱とよう似ておる」
「…村の奴らも見てたんかな」
「私には少し不思議な雲と陽光の揺らぎが見えたくらいだったわ。残念ね」
マーサは山がある方角に体を向け、胸の前で手を組み「この子たちを帰してくれてありがとうございます」と呟いた。
「…村長や村の連中にもこの話をするのか?」
「風の精霊様はその存在を知らしめ、崇め奉るようにと仰ったかの?」
「いや…言って…ないよな?」
ディネウが訊ねると、ノアラは視線を宙に遣って一寸考えてから、こくりと頷いた。
「ならば、山も風も自然に任せた方が良かろう。おそらく精霊様も応えたい者にだけ御姿を示したのだろうしな」
「いいのか? だってこの村はなんだか…ってのの子孫なんだろ?」
「それは人の都合じゃ。誰かに言われてではなく、心から手を合わせるようでなければ、意味なぞない。それに、目撃談を話したところで、こじつけだの、耄碌したのかと嘲笑されるのが関の山だろうな」
神官見習いであるジルが言えたことではないが、この村は古き神を祀る巫の末裔だと自負しながらも、神殿の教えに法っている者が大半だ。風の神を敬うことを忘れて久しい。
ジルが見習いの資格を得たのは信仰云々より実を取ってのこと。旅の道中、碌な弔いもなく死者を葬らねばならない場に何度も遭遇したことから、それなら自分が、と思い立ってのことだ。
魔術が使えることは伏せ、貯金をはたいてお布施も多めに積み、口八丁手八丁で葬儀だけでもと交渉した。災害や魔物被害が増えだしていた当時、神殿の戒律も少し緩かったのかもしれないし、ジルが門を叩いた所が寛容だったのかもしれない。
結果、最小限の修行で、神殿への所属や奉仕期間もなく、旅の身のままでの活動が許された。
コツコツ貯めた金子をポイッと出すことをマーサも了承し、修行に臨むジルを支えた。せめて安らかに送りたい気持ちは、助けられなかった命を前にしたマーサも同じだった。
資格を得てからは神殿の祈りに拘らず、土地に伝わる古い弔い方法を望む者には、なるべく意に添うようにその場その場で合わせていった。そんなジルは敬虔な信徒からは眉を顰められようと、引っ張りダコだった。
それはこの村に帰ってからも同じ。小さな村には神殿がないことが多く、神官もいない。この周辺地域のみならず、少し離れた町村や、討伐現場まで出向くことも珍しくなかった。
サラドは死を怖がることも厭がることもなく、小さいうちから自然とジルを手伝うようになった。ある時、依頼があって遠征先に行くと、そこには他の神官も来ていて、見習いでしかないジルが神殿に認められていない子供を遣いにしていることを咎めた。サラドは正式にジルの助手となれるよう、神官に従うことを迷わなかった。ジルは今回もきちんと寄進をし、修行後は村に帰れるように話をつけていたのだが…。
帰ってきたサラドの体には新しいものから日にちの経ったものまで多数の痣があった。ジルは抗議に行こうとしたが、当のサラドに止められた。神殿での仔細は語らず「資格を得られたし、神殿勤めを免除され、ジルの元に帰して貰えることになったからいい」と。
サラドが受ける修行は神官見習いよりも下の小僧のもの。ジルはそう聞いていた。子供が対象で行儀見習いに近く、それほど厳しい内容ではない筈。
だが、サラドは既に祈りを諳んじることができ、尚且、弱いながらも奇蹟の光を許されていたため、異例ながら見習いの資格が与えられた。
その時の経験があるから、シルエの力が露見しないようにサラドは神経を尖らせている。
サラド自身については特に隠している訳ではないが、神官見習いになったことも、奇蹟の力が使えることも村の人々は知らない。知ろうとしない。
「村は…昔からあの調子でな。サラドがどんなに善良で無害で努力家だとしても、認めようとしない。だいたいの予想はついておったから、サラドが物心つく前に、連れて出ようと思ったんじゃがの。まだお喋りをしだしたくらいのサラドが『森も川も山も…この村も、大好きだからここに居たい』と言うものでな。もう暫く様子を見ることにしてしまったんじゃ。…あれはサラドなりにわしを気遣ったのかと思ったんだが…、森にいっぱい友達がいると言い出した時は驚いたもんだ」
幼い頃のサラドは自身が流れて来たという川と初めて精霊の声を聞いた森を離れたら、精霊との交流ができなくなると懸念を抱いていたようだ。成長とともに話ができる精霊も増えていき、この地域に住む精霊とは離れがたい絆が育っていた。
