196 シルエの思い出 旅のはじまり ④風の泣く山
洞窟内は背筋を伸ばしたまま歩ける場所もあれば這うように進むしかない場所もあった。先が見通せないこともあって、体感では深く長い。それほど複雑な構造をしておらず、魔物など襲ってくるような存在には出会わずにいられたのは幸運といえた。その代わり、ところどころに今にも力尽きそうな風の精霊がいる。力をちょっと分けてやり、外に通ずる方向を示すと、弱々しくもサラドの髪を揺らした。
穴は小さいけれど精霊なら抜けられる。その際にはピューと泣くだろう。
行く手に大きな岩が目立つようになると、その奥からヒュン、ヒュンと風を切る鋭い音が聞こえた。偶に突風も抜けていく。顔など、皮膚が出ている箇所に風が当たるとピリッと裂け、痛い。
岩はどれにも直線的な部分があり、自然物ではない形に見えた。乗り越えたり隙間を縫うように進む。
一際大きな岩が通路を半ば塞ぐ。扉のような形で装飾が彫られた岩の板だ。両脇には横を向けばギリギリ通れるかどうかの隙間がある。
時々向こう側から咆哮のような低音が響き、その度にビシッビシッと反対側に何かが叩きつけられる振動が伝わる。岩は簡単に動きそうにもないが、何年もかけてじわりじわりと押し出されているらしい跡が床にあった。
サラドがランタンで照らす部分をノアラが興味津々に覗き込む。ランタンをノアラに渡すと扉岩を食い入るように観察した。
「この模様、山々と…、これは雲? じゃあ、この頂上から階段が延びてる先は? 波紋みたいなのは風?」
「…多分、だけど。空にあった祭壇が墜ちて、山を穿ったんだと」
「空に祭壇? 古代技術? 文字はないのかな。全体が見られるといいのに」
珍しく口数の多いノアラは「これが古代の遺跡…」と呟いて岩にそっと触れ、弾かれるように手を引っ込めた。それからまた恐る恐る手の平をぺたりと付ける。
「気のせい…? さっき術式の欠片みたいなものが見えた気がした。…いつか、直せたら、いいな」
「うん、できたら、いいな」
サラドが穏やかに笑み、肯定する。痛みがあったり痺れたりしたわけではないが、ノアラは拳を開いたり握ったりして手の感覚を確かめている。
「こんだけ、バラバラな物を直す? 随分と壮大な目標ができたね」
シルエからやや辛辣に指摘され、途轍もない夢のような話をしたものだと、ノアラは恥ずかしそうに目を伏せた。「シルエ」とただ名前を呼ぶことで窘めるサラドに、少しばかり拗ねて「ふーん」と鼻を鳴らし、シルエも左手を岩に伸ばす。サラドに背負われているお陰で、いつもより視点が高い。渦と長い尾を組み合わせたような図の部分に触れた瞬間、フワッと風が起こる錯覚を覚えた。
ポカンとした顔をするシルエを「ね?」とでも言いたげにノアラが見上げ、こくりと頷く。
「あー? 空に岩が浮いてるなんざ、信じられねぇな」
「風の神殿だから、祭壇も一番良い風の吹くところに。仕組みの魔術は想像もつかないくらいに複雑なんだろうけれど、たくさんの風の精霊が集まるから、それも力になっていたんだと思う」
以前、西から東に向けて旅をしているのだという風の精霊から聞いた話をサラドは思い出していた。
ピーピーと泣く風穴の音を聞く度に、もやもやとした胸の苦しさを覚えていたサラドに、西風の精霊は『共感してくれるのね』と慰めるように頬を撫でてくれた。
――虹より高く、強い風が吹くところに主さまと人間がお喋りする場所があったの
――昔々の人間が主さまにお願いをするために作ったのよ 主さまも気が向けば応えていたみたい
――主さまが来ると、とっても気持ちが良いの いろんなところを旅してる仲間もそこにいっぱい集まるから、とても賑やかで、楽しかったわ だから道がなくならないように、ちょっと手を貸していたの
――主さま? 主さまはわたしたちの中で最も強い御方よ 偉大なの
――でも、いつのまにか霧も虹も見なくなった 道も壊れちゃった
――今もここを通ると、主さまの力をちょっと感じられるの でも、とても苦しそう…
――仲間が呼んでるわ もう行かなきゃ またね
風の精霊にとってとても大切な場所なのが伝わる話しぶりと悲しげに言った『苦しそう』という言葉が印象に残っている。西風の精霊の話を聞いて以来、風穴の音は苦しみに悶え助けを呼ぶ泣き声として明確さをもった。
「じゃあ、つまり」
「山や麓が枯れたのとどちらが先かはわからないけど、無関係ではない、と思う」
「まあ…、何だ、その、この有り様をほっとかれたら、そりゃ、そっぽも向くだろうさ」
ディネウにだってこの扉岩がただの飾りではないことが感じられる。悄気るサラドに「お前が気にすることじゃない」と労おうとしたディネウの手はシルエに邪魔された。サラドは「うん…」と小さく返事する。
村には墜ちた当時のことは言い伝えられていない。古代技術がとっくに滅んだ後のことであれば、双方、どうしようもない状況だったのだろう。
