199 シルエの思い出 旅のはじまり ⑦風の届く限り
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シルエは風の最高位精霊など知らんぷりしていた。
関心事はサラドの容態。止血はできたようだが、意識は依然戻らず、呼吸は今にも止まりそう。効果があろうとなかろうと、何度も何度も治癒を繰り返すのに精一杯だった。
魔力過多のシルエはこれくらいで魔力不足にはならないはず。だが、自身の怪我のせいか、精霊に集られたせいか、普段の修練時と比較して、疲労感がおかしい。ぎゅっと目を閉じ、嘔吐いても咳で無理矢理抑え込む。自らを奮起するように「もう、一度」と呟き、〝治癒を願う詩句〟を唱え始める。つと、手を握られた。
「おい、シルエ、それ以上は…」
「うるさいっ。ディネウは風の精霊とでも喋ってれば!」
心配して制止をしたディネウに食って掛かり、振り解こうと左腕を勢いよく上げる。シルエはふぅふぅと荒く息をした。治癒の光が萎んでいく。
「僕は加護なんかなくったってサラドの役に立って見せる! 僕がサラドを守る!」
苛立ちなのか、憤りなのか、己の不甲斐なさで惨めなのか、ぐちゃぐちゃの感情にぎゅっと左手を握った。ふるふると震える拳にそっと触れる指先の感触があり、シルエは目線を下げた。
「…も…う…いい…よ。シ…ルエ、あり…がと」
「サラド!」
――我とは『はじめまして』になるかしら。小さきものたちに代わり、感謝を。ここに閉じ込められていた我らの同胞は、殆どが精霊界に帰りましたよ。あなたとお仲間のお陰ね
気付けば風の最高位精霊の顔がすぐ横にあった。大きな眼の中には無数のサラドが映り込み、一部にはシルエも映っている。
「良か…た…。風…、お会…い…でき…て、光栄…で…す」
――こちらもよ。話をしても良いと思う人間など、いつぶりかしら
風の最高位精霊がころころと笑えば、血と汗でペッタリとしたサラドの髪が揺れた。微風に乗ってキラキラと輝く粉が舞い降り、痛みに歪んだ顔が少しだけほころぶ。
「シルエ…こ…れは、オレ…が、望ん…だ…こと。精霊…の…せい…じゃ…ない。だ…から」
「もう、喋らないで! わかったから! 僕が悪かった。精霊に八つ当たりをした。精霊は悪くない。サラドが信じる精霊を、僕も信じる」
「うん…」
うっすらと開かれていたサラドの目が安心したように閉じられた。
「サラド…? ねぇ…やだ…」
「大丈夫だ。呼吸は安定してきている。疲れたんだろ」
サラドを揺すろうとするシルエの手を遮り、宥めるようにディネウが頭に手をぽすっと置いた。シルエはすぐさま荒々しく払い除ける。
「だけど! 狂っているとか関係ない、もし精霊がサラドを傷付けるなら、僕が許さない」
最高位精霊という絶対強者を前に、負けじとシルエはキッと睨む。ディネウはポリポリと頭を掻いた。
「俺も、悪いが…。サラドみてぇに精霊の存在は見えねぇし、聞こえねぇから、襲ってくるものは返り討ちにする。自分と仲間の命を優先させてもらう」
ノアラもディネウの言にこくりと頷き、眥の涙を手の甲で拭った。
――ふふ。仲間への思いの丈、その心意気しかと聞かせてもらいました。良いでしょう。あなた方に我が加護を与えます
「本当にいいのか?」
ディネウが信じられないというように振り仰ぐ。
――但し、我が力は風。あなたの望みを叶えるのに相応しい力とは言えないの。だから、ほんの少し背中を押すだけになるでしょう
風の最高位精霊が翅を震わすとそれに合わせ視界が明滅した。向かい風を受けて、奇妙な浮遊感を覚えたかと思えば四人は山腹にいた。
この季節にしては温い風が頂から下りてくるのを感じて見上げると、風の最高位精霊がグングンと空に昇っているところだった。光を弾く翅を広げた姿は美しく、神々しい。洞窟内で見た時よりももっともっと大きく感じる。その周囲にチカチカと閃く光がどっと集まり、光背のよう。それらはもう刃の形をとっていない。
――この風が届く限り、あなた方は我らが盟友。但し、我が力を受けるからには、覚悟なさい。その心、濁るようであれば、代償を払うことになるでしょう
「心得た!」
ディネウが声の限りに叫ぶ。風の最高位精霊の眼が虹色に輝いた。微かに見えていた輪郭は空に融け、旋風が麓まで届く。
風穴はほぼ埋まっていて、ピーピー泣く風の音はもうしていない。
シルエが風穴に落ちた一件、サラドが気に病んでいた助けを呼ぶ風の問題はこれで落着した。
ディネウがサラドに、ノアラがシルエに肩を貸してなんとか山を下りる。血でぬるつくサラドを支えながら、ディネウは何度か悪態を吐き、シルエがふらつく度にノアラはビクリと体を震わすので、舌打ちされていた。
「おう、おう…。よく戻って来たな。ようやった」
迎えたジルはズタボロな四人の姿に悲痛な表情になるも、生きて帰って来たことを喜んだ。聞きたいことは山とあるだろうに、ただ健闘を称え、「さあ、家に帰ろう」と促す。
行商人もそこで待っていてくれた。村長も村人もいないことにシルエが皮肉っぽく笑う。
いつもは村の入口付近で商いをする荷馬車が素通りし、奥へ奥へと進むことを不審に思い、様子を窺う目が幾対もある。荷台にいるジルとその養子四人の姿を認めると顔を青褪めさせた。まだ軽症の方のディネウとノアラでも服は切り刻まれて千切れ、土埃や血で汚れている。シルエは手と足に副木をされてグルグル巻き、サラドは血塗れで意識もない状態。