「サラドの話に耳を傾け、見えない存在を意識し、感謝するようになったら、魔術の威力が増してな。この歳でもまだ強くなれるとは思わなんだ。若い頃に知っておったら、何でも屋ではなく、魔術師として大成できたかものぅ」
「若い内に魔術が今くらい使えていたら、兄さんの性格だと、いい気になってどこかで御陀仏になっていたでしょうね」
「相変わらず、手厳しい。まぁ、この村で魔物を追い払うのが楽になったから御の字じゃ」
ジルは目を伏せて「精霊からサラドを託されたというのに、力及ばず、わしはあの子を孤立させてしまったな…」とぼそりと独り言つ。いつもの飄々とした雰囲気は失せ、その目には後悔が滲む。
「俺はジルのことを尊敬してる。知識も、腕っぷしも、人柄も。ジルのところで生活できて幸運だったと思う」
口を衝いて出た言葉に照れたのかディネウは襟足に手を当てて誤魔化すようにカップを見つめた。「傭兵になるから村を出ていく」と宣言した時もこんな風にしんみりとした会話はしていない。
「だから、あん時、一緒に来いって誘ってくれたサラドには本当に感謝してるんだ」
魔物の討伐で両親が戦死し、行く宛のなくなったディネウをサラドが紹介してきた日のことはジルも良く覚えている。
「俺はさ、サラドに初めて会ったのが、あの弔いの夜、歌ってる時で。『ああ、コイツは色々できるヤツなんだな』って納得しちまって、精霊が見えると告白された時も『そうか』ぐらいで…。深く考えなかった」
洞窟の中で精霊の狂気と殺気に触れ、サラドにはずっとこれが聞こえていたのかと思うとゾッとした。
「俺、アイツが…まさか、あんな覚悟をしてるとは知らずに…、チクショ、脳天気に一緒に傭兵になろうぜ、だなんて」
「ディネウのその感じたままに受け入れる気質は美徳じゃよ。だからこそサラドも安心して気を許せたんだろう。気心の知れた弟がいて何よりじゃ」
「…弟じゃねぇし」
「フフ…。サラドの兄弟を見つける才は大したもんじゃ」
「本当に驚かされる事の連続で。何度肝を冷やしたか」
「それぞれ、教え甲斐のある子ばかりで、将来が楽しみじゃわい」
「四人には一通りの雑事がこなせるよう叩き込んである。大丈夫、自慢の子たちだからね」
ジルとマーサが目尻に皺を寄せて思い出話に花を咲かせる。
「もし、傭兵がダメでも便利屋ってのもありだよ。兄さんみたいにさ。ディネウは獣の解体は特にいい腕をしているし…」
「えっ、嫌だよ。俺は傭兵になるのを絶対諦めない」
悄気げていたディネウに「そう、その意気だよ」とマーサは微笑んだ。
「村を出たって色んな種類の人間がいるからね。厄介なのは蔑んでくる者より、下心を見せずに利用しようと近付いてくる輩。サラドは兄さんみたいにお調子者にはなれそうもないから。獣の足跡を追うのも、状況判断もわりとすぐにものにしたから、ついでに人の癖を見分けたり、系統や類似ごとにそれぞれの対処法なんかも教えこんだよ。治らないと文句を言ってきたり、理不尽な要求を通そうとする者なんてゴロゴロいるからね。薬師をするなら軽くいなせるようでなきゃ」
マーサが自身を強く見せるように、腰に手を当てて胸を張った。
「ディネウは勘が鋭い。怪しいと直感したり、本能的に嫌なものを嗅ぎ分けたりね。サラドは…自分が我慢をすることで波風が立たないのならと考える癖がついている。自信もあまり強くない。もし、サラドが迷っていたら、その勘で助けてやっておくれ」
「おう、任せろ」
「ノアラもね。もう兄さんよりサラドより魔術の腕前は上なんだ。サラドが今回みたいに命を投げ出す無茶をしないよう頼んだよ」
「はい」
「うん、いい返事だ」
照れたノアラの口角がほんの少し上がる。
「なんか…ホント、…敵わねぇや」
ディネウがガシガシと後ろ頭を掻いた。ノアラが深く頷く。
「旅でしか得られない経験や知識があるように、「ただいま」と帰る家があり、一つ所で育まれたのが良い思い出になってくれているといいんだけれどね」
「わしらの方が、賑やかで楽しくて有意義で…得難い日々を過ごさせてもらったようじゃ。過分な程に。はぁ…寂しくなるのぅ」
マーサがそっと背を向けて、前掛けの端で目尻を拭ったのを見て、ディネウはノアラを促して居間を後にした。
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