186 命には替えられない
「こんなっ、ことにっ、かまけてる、暇はっ、ないっていうのにっ」
どう見たって苛々としているシルエに、謝罪の言葉さえ掛けられずに傭兵たちが顔を伏せる。
「気持ちはわかるが、勘弁してやってくれ」
両者の仲を取り持つようにディネウは「俺からも詫びるから」とシルエを宥めた。
「あー…。別に皆に対して怒ってるわけじゃないから」
「それはこいつ等もわかってる。それでも、だ」
シルエは「フー」と鼻息を長く吐いて、怒りを鎮めようと努めた。
聖都のゴースト騒ぎで怪我人はそれなりの数に登った。その殆どがゴーストによる直接被害ではなく、逃げ惑う中での転倒や衝突での打撲。ゴーストに見つめられた者でも倦怠感が残ったくらいで生死には全く問題はない。
傭兵たちは手持ちの傷薬や打ち身用の消炎薬を惜しみなく提供し、心得のある者が手分けをして応急手当にあたった。外傷の初期処置は早ければ早い方が良い。死者がでなかったことは不幸中の幸いと言える。
その重篤な傷害の少なさの裏で、傭兵たちが葛藤した場面もあった。
一刻の猶予もない状態の子供が運ばれてきた際、頭にはシルエ特製の薬の存在が浮かび、迷う。その僅かな時間にも子供の容態は悪化していくように見え、焦りが募った。判断が遅れればその分、治癒の力を受け入れるだけの体力も気力も失い、薬の効きもその後の経過も悪くなる。最悪、助からない。
傭兵たちの間でも子供を助けたいという気持ちは共通しているが、外部へ薬の使用は禁止されている。その効能故の反作用もよくよく聞かされているし、無用な揉め事を避けるために秘するようにとも厳命されている。
もしかしたら、困窮している者にこっそりと薬を融通した傭兵もいたかもしれないが、少なくともその話が外に漏れて問題になったことはない。
しばし躊躇し、傭兵たちは顔を突き合わせて多数決を取った。命には替えられない。怒られる覚悟をした。
意識も脈も失いかけていた子供の唇に薬を含ませた布を当て「戻って来い」という願いと共に、反応に留意しながら少量ずつを数回、与えた。
無事に子供は息を吹き返し、目立つ後遺症もなく済んだ。幼くて自身に何が起きたのか理解していなかったせいもあるのか、まるで何事もなかったかのようにケロリとしていた。
問題は十分な人払いができず、みるみる回復していく様が複数の人目に触れてしまったこと。騒動も相まって口止めなどもはや無理だった。
その頃、聖都の施療院にも導師が残した妙薬を求める人が押し掛けていた。
鎮魂の儀の見物客が導師の死を悼み、偉大さを称える会話は聞き耳を立てなくても流れてくる。その逸話の中に妙薬はあった。
過去、施療院で治癒を断られた経験があるものの、今回ばかりは温情に与れるのではないかと希望を捨てきれない者がそれを聞き逃すわけがない。
施療院に携わる神官の中でも妙薬の存在を知っていたのはほんの一握り。
常にひとつしかなかった妙薬はもうない。
導師はもうこの世にいない。
もう妙薬が補充されることは永遠にない。
そこに降って湧いた、傭兵が持つ驚異的に効く薬の噂。
心肺停止状態の子供が息を吹き返したという、その効能。
神官と施療院にさっさと見切りをつけ、傭兵に縋り情に訴える者が相次いだ。使用済みの瓶に残った一滴でも構わないから譲ってくれ、と。その声は悲痛で狂おしい。
そういう者の多くは長患いの重い病か、怪我の後遺症に苦しんでいることが多い。痛みの苦しみや病の話を訥々と聞かされて傭兵たちは困惑した。薬が病に効くのか、古い傷にも効くのか判断できない。
薬はあくまで救急用として配られている。服用で絶命の危機から脱したら療養と経過観察をさせ、場合によっては後日シルエが診にいくこともあった。ただ薬を渡して終わりではない。
また、一人一人に渡っているわけではなく、どう管理するかも含め、隊の責任者に任せてある。いつ何時必要になるかわからない状況を想定して、組のうちの誰かしらが携帯している所もあれば、速足自慢の連絡係が所持している所もある。
個人に懇願されても「薬はない」は嘘ではないのだ。
しかし「隠しているわけではなく、本当に持っていない」と断っても疑われ、薬の特質や副反応の危険等を説明しようにも「それでもいい」と話を聞かない。連日そんな人々への対応が待っていて辟易とする。屈強な傭兵に「魔物と戦う方が楽」と言わしめたほど困憊していた。
それだけ相手も必死なのだ。
「みんなもさ、話の通じない人に突撃されて困っただろうけど」
ここにいるのは苦慮の末、薬を渡してしまった小隊長たち。シルエの地を這うような低い声、横目の冷たさに傭兵たちはぴゃっと背筋を伸ばす。
「どの医者にも匙を投げられてさ、身内が苦しんでいるのを見かねて、どうにかしたいって我を通すのは百歩譲って、まあ、仕方がないよ」