行方不明だったシルエと探しに山へ向かったディネウが戻って来たという報せを受けて、村長らが訪れた。一応、良心の呵責があるのか、大人に付き添われたいじめっ子の姿もある。
「あの、さっきは、その、ごめ――あっ」
ジルは行商人と話をしていて、ディネウとノアラでサラドを運んでおり、シルエが一人荷台に残された。その隙を見計らって、いじめっ子が声を掛けてきたが、シルエは聞こえないとばかりに無視を決め込んでいる。取り付く島もない態度と、ジルの家からディネウが戻って来たこともあり、いじめっ子はすごすごと下がった。
荷台にあるサラドの背負い鞄に手を掛けたジルをディネウが止める。
「ジル、無理すんな。それは俺が運ぶ」
「なんの、昔はわしがこの鞄を背負っておったんじゃ」
サラドの旅立ち用の荷物は連日の野営にも対応できるよう装備が揃えられ、重さはかなりのもの。鞄も中身も殆どがジルとマーサから譲り受けた品で、修繕や手入れをしてサラドはこの日に備えていた。
「ふんっ、ぐぅ…痛てて…」
「ほら、言わんこっちゃない。寒い中、ずっと待ってくれてたんだ。腰にも負担がきてんだろ。無茶すんなって」
「これ、年寄り扱いするでない」
ジルとディネウの掛け合いは日常の延長線のようで、緊迫した雰囲気を払拭させた。四人の見た目の酷さに閉口していた村人たちも、ジルが演出する『何てことない』雰囲気に、事件性はないと胸を撫で下ろす。ことを荒立てたくない者は散会していった。
痛みを逃がすようにトントンと腰を叩くジルの気を引くように、村長が態とらしくコホンと咳をした。
「ジル、何があったか、聞かせてくれるのだろうな」
「はて? 今回の事は、子供たちのちょっとしたやんちゃだったと話はついたのではなかったかの」
ジルの目配せを受けてディネウは小さく頷いた。どんな理由があれ、山に行った科を追求される可能性はある。ディネウは説明が得意ではない。質問責めになるのも、余計な詮索をされるのも御免だ。真実を話しても曲解され、またサラドが悪し様に言われるのを防ぐためにも、ここはジルに任せることにした。
サラドの荷をひょいと背負うと、シルエに向けて手を広げる。
「んな、嫌そうな顔すんな。しゃーねぇだろ。俺で諦めろ」
「…ん」
シルエは渋々ディネウに持ち上げられた。
「おっちゃんもありがとな。助かったぜ」
「なんの、なんの。頼まれた物は近いうちに届けられるよう手配するよ。他にも必要な物があれば用立てるから、声を掛けてくれ」
行商人には村に戻る道中で旅立ちに必要な品の相談をしていた。ディネウはある程度の準備を進めているが、シルエとノアラはまだ何の用意もない。特に大きくて丈夫な鞄は必需品になる。
「マーサ殿にも、また薬をお願いしたい。よろしく伝えてくれ」
あとは村内の問題。部外者が下手に首を突っ込めば、彼らの立場が悪くなると憂慮して行商人はそそくさとその場を離れることにした。
ジルの家ではマーサが慌てた様子もなく、傷の処置を施していた。打ち身など、想定される薬は既にズラリと並べられている。冷静に見えるが、気を揉んで仕方が無かったのだろう。小言のような言葉が漏れる。
「まったく、こんな…。心配かけるんじゃないよ」
「…ごめ…ん」
朦朧とした意識でもサラドはマーサに応えを返していた。
深刻だと思われた傷は汚れを拭うと、かなり回復が進んでいる。痕が残ることは避けられないが、多少動きに違和感を覚えるくらいで済みそうだとマーサも安堵の息をついた。
シルエはサラドから離れるのを嫌がった。
「おい、シルエ。あんま、駄々をこねるな。いい加減サラドにベッタリなのも直せ」
自身も安静が必要なのに、サラドの脇に潜り込む。マーサに叱られても聞かず、ディネウのことも無視し、狭いベッドに身を落ち着かせた。
「まあ、今日はしゃーないか」
シルエは今日何度繰り返したかわからない〝治癒を願う詩句〟をうわごとでも唱えているらしい。時々、ポワッと淡く光る。暫く観察していても、痛みに魘されたり、痙攣したりする様子はないことに安堵し、ディネウは壁沿いにベッドが四つ配置された部屋を後にした。
「サラドとシルエはどうだ?」
「今は良く眠っているよ」
ジルが「うんうん、そりゃ、良かった」と顎髭を扱き、マーサが淹れてくれた茶を啜る。
ノアラも継ぎ足しのあるテーブルの端について、カップを両手で包み手を温めていた。小心者のノアラはまだ緊張と不安から解放されていないのか、少し手に震えが残っている。
「ジル、悪かったな。…その村長とかは…大丈夫だったか?」
ディネウがポリポリと髪を掻く。責立てるような声は聞こえなかったし、村長もすぐに帰ったようだが、不安はあった。
「俺たちさ、村を出てくから。だから、悪モンになったっていいんだ。ジルが責任を負う必要はねぇよ」
「なぁに、子供が心配するでないわ」
「子供って…。俺、もう十五だし」
「それでも、わしの大事な子供たちじゃ」
細かい観察や会話の詳細はノアラの方がよく記憶している。所々に補助を入れてもらいながら、ジルに今日あった出来事を報告した。
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