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188 穢された水の巫女

 ショノアたちは神域の湖に向けて林の中を進んでいた。生い茂る木々に阻まれ、これ以上は無理となった地点で馬車を降り、今は徒歩だ。思った以上に足を取られ前に進めない。


「私が神域で祈りなど…良いのでしょうか…」


 セアラが頻りに恐れ多いと不安を口にする。神殿と神域では信仰が違う。ショノアはその辺りには詳しくないが、霊峰と湖が国境の不可侵地域であり、隣国との間に繊細な問題があるのは知っている。


 移住地を守る兵士から神域の湖に向かった者がいるという報告が入ったのは辻まで出た時のことだった。報告にはセアラを向かわせたのかという確認も含まれており、目撃された人物の特徴は偽聖女を含む三人組と一致している。


偽者一行の目的が何かはわからないが、隣国との関係を気にした王子はショノアにその足取りを追うよう命令した。できれば湖に到達する前に阻止せよとの指示だ。

かねてより一度神域の参拝をしたいと考えていた王子は、この機に祈りの奉納をすることにし、セアラに立会いを依頼した。そうすれば神域へ入ることに正当性を持たせられる。王家の者が足を踏み入れるには諸々の申請を済ます必要があるため、王子は移住地に寄り、それを終えてから来ることになった。


 ニナが先頭に立って草を薙ぎ、足場を確認しながら進む。そうして蔦で隠した洞窟からなるべく離れた所を通るように誘導していく。移住地の環境が改善された今、そこがまだ機能しているかはわからないが、林の中で人と出会うことがないようにと心の中で願っていた。


 かなり分け入って進み、獣道すらも怪しくなって来た頃、セアラとマルスェイの歩みが一段と遅くなった。


「少し…待ってくれ…。頭が痛くて…気持ち悪い…」

「すみません。私も少し目眩が」


確かに二人の顔色は悪い。ショノアも息が上がっていたので一も二もなくその場で休憩をとることにした。それぞれが適当な場所に腰掛けてひと息つく。ニナは軽く幹に背を預けただけで警戒を怠らずにいる。

ひと息ついていると、陰った陽が射し出したのか、木々の隙間から眩しい光が反射するのが見えた。


「湖だ」


へばっていたショノアが俄に活気づく。大股で木の根を跨ごうとしたその腕をニナが掴んだ。


「待て」

「どうした?」

「…これ以上は危険かもしれない。引き返した方が…」


ニナが注意を促した時、空を割く悲鳴が聞こえた。


 倒けつ転びつ女性が走って来る。泥だらけになっているが外套から覗くのは生成りのスカート。鋼製の鎧と濃い青のマントを身に着けた男と、形容し難い色の丈が長い衣の男がその後ろを追って来る。


「助けて! お願いっ」

「どうした? 何があった?」


ショノアに縋り付いた偽聖女は赤く腫れた頬に鼻血を擦った痕があり、腕にも血が滲んでいる。

滅多矢鱈に剣を振り回し、その度によろめく偽騎士は鎧が重いのか歩みは遅い。

偽魔術師も足首まである衣の足捌きに慣れていないのか、もたもたと走っている。


「二人が…急に変になって…それで…キャア!」


グワッグワッと水鳥の鳴き声がした途端、偽聖女は耳を押さえて取り乱した。


「イヤぁ、来ないでっ」

「何が…」


 鳴き声の方を振り仰いでショノアは絶句した。

鳴き声の主は、上半身が人間の女性、下半身が魚、顔には長くて平べったい嘴。その背には小さな翼があるが、とてもそれで飛べるとは思えないのに宙に浮いている。

魔物だ。


一糸まとわぬ姿、特に胸元は成人女性のそれであったために、人ならざるモノだとはわかっていてもショノアは思わず目を逸らした。


グワァーグワッと賑々しく鳴きながら偽騎士と偽魔術師の上空をクルクルと回ると、二人は取っ組み合って戦い出した。散った血を舐めた魔物の姿が変化していく。鰭のようだった腕は細くて長い手指に。嘴は引っ込み、人と同じ唇へと。そしてその口からは水鳥の鳴き声ではなく「ラーララー」と美しい歌声が発せられた。


 その歌声を耳にした途端、視界がグニャリと歪んで世界が色味を変えるのをショノアは感じた。


――美しき歌声の主を守らねば。この身を捧げても…


ショノアのものではない考えが頭を染めていく。


「に、逃げ…ろ」


なけなしの理性で叫んだ時には剣を抜き放っていた。ニナが体を翻してその攻撃範囲外へ飛び退く。


「聞いちゃダメ! 見ちゃダメ!」


頭頂部を地にめり込ませるようにして蹲る偽聖女が叫ぶ。

ヒトと水鳥と魚の合成体は指先で触れた柔らかい唇と自身の歌声に満足し、妖艶に笑む。艶めかしく腰を揺らし魚の足をくねらせ、ラララ、ルルルと歌いながら「こっち、こっち」と誘うように手招きする。


「えっ、一体何が…」


頭痛と吐き気でぐったりしていたはずのマルスェイがユラリと立ち上がった。杖の玉がセアラに向けられ、詠唱が紡がれる。


「マルスェイ様? 何を…きゃっ」


ニナに引かれセアラの体が大きく仰け反る。

術は発動しなかった。マルスェイは詠唱を止め、杖を振り下ろす。硬そうな玉が土にめり込んだ。ショノアも剣をセアラとニナに向ける。二人の攻撃を避けているうちに魔物が誘う方角へと追い立てられる。


