193 シルエの思い出 旅のはじまり ①サラドの出立
天に空いた穴から射す光を眺める。かつても、後悔と絶望に苛まれながらあの光を見ていた。
あの時、シルエの心を最も暗くしていたのは落ちた時に負った傷の痛みでも、洞窟への恐怖でもなく、サラドがいないことに対してだった。
あれは二十年近く前、この村を旅立つことになった時のこと――――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そろそろ十五歳を迎えるサラドは独り立ちをする準備を進めていた。それを知ってシルエは居ても立っても居られない。置いていかれるのが怖い。その反面、サラドはこんな村から出た方が幸せだという気持ちもあった。
「暮らしていける算段ができたら迎えに来るから。それまではジッちゃんとマーサおばさんの言うことを良く聞いて、な」
サラドはそう言い聞かせるが「サンダンっていつ? 三日後?」と思い留まってもらえるように、なるべく子供っぽく縋り付く。
「うーん、もうちょっと先かな」
「やだぁ」
そんなことでは彼の決意が揺るがないことは知っている。サラドがこの村を出て行くのは、ここの暮らしに嫌気が差した訳ではなく、これ以上ジルやマーサに迷惑をかけないためだ。寧ろ、年齢を重ねたジルとマーサを思えば傍で孝行したいと思っている。そんなことを言えば矍鑠とした二人から「年寄り扱いするな」とどやされるであろうが。
ちょうどその頃、町では疫病が蔓延しているとう話が行商人から伝えられた。病はじわじわと国中に広がり、近くの村でも臥した者がいるという。それから幾日も経たないうちに村でも一人目の罹患者が出た。
この村には各地を巡って修行した腕利きの薬師マーサがいる。疫病の特徴を聞いた時からサラドを助手にして、症状を和らげる薬を準備していた。罹患者が出たことで更に詳しい病状を知ったのもあり、急いで治療薬を用意し、この村よりもずっと感染した者が多いという隣村へ向かった。
その時には既に死者も多く出ていた。そうするとジルに弔いの依頼が来る。薬草採取に調薬、死人送りと駆けずり回っているうちにサラドはすっかり旅立ちの機会を逸してしまった。季節が巡ればまた畑の世話などで人手はいくらあってもよくなる。
不謹慎ながらシルエは喜んだ。九つでは足手まといになるからと止められるのは必至。でもひとつ上の十歳なら働きに出る子だっている年齢だ。無理矢理にでもサラドに着いていく、と奮起した。
安心して連れて行ってもらうためにも、シルエは奇蹟の力の訓練に本腰を入れた。奇蹟の力は稀なうえ、シルエの力は強い。神殿に召されたり周囲に利用されないようにと基本的に内緒にしている。今までは魔力の制御を中心にこっそりと練習していた。
そして季節が一周し、そろそろ冬の足音が近付く頃。
ディネウが父の形見の大剣の重さに負けない筋力と体力をつけたと自信を持ち、予てから志望していた通り傭兵団に入ると宣言した。目標達成と新たな一歩を皆で祝った。
「何だよ、俺のことは『行かないで』って止めないのか」
「えー…。ディエの夢だったんでしょ。良かったじゃん。ま、傭兵団に追い返されないといいね」
「てめぇ…ホント可愛くねぇな」
「僕はサラドに可愛いって思われればそれでいいの。お呼びじゃないし」
サラドはジルとマーサ二人それぞれの助手だ。この一年でその役割も更に広がり、彼なしでなど考えられない程の働きぶり。サラド自身も出発の計画は何も語っていなかったため、シルエもすっかり油断していた。
ある朝、胸騒ぎがして目を覚ますとサラドがいなくなっていた。ジルに聞いても答えてはくれない。寂しそうな、晴れやかそうな顔で薄くなってきた顎髭を扱くばかり。その無言こそ、サラドがこの村を出ていったという肯定。
サラドを傭兵に誘おうと思っていたディネウも不服そうにしていたが、シルエの気の動転ぶりは凄まじかった。
「やだやだやだやだ! なんで! なんで僕にひと言もなく行っちゃったの!」
「シルエ、サラドは…あっ」
こうなることを予想して黙って行くしかなかったと、サラドから預かっていたシルエ宛の手紙を出しノアラが声を掛けようとするも、見向きもせず家を飛び出してしまった。
サラドに対する態度でシルエは村の面々への対応を変えていた。大概の人とあまり顔を合わせたくないため、いつもなら道に出るのにも周囲の林を迂回して行く。一寸でも早くサラドを追いかけたい気持ちから、村を突っ切る選択をしたのは運命の悪戯か。
村を出る手前でシルエは行く手を阻まれ、人目のつかないところに引っ張り込まれた。しょっちゅうサラドに絡んではいちゃもんを付け、シルエのことも馬鹿にする同年代のいじめっ子三人組だ。
「あの忌み子、村を追い出されることになってヤケになったらしいぜ。嫌がらせに神域をケガしに行ったってよ」
