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190 湖を守る存在

 背を向けて顔を見せないように俯き、小さく震えるサラド。不可視の術を解いたノアラはその傍らでおろおろと手を彷徨わせていた。


「兄さん、我慢しなくていいよ」

「うん…」


いつもとは逆にシルエがサラドの背をさする。ショノアたちが立ち去り、弟以外はいなくなったことで気を緩めたサラドの目からぶわっと涙が溢れた。背中を丸めてシルエの肩口に顔を埋め、さめざめと泣く。

精霊と共感しやすいサラドはたくさんの苦痛や悲哀や怒りを一身に受け、堪えきれなくなっていた。ここは水の最高位精霊を祀る神殿が沈む湖、その影響は大きい。


「…エテールナさんがさ、アレを引き受けてくれたから、湖には影響が少なくて済んだかな」


 生贄として捧げられたエテールナは水の精霊に仕える御霊となっている。彼女の湧き水に最初の土塊が落とされたことで奇しくも穢れの被害を抑え込む結果となった。エテールナはその身に土塊を取り込むことで湖から排出したが、穢れに冒され、怒りと苦しみに狂い、あわや魔物に堕ちる寸前だった。


「…うん、良か…った」

「最高位の精霊の巫女であっても抗えないとは…」

「ノアラの魔力だって気持ち触れたくらいでああ、でしょ? 前は半分くらい喰われたんだっけ? あの時からしても、アレが強化されちゃってるってことだよね」


ノアラが神妙に頷き、シルエは顔を顰める。土塊は大層な術が刻まれたものには到底見えなかった。魔人の術に関する知識の高さが窺える品だ。地に溶け込む早さも、効率よく力を奪う仕組みも、穢れの強さも尋常ではない。


「ここに来た時点で、取り急ぎ一気に湖全体の浄化をしたけど、もう一回アレが置かれた場所を念入りに清めないとね」

「うん…」


 浄化をしながら湖の縁を廻る。土塊の悪影響を感じる度にサラドは干からびてしまうのではという程に涙を流した。

助けを呼ぶ精霊の声を聞いたサラドと異変を感じ取ったディネウに急かされて転移装置の扉を潜った時は、禍々しい気が重く立ち籠めていた。だが、エテールナの献身とシルエの浄化の甲斐あって、今は清涼な風が湖面を渡っている。弱まってしまった地の力は徐々に回復していくのを待つしかない。気休めでも、ノアラは少しずつ魔力を地に流した。


 ディネウが住む小屋まで戻ると、シルエは浄化と防護の術を念押しで施すために長い詠唱に入った。クルリと回した杖で宙に描いた二重円の内側が文字や記号で埋め尽くされていく。低めに抑えた威厳のある声で朗々と、丁寧に紡がれる文言はサラドの鎮魂歌とはまた違った厳かさがある。言葉は力を帯び、円陣内が緻密な編み柄のように埋め尽くされ、光輝き出す。

ノアラは荒らされた倉庫を黙々と片付けている。サラドはぐずぐずと泣きながら湧き水の崩れた岩を整えた。水はまだ滞ったまま。


 リリン…と小さな音に呼ばれノアラが姿を消し、ディネウを連れて戻ってきた。丁度、シルエの術も完成して陣が光を増しながら膨れ上がり、湖畔全体を覆ったところだった。


「なんか知らねぇけど、王子まで来てたぞ」


 ディネウはショノアたちが馬車を停めた地点まで送り届けた。偽聖女を追い、湖畔を目指していた彼らも無自覚であったが迷っていたらしい。戻りの短さに唖然としていた。


 神域は土地そのものが強い魔力を内包している。人を選別し排除する魔術が張られている遺跡とは違い、特に感覚が鋭敏な者、神経が繊細な者、魔力操作の訓練中の者は酔いや目眩を起こしやすい。

それだけではなく、その地に愛着を持つ精霊は、気に入らない存在が入り込むことを厭がり悪戯する。それによって人は迷わされ、見えない精霊のせいだとは思いもせず、なぜ同じ所をぐるぐると回っているのかわからない。

常ならばそれを見て精霊はクスクスと笑っていたのだろう。だが、偽聖女三人組はあの土塊を所持していたため、近付いた精霊も力を失って阻止しきれず、迷いながらも湖畔に辿り着いてしまったようだ。


 ショノアたちの馬車を見つけた王子も奥に進もうとしたが何故か同地点に戻ってしまい戸惑っていたところだった。

偽聖女三人組の身柄はその場で兵士に引き渡した。あとはショノアが湖畔に立ち入れない状況であることを説明するだろう。押し切って来るようなら、王子だろうが有無を言わさず追い返す。しかと伝わるように、ディネウは三人組、ショノアたち、王子とその侍従や護衛らを順番に睨み、すぐに姿が見られない所まで引き返してノアラを呼んだのだった。


