198 シルエの思い出 旅のはじまり ⑥死人送りの少年は死に損ない
サラドが持つ片手剣について追記しました
宵へ移り変わる狭間のひと時。朱の上に薄い青の膜、青から藍そして紫に変わる空。サラドの目は残照の朱を受けていつもの橙より色を深めた。
(あれ…、いつの間にこんな時間に? というより洞窟の中にいたはずなのに、ここは…)
朱の空から牡丹雪のようにはらはらと淡い光が舞い落ちる。サラドの横を通り過ぎ、一様に暗い方へと向かう光の粒は薄暮の中で存在を強めていく。背後を見ると、無数の小さな光が帯状に連なり、黒に近い紫色の空まで道のように続いている。他に何もない。足の下は闇。とても静かだ。
(オレはここを知っている? 前にも来た?)
既視感というより、心が落ち着く感覚にサラドは「ほぅ」と息を吐いた。無意識に左胸を擦る。深く息を吸っても、あるはずの痛みはない。
――サラド、帰ろう 引き返そう
サラドの周囲を精霊がフワフワと飛び、空のまだ少し明るいところを指す。
「でも、オレ…、あそこに行かないと」
サラドは光の粒で作られた道の先を指差した。とても強く惹き付けられ、焦がれてやまない。精霊たちは『だめ』『帰ろう』と繰り返し、髪や袖を引っ張る。
「ここまで一緒に来てくれてありがとう。みんなは在るべき場所に帰って。…オレは行くね」
――だめだよ そっちへ行っちゃだめ
困ったように微笑み、歩き出したサラドに精霊たちも続く。どうしようもないところまではいいか、とサラドも道連れを容認した。親しんだ精霊の存在は正直、心強くもあるし、単純に一緒にいると楽しい。
気付けば、サラドもひしめき合う光に揉まれて、川を流されるように進んでいる。
途中で、周囲の流れに乗ることなく揺蕩う光を見つけ、そっと抱き上げた。腕の中で光の粒は産後まもない赤児となった。耳を澄ますと嘆き悲しむ大人の声がする。ペチペチと尻を叩いて『泣け、息をしろ』と励ます声も。
薬師のマーサ助産師でもあり、サラドも手伝いをしたことがある。男子なので、その場には居合わせられないが、外で湯を沸かしたり、洗濯をしたり、薬膳食を作ったり。サラドが抱くことを許されたのは死産だった子。その子に死人送りの準備をしてやるためだった。元気に泣く子の顔を見せ「いいわよ。祝福して頂戴」と言ってくれる母親もいたが、サラドの方が遠慮をした。
今、腕の中にいる子も出産に時間がかかり過ぎたのか、力尽きてしまったらしい。でも、まだ「生きたい」という意思を感じるし、諦めずにいる大人たちに囲まれている気配もある。
サラドはまだしわしわの赤児の額に口づけた。
すると赤児は「ふぇ」と泣き出した。そっと手を離すと光の粒に戻り、道を逸れ闇を抜けていく。
「がんばって」
死出の旅から引き返した魂を見送るとサラドはまた流れに身を任せた。
もうすぐ、道は途切れる。そこを過ぎると、ひとつの川のようになっていた光はそれぞれに浮遊し、命の環に還っていく。
――来たか まだ早いのではないか
精霊とはまた違う声質がサラドを出迎えた。
「あ、」
サラドはこの声を知っている。魂に刻まれている、といった方が正しいだろうか。
この声は〝死〟
ひとつの命を終えた魂が環に還るのを見守る存在。まだ名前ももらっていない赤子だったサラドはここに来て、そして――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
善人も悪人も、幸福な人生を送った者も不幸のどん底にいた者も、死の前では皆平等。
死は概念。生者にも死者にも干渉することはなく、ただ死の門を潜る魂を見守る。根が張ったようにそこから動くことはない。魂の列が途切れることはないのでそもそも動くことはできない。
生命の環に戻る魂を見送り、全ての務めを終えた魂は掬い取って労い、安らかな眠りにと導く。生前の業深さ故に環に戻れずに堕ちてゆく魂もある。時折、死に抗おうと列を飛び出そうとする魂もいるが、ふわりと伸ばされた死の腕でまた列へと戻される。ほんのたまに、生者の呼ぶ声に立ち止まり、死のお目溢しによって逃げ果せる魂もいるが。
魂が門に来る速度は一定ではなく、それぞれ駆け足のようだったり、のろのろとしていたり。
環の中で魂は揺蕩い、生前の記憶を忘れることで癒やされ、再び生れ出づる日を待つ。その期間も各々違う。