整った可愛らしい顔立ちを焦りで歪ませるシルエを見て、いじめっ子は愉悦の笑みを浮かべている。普段ならこんな厭味ったらしくて嘘つきの話など無視していただろう。いじめっ子の中でもボス格の彼は兄がいるので家長から家も畑の一部も継げず、かといって村を出て立身する気概もない。だから親に倣ってサラドに当たり散らし鬱憤を紛らわせている。他の二人も似たようなもの。しかも一人では何もできず、金魚の糞のようにボス格の子に付き従っている。きっと『穢す』の意味だってわかっていない、ただの受け売り。
相手にするだけ時間の無駄だと冷静な部分の自分は言う。その反面、置いて行かれた不満、今こうして邪魔されている苛立ち、常日頃から感じているサラドを蔑む者への憤り…、それらがない交ぜになってふつふつと怒りが湧く。耳の奥の更に奥でピキと何かが壊れる音がした。
「サラドはそんなことをしない」
少年としてもやや高い、いつものシルエの声とは違う、地の底を這うような低い声が喉から漏れた。にやにやと笑っていたいじめっ子らの顔が俄に青褪める。
「じゃ、じゃあ、行ってみろよ」
「行って、もしそんな事実がなければ? 冤罪をかけた責任をどう取る?」
「え? エンザイって何だ?」
「お前わかるか?」
「知らねぇよ」
シルエが馬鹿にするように鼻で笑う。とても十歳の子供とは思えない表情だった。
「もちろん、お前らも立ち合うんだろう? まさか怖いとか言い出さないよな?」
逃がすまいとシルエに手首を掴まれてビクリと震えたボス格の子も、煽った手前、後に引けないのか精一杯の虚勢を張る。
「ああ、行ってやろうじゃないか、なぁ?」
あとの二人は顔を見合わせ、「え、いや、でも…」などと尻込みしていたが、「行かないんだ? 嘘がバレるから?」とシルエが静かな口調で凄むと「…行きます」としか答えられなくなった。
こんな馬鹿げた話に乗る必要などなく、サラドを追うべきなのはわかっている。それでもサラドが神域に向かったかもしれないというのを頭から否定できない事実もあった。
サラドは森にいる時に、どこか遠くを見つめてぼんやりしていることが良くあった。崖山の稜線がある方角を見ては「助けを呼んでいる」と呟き、「でも、オレにはまだその力がない」と苦しそうに胸元をぎゅっと握り締める。そんな姿を見たのは一度きりではない。
だから、もしかしてもしかしたら故郷を去る前に一度足を運ぶかもしれないと。
伝承で神域とされる東の果てには近寄ってはならないと釘を刺されている。神を怒らせてはならないと。
そんな禁忌がなくとも大人であれば誰も行こうなどとは考えない。不毛の地のため行く理由もない。禿げて土が剥き出しの山肌は脆く危険であるし、崖の山腹に空いた風穴からは絶えずピューと悲鳴のような音が漏れていて不気味だった。
シルエはいじめっ子の手を解き放すことなく、ずんずんと進んで行く。あとの二人もおっかなびっくり着いてくる。いつも悪さをするのを見咎められないように行動していたのが裏目に出て、この時も村の大人たちとすれ違わず、いじめっ子は逃げる機会を逸した。村の周囲の林を抜け、小さな森を抜け、崖山が迫るにつれ顔色がどんどんと悪くなる。木や草が少なくなってきたところで、ぐっと足を踏ん張って抵抗を始めた。視界は赤茶色の大地と崖で覆われている。ピューピューと泣く風は心に不安を呼び、ざわつかせる。
「い、嫌だ。誰もいないのはわかったからっ、これ以上はもういいだろっ」
「神域を穢しに行ったと疑いを掛けただろう? まだサラドの潔白を証明していない。風穴を見に行く」
「正気か?」
「や…山には近付いちゃダメだって、父ちゃんも母ちゃんも…。怒られるよ。止めようよ」
「もう許してくれよぅ」
「疑う側も責を負うべきだ。無実の者を罪人扱いすればどうなるか、その覚悟もなかったのか」
いつもはサラドの背に隠れてばかりのシルエを弱虫と馬鹿にしていたいじめっ子たちはタジタジだった。
「わ、わ、わかったよ。穴を確認したら、すぐ戻る。そ、それでいいだろう」
尚もシルエにしっかりと手首を捕られぎゅうぎゅうと引っ張られているいじめっ子はちょっとでも早く解放されるには行くしかないと観念したのか、震える足を前に出した。あとの二人はぺたんとその場に座り込んで動こうとしない。
風穴は中腹よりか下の方にあるが、それでも子供の足ではなかなかに遠い。乾いて崩れやすい地に足が取られ登りにくいのもある。下で身を寄せ合う二人も一歩一歩登る彼らの足が滑る度にハラハラと見守った。
穴は想像以上に小さかった。手の平大もない。人が入る事など不可能。風の音がピーという高音であることからも当然のことではあった。そして、穴の周りにも何かを仕掛けたような痕跡はなく、ここに来るまでに他の足跡もなかった。ただ乾いた風が吹き下り土を舞い上げるだけ。
「ほ、ほら、見たぞ。も、もう帰るぞっ」
「それだけ? 人を疑っておいて――あっ」
直ぐ側で悲鳴のように泣く風にいじめっ子が堪えられなくなり、シルエの手を強く振り払った。その時、風穴がシルエを飲み込むようにパカッと口を開け、彼は穴の暗がりに消えた。
「ギャアァァァ」
いじめっ子は転がるように山を下りて一目散に走った。お漏らしの跡が転々と残る。見晴らしが良いために一部始終が見えていた二人もとっくに逃げ出して前方を我先にと走っていた。