「ところでよ、何か、暑くねぇか」
じわっと肌を濡らす汗が出ていることに気付き、ディネウは剣の柄が滑らないように手の平を服で拭った。横を見るとサラドの額からも汗が滴って顎を伝うところだった。
「やっぱ、暑いよな? 何で急に…ん? おい、どうした?」
「…大丈夫。ちょっといっぺんに声が聞こえたせいで、苦しくなっただけ」
ランタンの少ない灯りでもわかるほど、サラドは真っ青な顔色で脂汗を垂らし、耳を塞いで何かに耐えている。呼吸音は浅く短く乱れ、嘔吐いてもいた。
「声? もしかして、この音のことか?」
「うん。…風が泣いている」
サラドはフラリと立ち上がると扉岩から離れ、大きめの岩に囲まれた陰でしゃがみ、シルエを降ろした。小刻みに震える指は固く結んでいたロープをなかなか解けない。
「サラド?」
不安そうにシルエが手を伸ばす。
「ここにいて」
「えっ、やだ」
シルエの左手を包み込むようにサラドが握った。
「シルエ、お願いだ。事がうまく運べば、その時はシルエの力が必要になる。だから、ちょっと我慢して、ここに隠れていてほしい」
シルエは息を呑み、夕陽のような橙色の目をじっと覗き込んだ。
シルエが最も力を発揮するのは治癒。回復役のシルエが最初に倒れるわけにはいかない。それほどにこの先が危険なのだと今更ながらに実感する。
サラドの覚悟に応えなければ。
「ん…。サラドが思う存分、力を揮えるように。傷付けられることがないように守護を」
シルエは握られている手をグイッと引いた。その分、近付いたサラドの額に自分の額をつけて、何度も練習した攻撃力上昇と防御力上昇の詩句を唱える。サラドの額は汗で湿っていて、酷く冷たく感じた。
「ありがと。シルエ」
ポワっとした光がサラドの身体を包む。
「…行ってくるね」
口を開いたら「やだ」と言ってしまいそうなので、シルエはぎゅっと唇を引き結んで頷いた。
サラドがシルエを岩間に隠している間に、ディネウは息を殺して隙間から奥の様子を窺った。その逆側からノアラも中を覗く。
巨大な空洞でブォンブォンと風が唸っている。鋭い刃物が振られてギラッと照っていようにも、無数の羽虫が勢いよく飛んでいるようにも見えた。
「何だ、ありゃ。一体どこから風が吹き込んでるんだ?」
広間のような空洞には切り出された石材が多数転がっている。その中央で蹲るのは全身を燃え滾らせる熊。ひっきりなしにヒュンと飛ぶ刃物に襲われている。グルッ、ガオッと吠える度に毛を逆立てたように火が勢いを増し、風刃は天に向けて飛ばされる。そのまま火熊の熱でできた上昇気流に乗って天井まで達すると跳ね返って下降し、また火熊を切り裂く。その負の連鎖が延々と繰り返されていた。
「何か…やべぇのがいるぞ…」
「ぼ…僕、水の術を…えっと、」
ノアラは隙間から火熊に杖を向け詠唱に入ろうとするが、間違えたり、「えっと」を繰り返したりした挙句、舌を噛んで中断した。
その間を狙ったかのように扉岩が向こう側から激しく打たれる。ジビジビとした振動が洞窟内を震わせた。それこそ岩を動かすほどに。
「ふぅ、はぁ」と深呼吸をするノアラにディネウが不敵な笑みを向けた。
「落ち着け、ノアラ」
「…そういうディネウも震えている」
「バカいえ、これは…武者震いってヤツだ」
全身にビシバシと刺さるのが殺気であることをディネウは知っている。両親や仲間の傭兵たちと暮らしていたチビの頃に慣らされたもの。懐かしささえある感覚だ。
その頃からすれば村の生活は平和だった。修行したいからと、魔物を追い払う役目のジルにくっついて行った際もこれほど強く感じたことはない。
「はは…、マジか。あれって剣で斬れんのかな」
ゾクリと背を這う気に血が沸き、何故か笑いが込み上げてくる。
「あれは精霊。ここに閉じ込められて『出たい』『苦しい』『帰りたい』と嘆いている」
「あれが…あれ全部、精霊?」
ノアラが啞然とした顔をする。
「そう。狂いかけていて、このままだと無差別に人を襲う存在になってしまう」
暴れ回る風の精霊は壁にも体当りを繰り返している。その行為は自らをも傷付ける勢いだ。それに対し土の精霊は防御をし続け、こちらも疲弊していた。風の精霊の攻撃で壁が削られた分をなんとか修復しているような状態。少しずつ空洞は広がり続けていて、止めれば総崩れになってしまう。
どれほどの時間、この力のぶつかり合いを続けているのか。風は外に出たい。土は山を壊したくない。どちらも譲れないだけ。
火の精霊が縛り付けられているせいか、水の精霊の力は感じ取れないほどに弱い。
力の均衡は乱れに乱れ、山や麓の村が枯れていっているのも納得の状況。
「試したいことがあるんだ。協力してくれる?」
サラドは天井に目を凝らした。転がる石材は山の上空から落ちたと思われる。その際に空いただろう穴は大岩で蓋がされていた。あれを跳ね返らせるか砕くことができれば、風の精霊は外へ出られるだろう。そこで正気に戻れることに懸けたい。