朝も夜も、日も時間という感覚もない空間に魂はひっきりなしに訪れる。災害や疫病、戦争などによりその数が急増することはあるが、ここのところその数は増しに増し、常に大渋滞が続いていた。門を潜るのに時間がかかればかかるほど魂の疲労は蓄積し、環に還った後、生まれ変わるのに時間を要してしまう。門を見失い魂が迷うことだってある。生命誕生から長いこと、門を見守っていてこういった事態は何度かあった。
生まれて間もなく儚くなった魂が舞い戻る数は一定数ある。まだ何の経験もしていない無垢なる魂の輝きは他と違うので区別しやすい。本来なら白い魂が昏く、泣き声を伴って列を成すのを見て死は重い腰を上げた。せめて泣き止むようにと魂を撫でていく。環に還る魂の安寧を願って。
これは殺された赤児の魂。その数…人柱か何かかと死は推測した。人のような感情があれば深い溜め息を吐いただろう。その時の異変は感情を持ち得ない死にとっても由々しき事態に思えた。
その列の最後に、これまた珍しくも精霊が付き纏っている無垢な魂がひとつ。精霊がここまで来ることなど稀も稀だ。精霊は死んでもまた精霊界に還るため、この門は通らない。時という感覚を持ち得ない死でも最後に精霊を見たのはかなり前のこと。その時は契約関係にあった魂を見送りに来たのだったか。
――この様な場所に何用か
死の門を目前にして行かせまいと魂を引き留めようとしている精霊に問う。
――この子はわたしたちのもの
精霊が答える。
更に珍しいことにその赤児には風、火、土、水、それに引き寄せられたのか闇の精霊まで揃っている。この場が苦手なのか光の精霊は少し離れたところで漂っていた。
――返して
――…いいだろう。その魂に役目を与えても良ければ
精霊は死と対立するつもりはなく、この魂が何を持とうと構わなかった。
――身体にお帰り。お前に死者の魂を門へ導く力を授ける。今、迷子が多いのでな
門の傍らから動くことのない死は赤児の魂に向けて力を放った。人に例えるなら、息を吹きかける、そんな動作だ。蝋燭の火を揺らすことはあっても消えないような細く長い息。魂に力が届くと波打つように揺れた。
人の感覚など死には無用のため、精霊が執着しているのを良いことに、加護を与えた。それはまだ小さな魂には重すぎる役目。普通の魂ならば人として生きていくことが不可能なほどに。
死の気まぐれによって精霊付きの赤児の魂は門から遠ざかっていく。
――良い人生を
死は自身の力の一端を受け取った魂を見送った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――これまでのお前の生き様も見ておった。人の人生に関心などなかったが、なかなかに興味深かった
「オレの…?」
――力が繋がっておる故
「あの鎮魂歌は精霊が教えてくれたものだと思っていたけど…。あの歌は死の力?」
――半分正しい。歌は知らぬが、それがここに導く力を持っているのは真実だろうな。お前が自然と望み、自ら鍛えた力。誇って良い
感情を持たぬ死は歌わない。魂を導くのに特別なこともしない。ただ、人が死を悼んで歌うという事象は知っている。
「オレの生に役目があったなんて…」
――積極的に何かを成せとは望んではおらぬ。ここでは珍しい精霊という存在に、ただの気紛れを起こしたまで
「…何もしなくても良いのですか?」
――気になることがあるならすれば良い。ただ、力を与えてしまった故、お前が環に還ることは叶わぬ。行き着く先はここ。いつかはここに戻り、配下となれ。だが、まだまだ先で良い。人の世で何が起きているのか代わりに見てきてくれ
水面に浮いた木の葉に息を吹きかけて遠ざけるように、力の波が押し寄せてサラドの体が揺れる。じわじわと死から離れる。
「でも――」
サラドはその場に留まろうとするが、流された分を戻ろうとしても前に進めない。泳ぐようにして掻いた手に何かがコツと当たった。ぼやりと光ったそれは次第に輪郭を顕わにする。少し反りのある片手剣。握り手の保護がある柄はあまり見たことがない形だった。
――それを持って、今は、お帰り
「これは?」
――いつだったか…。死に刃向かい、死を覆そうとした者がいた。その時の落とし物だ。お前の助けになるだろう
落とし物、ということはその者も結局は死の命運からは逃れられなかったのだろう。
――名を
「我が名はサラド」
促されるままに名乗れば、鞘の文様が応えるように閃く。
――ほら、お行き。あの時と同じく精霊も待っているし、呼ぶ声も聞こえるだろう?