薬の行先が判明している所をディネウとシルエで後始末をして回った。服用後の診断もだが、しっかりと釘を刺しておかないとならない。
しかし、時遅く、既に「傭兵からもらった薬で家族が助かった」と喜びのあまり大声で喋ってしまった者がいた。噂は驚くべき早さで広まってしまっている。しかも『古傷も治し、若返りもできる万能薬』という誇張までついて。
そうなると『これは金になる』と悪巧みをする輩が現れる。
怪しい商売を持ちかけてきたり、脅したり不意打ちで奪おうとしたり、詰所や仮宿に空き巣に入ったり。
窃盗被害は全く関係のない宿にまで波及し、治安の悪化はその一因が傭兵にあると苦情がくる始末。
しかも聖都からかなり離れ、まだ情報が行き渡っていない地域までもが狙われた。
その距離と時間を考えても、人を雇って指示した者の存在が浮かぶ。組織ぐるみの犯行は疑いようがない。
もちろん黙ってやられるほど傭兵たちも弱くはない。殆どは返り討ちにしたり、捕らえたりしている。
それでも多人数で取り囲まれれば如何に鍛えていても分は悪い。いくつかは強奪や盗難に遭ってしまった。
まさか、ここまでの大事に発展するとは思っていなかった傭兵たちが大きな体を縮めて恐縮する。
薬に係わる事態の対応にかかりきりになり、身動きが取れなくなるなど考えもしなかった。魔物の襲撃が一時のように頻発していたら連携も乱れて危険だったかもしれない。
「奪った薬を高額で売りつけて一儲けしようとか…。人の弱みにつけこむ性根もさ。もう、単純にバカなの? どうしても欲しいって有り得ない金額をそんなヤツに払っちゃう方も…ハァ…」
トカゲの尻尾切りでは終わらせない。黒幕は傭兵の偵察隊が追っている。
「転売目的で傭兵から奪うという手段に及んだ者には、誰に対して喧嘩を売ったのかはっきりと思い知らせる。今後同じことを考える阿呆が出てこないよう徹底的に」
シルエを納得させるようにディネウが宣言すれば、傭兵たちはその体に似合わないか細い声で「アニキ、済みません」と呟いた。
このところの魔物被害で傭兵の心象も立場も向上、地域と信頼関係も築けていたのに、「薬を独占しようとしている」「命に左右するのに譲ってくれないなんて人非人だ」などの風評も出ている。病人を抱えた者の訴えに人々は同情的だった。無関係の人から心無い言葉を投げつけられたりもしている。
「こちらの正当性を明らかにして、違法に入手した者をみせしめないとね。…買った側も」
それでも、まだ本物の薬なら良い方。奪う側も危険を冒している。もっと悪いことに――
「偽物を売りつけるバカが絶対出てくるだろうって思ってたけど! まだ、ただの水ならマシ。雑草を煮た液体とか…。薬っぽくみせるため? 毒性や体に害があるかも知れないのに、無知って怖い。それにしたってさ、買う方ももう少し疑おうよ」
危害を加える勢いで傭兵に迫り「万能薬だって言ってた癖に。この嘘つきめ」と詰り、泣き喚く者を何とか宥めて事の詳細を聞けば、完全な偽物だった。同様の詐欺に泣き寝入りしている者もいるかもしれない。
偽物を購入してしまった者の家に赴き、不承不承で治癒を施した。かなり衰弱していた病人は怪しい偽薬のせいで更に下痢も併発していて、あと数刻遅ければ、シルエの治癒も届かなかったかもしれないという状態だった。
これまで、あれこれ手を尽くし、かなり胡散臭い治療法にも縋ったらしい。元は裕福だったと思われる家はすっかり寂れて薄暗かった。
シルエは怒りや叱責や罵声を口にしてしまわないように終始口を固く閉ざしていた。
金を受け取って高飛びした詐欺師はサラドとノアラが追っている。シルエが行こうとしたが何をするかわからないということで、ディネウに止められた。そして、今に至る。
「騙されて有り金奪われて、それで、大事な人の病も治らないとか…悲しすぎるでしょ」
シルエは一旦言葉を切り、深く息を吐いた。
家業を傾け、使用人の殆どを解雇し、財産が尽きるまで助かる手立てを探し続けたのは愛情だろう。今度こそ、これが最後と期待した薬に裏切られ、騙されたという怒りは憎しみに変わった。愛の分、抱いた負の感情も深い。
すぐに薬を売ると持ちかけてきた人物を探したが見当たらず、傭兵団にその憎悪をぶつけに来たのだ。
「わかったでしょ。逆恨みして、改めないままずっと恨んでくる人が出てくる。冷静に『あれは傭兵ではなく詐欺師だった』と思ってくれるかっていうと、そうもいかない」
騙した人間が悪く、自分に非はないと他に責任を押し付ける者。騙された自分を責め、被害を訴えることもできず精神的に追い詰められてしまう者。前者は真偽も確かめず外に向けて発信しかねないし、後者は場合により悲惨な決断をする恐れがある。
「僕の薬はやっぱり争いを招くのかな…」
ぼそりと零された呟きはディネウにも傭兵たちの耳にも届いていなかった。