「偉いねぇ、ディネウ。よく私怨をぶつけずにいられたねぇ」


 浄化の光が収まるまで構えを解かずにいたシルエが再びクルリと杖を回した。威厳のある立ち居振る舞いから一転、振り返るなりディネウににまにまとした視線を向ける。


「やめろ。幼子を褒めるような言い方すんな。気持ち悪ィ」

「良かったねぇ。ディネウの愛が通じて」

「良くは…ねぇよ。あんな姿にされたんだぞ」


脇腹を突付いてからかうシルエの手をディネウは乱暴に払う。


「大した処罰もなく釈放なんかされたら、俺がタダじゃおかねぇ」

「ははっ。彼らは牢に入った方が安全だね」


荒らされた小屋、蹴散らされた水路、何より、湧き水に汚れた手や口を無遠慮につけられたのかと思うと腸が煮えくりかえる。ディネウは鼻に皺を寄せギリリと歯軋りした。


「ディネウ、ぐすっ…ご…っぢに…ずび…」


 泣き声で言葉がはっきりしないサラドはディネウをぐいぐいと湖の水際に引っ張る。


「うわっ、目ェ、真っ赤だぞ。おい、バカ、擦るな」


 止まらない涙を何度も拭ったせいでサラドの目元は痛々しい。動作で示された通りに、ディネウは湖の水を手で掬い湧き水へと注ぐ。運ぶ間に指の隙間から殆どが零れ落ち、実際には数滴がポタポタと水面に落ちただけ。指先から滴った雫が濁った水面に波紋を描くと、湧き水は吹き上がるほど勢いよく溢れた。汚れた水を押し出し、辺りが水浸しとなる。しばらくすると、元通りの滾々と清水が湧く井と穏やかな流れの水路に戻った。


「よがっ…だ…ぐずっ」

「おう、ありがとな」

「うん…」


 ディネウはそっと湧き水を覗き込んだ。水面から見つめ返すのは黒髪の男。一度だけ見た女性の影が揺らぐことはない。寂しさに瞼を下ろし「命を抱き育む水の導きがありますよう」と心中で呟く。


 憤怒で猛る水の塊が、エテールナであることはひと目でわかった。嵐のような姿も殺意や報復に狂う激情も彼女の本質とは程遠い。それでもその中に微かなせせらぎと助けを呼ぶ声をディネウも聞くことができた。

駆け出しの頃だったら、彼女の存在を知らなかったら、ディネウは穢れを取り込んだ水の塊を魔物と認識し、攻撃をしていただろう。そして、倒した後にサラドが心を痛めていることにも気付なかったかもしれない。


魔に堕ちたエテールナを消滅させずに済んだことに心底ほっとしたし、腕の中で本来の姿を取り戻していく様に、彼女に触れられることに歓喜した。


 抱きしめた感触を思い出すように手をわきわきと握り、こっそりと体に腕を回す。沫と消える直前、エテールナはディネウの耳元でこう、囁いていた。


――ずっと、ずっと、待っています。だから、ゆっくり来て


片手で頬の肉を押し上げ、ニヤつきそうになる顔をなんとか誤魔化す。

エテールナの姿は十七歳の時に会ったままだった。ディネウは経た年月の分、外見も順当に変わり、青年期とは異なる。それでも迷うことなくその腕に身を委ねた。エテールナが見ているのは魂の在り方で、年齢を経ていても見間違うことはない。二人を結ぶ絆は確かだと感じられた。


ディネウは当時、出会った時点で既に彼女が霊魂であったことを受け入れられなかった。未だに信じ切れておらず、どこかで彼女の死に責任を感じていた。それが、いつかまた会えるという希望に変わった。特別な御霊として彼女の存在はいつまでも神域の湖にある。


「さぁて、と。うかれているディネウはほっといて。直接触れられないからアレに組み込まれた術式とかはイマイチ分析できなかったけど、ちょっとならわかったことがあるよ。ノアラはどう?」


 ノアラがこくりと頷く。特殊な保護術を組み込んだ魔道具の布包みを懐から出した。広げて示した中身は偽聖女三人組の前でノアラの魔力を吸った土人形に残っていた核。前回の、ノアラの魔力を凝り固めた緑色の結晶とは違い、息が詰まりそうな気と臭いを放っている。


「…前のと違って、金色をたんまりと孕んでいるね。これって」

「ッ! ダ…ッメだ! しまって!」


 サラドの叫びも虚しく、結晶が融解を始め、空中がゆらゆらと歪み出す。またも魔力を奪われる気配にノアラは慌てて包みごと地に放り投げた。昏い闇が集結する。反射的にディネウが大剣を結晶に突き立てた。シルエは防御壁と攻撃を相殺する術を展開し、ノアラも範囲を密閉する術で囲う。大剣の切っ先が圧縮された空間に覆われ、強烈な閃光と紫雷が爆発する。大きくもない結晶は粉々に散ったようだった。


 滲み出していた闇は薄れたが、一部がまだ熱せられた空気のように揺れている。寒いくらいの気候なのに汗が出るほどに暑い。


――助け…を…


「ッ!」


 陽炎のような歪みから人の腕を象った炎がにょきりと飛び出した。その先にいたサラドはその手を取ろうと手を伸ばす。


「待って! サラド!」


次の瞬間には炎の腕も、歪みも、サラドも、全てが消えていた。引き留めようとしたシルエの手は空を虚しく掴んだ。



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