『何が最高位さ、精霊なんて嫌いだ! サラドを苦しめ、奪うだけじゃないか!』
はっきりと聞こえたシルエの声にサラドはハッと顔を上げた。
「いけない、シルエ。精霊にそんなことを言っては。それにオレは――」
そう声にした途端にサラドの魂は急激な目眩と加速感に襲われた。
――行っておいで。また、いつか
「オレは…」
見送る死の声。サラドは剣をベルトにぎゅうぎゅうと押し込み、なくさないように手で押えた。閉じそうになる瞼を必死に開けて、環に還る光を目に焼き付ける。
――行こう 行こう
――こっち こっち
精霊の声に引っ張られ、サラドはとうとう目を伏せた。
「――がはっ」
サラドの身体が痙攣を起こし、血を吐いた。
「サラド!」
――無事、戻って来られたようですね
シルエは急変したサラドにすかさず〝治癒を願う詩句〟を唱える。今度は光が身体を覆った。まだ意識は戻らず予断を許さない状態だが、息はしている。
「…無事? サラドは大丈夫なのか?」
風の最高位精霊が悠然と首肯する。その周囲ではチラチラと光が弾けた。
「…良かった。何だよ。ビビらせんな…」
ディネウは力が抜けたようにドカッとその場に座り込んだ。ノアラは涙目になっている。
サラドを見守るように頭部を寄せていた風の最高位精霊が身を起こした。山の頂に空いた穴がすぐそこという遥か高い位置から見下ろされ、改めてその大きさを知る。
――今、地上の彼方此方で精霊が喰われています。その悲鳴がサラドには聞こえるのでしょう。きっとこの子は助けに向かわずにはいられない。あなたたちはどうする? 共に行くのか?
心の奥底まで覗かれるような眼に見据えられ、ディネウはブルッと体を震わせた。ノアラはぎゅっと衣服を掴んで緊張に堪え、それでも目は風の最高位精霊から離さない。
「…俺は傭兵だ。仕事を請け負う以上は、どんなに馬鹿らしくても、むかつくことでも、我慢する。命を守る以外の理由では逃げるなんてしない。だから、それは依頼と受け取る。仕事には報酬がつきものなんだ」
――人間は、その様な考えで行動するのですか
「いや、単に俺の信条だ」
――報酬を寄越せと?
「身に染みたんだ。俺たちでは手も足も出ないって。サラドも今の実力では助けに行きたくても何もできないと言っていた通りだった。この先どんなに努力をしたってきっと敵いっこない。だから、ちっと、ほんのちっとで良いんだ。俺たちにも力を貸してくれ! コイツの望みに協力できるように」
――そういうこと。我を相手に交渉とは豪気な。何を望む? 竜巻を呼ぶ力? 残念だけれど、そこの子はまだ風と仲良しではないみたいね
風の最高位精霊の眼に映ったノアラは恥ずかしそうに顔を俯かせた。ディネウは特に考えがあったわけではないようで「うーん」と首を傾げる。
「…、それぞれが存分に戦えるように、能力を伸ばせる…とか?」
――それには努力が必要ぞ?
「急に大きな力を持つなんておっかないだけだ。いいよな?」
気圧されて震えながらも堂々と声を張っていたディネウが急に不安そうにシルエとノアラを振り返った。