「そっちへ行っちゃダメぇ! あーん、でも一人にしないでぇ」


偽聖女も起き上がった。逃げようかどうしようか迷い、キョロキョロした挙げ句、よろよろとついてくる。

偽騎士と偽魔術師は魔物に侍っていた。互いにつけた小さな傷から出た血を舐め取られてうっとりとした顔をしている。焦点のあっていない目に光はない。


ニナに助けられながらセアラも必死に走る。視界が開け、眩しさに目を細めると湖畔に出ていた。


 そこには湖から持ち上がった水の塊が浮いていた。竜巻とも違う、猛る水流がゴウゴウとうねり、とぐろを巻いている。


――ユルサナイ


人の姿を認めた水はその思念を、耳をつんざく痛みとして伝えた。塊の中で複雑な流れを幾つも変え、昏い色を持つ深い場所を作り、憤怒の表情を表す。桶の底に空いた穴から飛び出すような激流が放たれる。


「あ…あ…」


水底に落とされたような圧力を体に感じ、息が詰まる。為す術もなくセアラはその場に膝を突いた。


「ちっ」


体の自由が利かないセアラ。迫り来るショノアとマルスェイ。ニナだって正直、膝が震えている。


「ッ!」


万事休す、と思った時、視界が白で塗り潰されドゴォンと轟音が響いた。ビリビリと痺れが体を貫くような衝撃。

ソロリソロリと目を開けてみれば、光の槍が各人の周りをぐるっと取り囲んで地に突き刺さり、閉じ込められていた。少しでも動けば強い光に灼かれそうだ。おまけに足下の大地が激しく揺れて体が動かせない。

唯一自由が利く目を巡らせば、大きな背中が見えた。


 怨念のような顔をしていた激流を、両腕を広げて防いでいる。否、抱き止めている。

水はディネウの胸元からキラキラと輝き、その姿を清らかな乙女に変えていく。

光を照り返す淡い髪を波のようになびかせ、つま先も見えない衣の裾は絶えず流れて泡沫と消える。嫋やかな腕はディネウの背に回され、胸に預けた顔は穏やか。


「…ルナ」


 呼びかけに顔を上げた水の乙女に柔らかく微笑むディネウ。昼の空を映した湖面のような水色の瞳が愛おしそうに彼を見つめる。ディネウも一瞬たりとも目を離すまいとその宵空を映したような深い青の瞳に彼女を映す。向かい合うとディネウの左の頬骨にある黒子とエテールナの右の頬にある黒子の位置がピタリと合う。まるではじめから一対だったかのような二人。


エテールナをふわりと包み込んでいたディネウの腕にきゅっと力が入る。逢瀬の幸福を噛みしめるように、離れがたいと惜しむように、身を寄せた時、エテールナは水飛沫となって散った。霧に虹が浮かび儚く消える。

ディネウは己を抱きしめる格好になっていた。


 湖畔に侵入した各人に掴み掛かるように迫り、時を止めたように滞空したまま渦を巻く水も千々に散った。

偽聖女ら三人組には痛いくらいの大粒の水玉となって降り注ぎ、ショノアたちも濃霧に飲まれたように濡れそぼる。


「…許さねぇ」


 ギリッと歯軋りが聞こえた。顔を俯けたまま、ディネウは無言でサラドに手を伸ばす。

ここに到着し、怒り狂う水を目にした瞬間に「持ってろ」と投げ渡された大剣をサラドはしっかと受け止めていた。傷付けないよう両腕で抱えたが大剣の重みに負け、膝を曲げて支えている。


大剣はしっくりとディネウの手に戻った。

紫雷で黒焦げになった魔物を蹴飛ばし、一歩一歩ゆっくりと偽聖女に近寄る。


 いっそ気絶できていれば楽だっただろう。

大地の揺れは止まったが体の痺れは治まっていない。光の槍でできた檻に閉じ込められた状態で、更に地がえぐれていき、このまま生き埋めにされるのではないかという恐怖。

木の蔓を持ったサラドが、槍の間から手を入れる。驚く間もなく、手首を捻られ、後ろ手に縛られていた。蔦がまるで蛇のようにスルスルと自ら動いているかのようだった。まだ切り採られたばかりで柔らかだった蔓はあっという間に乾き、ギチギチと締め付けてくる。拘束が済むと光の檻はフッと消滅した。


 ディネウに鋭い眼光で見下ろされ、偽聖女の喉から「ヒイッ」と悲鳴が漏れた。目の前で剣身がギラリと光を反射する。

偽聖女はディネウの、エテールナに向けられた優しくも切ない微笑みに、どこか色っぽい愁いを帯びた深い青の目に、場違いにも見惚れていた。だが、その面影さえない鬼の形相。


 ひょいと大剣を片手で肩に担ぎ、偽聖女に手を伸ばす。その手首に絡まったままの巾着袋の紐をブチリと引き千切って取り上げた。

巾着袋には三枚の土塊が入っている。


「あまり触らない方が…」

「大丈夫だ。お前らには触れさせられないからな。俺が適任だ」


心配そうに手元を見るサラドに一枚を摘まんで表と裏の両方を良く見えるように示す。それをサラドの隣の空間で、シルエの前でと繰り返した。


 片面には星の象徴、但し重なりが逆の図形。もう片面には石の象徴図形。


「大地は水を内包し蓄えるけれど、その反面で土は水を濁らせもする」


間違いない。これは神域の湖を穢し、力を奪うモノ。



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