191 最高位精霊
歪みはきれいサッパリ消え、湖面を揺らす風は身を切るような冷たさに戻った。
ノアラは魔道具の布をもう一枚出し、ディネウの大剣で無残にも穴が空いた布の下に滑り込ませた。粉砕された核が零れ落ちないようにそれごと包み、しっかと封じる。急いでサラドの気を探るが、杳として掴めない。
「う…嘘でしょ…」
「くそっ、今のは火の精霊だよな? と、いうことは、サラドが消えた先は火山島か?」
――そうだ
「え?」
頭に直接届く重々しい残響。振り仰ぐと頭上に大河がある。視界にあるのはそのほんの一部。蛇のような長い体をうねらせ、鬣の如き飛沫、鱗のような波紋。大きな大きな水龍が悠然と空を泳ぐ。
水の最高位精霊。
ディネウ、シルエ、ノアラの三人はその場に跪いて頭を垂れた。鼻面の長い顔が三人に向けられる。
目にするのはエテールナに連れられて湖の底にある神殿に行って以来、二回目だ。最高位精霊であれば、相手に合わせて望む姿を見せたり、声を聞かせることも造作ない。
――サラドは友に火の神殿へ招かれた。水の精霊も幾らかついて行っている。心配せずとも良い。
友は、我々に報せていたのだ。島におかしなモノがある、と。ひとつずつは小さく気配も薄いが小癪にも力を奪っていくのだと。
友は我と同じく強い。直ぐに力を失うことはない。だが、小さきものたちや島の生き物はそうもいかない。
…それが、最近になって酷くなったと嘆いていた
水龍の声は、絶えず流れるゴウゴウという轟音とサラサラという清音との二重奏のように響く。畏怖させないようにか、その声音も口調もやわらかい。
――ここにも、以前それと同じであろう薄い気配がしたが、あの時も我が手を下すまでもなく、其方らが消し炭にしてくれたな
水龍の頭がディネウとシルエを見て頷く。パカッと上下に割れて開いた口は笑みを浮かべているように見える。
ディネウは「いつの話だろう」という顔で首を傾げた。
「あれじゃない? 野良のアンデッド」
「あれか! くそっ、あん時から狙われていたのか…」
――この地は他と比べても普段より良く清められている故、悪しきモノは近寄り難く、我らには居心地が良い
水龍の周りでは水飛沫がキラキラと舞っている。陽の光を受けた小さな虹が無数に現れ、水龍の偉大さを彩う。
その小さな光のひとつひとつが最高位精霊の力に惹かれて集まってきた水の精霊であると、サラドから聞き及んでいる。普段は目にすることの叶わぬ存在でも、あまりに大きな力を受けると光の反射のように見え隠れするのだと。
水龍は自身を囲む数多の水の精霊を慈しむように顔を巡らせた。
――其方らの助力でここは防がれた。水の長として感謝する
目が霞むこの輝きは守ることができた存在。しかし、サラドの泣きっぷりからして、穢れの犠牲になった精霊も多いのだろう。
チカチカする視界に目を細め、水龍の姿を少しでも目に焼き付ける。
――友のことも、どうか頼む
水龍の声には哀願を感じた。最高位精霊ともなれば、その力の大きさ故に安易に動けない。こうして幻像を現わすだけでも下位の精霊に多大な影響を及ぼしてしまう。まして、他の精霊の神殿があるような強い土地では尚更だ。
ここは精霊界とは理を違える世界。こちらの世界で最高位精霊同士が相見えれば、力の衝突が起きて均衡を乱しかねない。
「これは、人が関わった過ちだ。キッチリと落とし前を付ける」
ぐっと眉間に皺を寄せ、ディネウはその覚悟を示すように「この剣に懸けて」と柄に額をつけた。
――我が巫覡は頼もしいな
水龍はひとつ頷くと、上空を一周して『其方らに水の祝福を』と言葉を残し、とぷりと湖に頭を沈めた。スルスルと大河が湖に吸い込まれていくのに、増水もせず、水面も凪いだまま。キラキラとした光を反射していた小さな水の粒たちは名残惜しそうに水龍の尾を追いかけている。
眩しかった視界が元の湖畔の風景に戻ると、ディネウはこそりと囁いた。
「なぁ、フ…何とかって何だ?」
「エテールナさんと同じ。水の最高位精霊がディネウをお仕えする者だって認めてくれてるってこと」
「お、おう…そうか」
ディネウの頬が赤く染まる。それを自覚したのか片手で顔を覆った。ディネウにも理解できるようにと『エテールナと同じ』などという言葉を選び、喜ばせてしまったことにシルエは舌打ちした。
「そんなことよりも! 早くサラドを追いかけなきゃ」
表情に変化はないが水の最高位精霊との邂逅に動揺していたノアラもハッと我に返り、勢いよく首を縦に振る。落ち着きなく動く指が彼の興奮を窺わせた。
「いくらサラドでも…。無事でいられるか」
火の神殿の入口は火口にある。小康を保っているがいつ噴火してもおかしくはない活火山だ。人の身では近付くことも叶わない。
「…シルエは風の神殿へ、ノアラは地の神殿へ行ってくれ。火山島には俺が行く」
「えっ、ヤダヤダ、僕もサラドのところに行く!」
「駄目だ。火山島には転移できないだろ。そこに全員で行って他が手遅れになったら、それこそサラドが悲しむ」
火山島は磁場が非常に強いため座標が狂いやすく、ノアラの転移も不可能。採掘坑員のために港はあるが、そこに転移陣を敷くにも、磁場の影響を取り除いたり調整するのに手間取る。過去に訪れた時は島に魔物が溢れており、そんな悠長なことをする余裕もなかった。また頻繁に行き来をする予定もないため、設置も見送ったままになっていた。
湖畔の小屋とノアラの屋敷を繋ぐ転移装置はそれだけ精緻な術を両側に組み込み、扉という形で安定させている。保守点検も微調整も常にできるからこそ機能する装置だ。
「うう…、でも…」
「納得いかないかもしれないが、これが最適だ」
「僕は…またあんな風に…。あんなに傷付いたサラドを見るのはイヤだ! 前みたいに守護もかけてない。熱を防ぐ装備だって着けてない。あの時ですら、あんなだったのに…。早く追い付いて回復をかけなきゃ」
尚も納得がいかずシルエが噛み付く。
「精霊がみすみすサラドを死なせるとは思えん。水龍も水の精霊を共に行かせたと言っていたろ。俺たちはそれを信じるしかねぇ」
「それは…そうかもしれないけどっ。いくら精霊がついているからといっても…」
あえてシルエを無視するようにディネウはノアラに向き直る。
「地の神殿はノアラの家にも近いよな。あの森で迷うことは…お前なら、ないな」
ノアラがこくりと頷く。
「入口の祠には何度か詣でている。サラドと一緒ではないが、弾かれることもない…と思う。罠までは網羅してないが、神殿への道順は問題ない」
土地神を祀る小さな祠は所々に遺っている。何気なくポツンと佇む岩だけのものなど、田舎道に多い。風化した様を見るに王国史よりも古いと思われる。
西の隣国との堺、不可侵の森の奥深く、人里から遠く離れ、拝む者のない祠も一見、それらと同類。だが、そこは地下に続く地の神殿への入口でもある。精霊の招きや導きがなければ入口に気付くことさえもできないけれども。
「一度しか行ってないのに地図があるっていうの?」
「頭の中に」と示すように、シルエがこめかみを指先でコツコツと叩く。ノアラは困惑したようにこくりと頷いた。
「ほぼ、一本道」
シルエが「うえっ」と呻いた。主な道は確かに一筋かもしれないが、脇道や行き止まりも多数あったことはシルエだって記憶している。魔物を蹴散らしながら進むのに待避として道を逸れたこともある。おそらくサラドがいなければ、道に迷い、体力が尽きていた。
「風の神殿はシルエとも縁が深い。お前に対して入口が開いたんだし」
「土の神殿についてはノアラが行くことに異論はないよ。サラドを除けば一番適任なのは間違いないもん。でも、風の神殿との縁ならディネウだって一緒じゃん。あの時は偶々僕が最初に向かっただけ。僕が入れたのはただサラドを呼ぶための手段でしょ」
「俺が行って、土塊を持つヤツを見つけたところで、被害が拡がらないように封じたり浄化したりできねぇ。お前が行け。精霊に害が及ぶのを阻止するのが優先事項だ」
これ以上の問答は無用だと言わんばかりにディネウは手を大きく払った。
「ノアラ、俺を港町へ。火山島に船を出してくれる者を探す」
指示されたノアラは、口を噤んでも「うぐぐ」と不本意を隠せていないルエの顔を心配そうに窺った。
「アレにはくれぐれも触るなよ。それのためにその包みを作ったんだろ? ヤバそうなら二人で連絡を取り合って、なんとか上手くやってくれ」
「ディネウこそ、無理な範囲まで行って重傷を負ったって、僕はサラドの治癒を先にするからねっ」
シルエは顔の印象を阻害する仮面をディネウに押し付けた。
「噴煙から目と喉を守るのに無いよりマシでしょ。こうなったら、ちゃっちゃと終わらせて僕も火山島に行くから! もう、その方が早い!」
「おう、待ってるぜ」
「待たなくていいよっ! ノアラ、早いとこ転移しちゃって!」
薄紫色の転移陣が光出した時にシルエは回復薬の小瓶をディネウに投げつけた。
「ディエのバカ!」
シルエは小瓶をノアラにも投げると杖でコツリと地を突いた。
「僕も行く! ノアラ、また後でねっ!」
転移術の完遂間際に飛んできた物を受け取り損ねそうになり、ノアラはお手玉のように小瓶を両手の間で転がす。しっかりと掴んで確認した時にはシルエの姿はもうなく、湖畔は鳥の囀りが響く静かで清浄な空気に包まれていた。
ノアラの手にある小瓶は万能薬と呼べるもの。シルエの技の粋。精霊の神殿を単身で訪ねるならば気を張れという忠告にも感じ取れる。
ノアラは水龍の姿があった空を一度仰ぎ見て深く礼を執り、転移装置の扉を潜った。普段は屋敷に置きっぱなしの杖を手にし、帽子を被り直すと森の奥を目指した。
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