18 セアラと奇蹟の力
サラドは躊躇っていた。これまで傭兵団との共闘や村の移住に付き添うなど女性と野宿をともにしたことはある。だが、それはいつも大勢の中であって、年頃の女性を見張りの交代で起こしたことなどなかった。普段は人との距離の詰め方がやや近めで接触も多めのサラドだが、心の深い部分では臆病なところがある。
(いや、変に意識するほうがおかしいよな。でも触られたら嫌だろうしな…)
大きめの声を出せばあとの二人も起こしてしまいかねない。結局、肩を軽くトントンと叩き耳元で名前を呼んだ。
「セアラ、セアラ」
「…はい」
目を開けたセアラは少々ぼんやりしていたが、急に耳をおさえ、がばっと起き上がった。
「そんなに慌てなくていいよ」
「は、はいっ」
落ち着いてからサラドはセアラに見張りの注意点などを説明した。セアラは真面目に聞いてくれている。
ショノアを中心として旅をするならそれほど野宿になることはないかもしれない。それでもやむにやまれない場合、知っているのとそうでないのとでは対処も身の安全の確保も変わってくるだろう。
「ただ起きて注意していればいいわけではないのですね」
「ははっ。そりゃあね。それだけじゃダメだ。盗賊なんて出るはずがないって、そういう気の緩みは怖いよ。じゃあ、オレは少し離れて見張るから」
セアラは少し不安そうだが、それでもこくこくと頷いて周囲に気を配った。
次第に東の空が白んで来る。明るくなるだけでも緊張は解け、セアラも強張った肩をゆるっと回した。
彼女は言われたことはきちんと真面目に取り組もうとする。責任感も強そうだが、それ故に些細な失敗でも自分を責める傾向がありそうだった。だからこそ多くを望むと潰れかねないが、身を守る武器となる技能は多いに越したことはない。
「ああ、それから――」サラドはちょっと悩んでセアラに近寄った。「手に触れても?」
セアラはゆっくりと頷いた。まだ薄暗くて表情はよく見えないがサラドの顔をつい見つめてしまう。思い浮かぶのはとても穏やかで包容力のある目で微笑んでいる顔だ。
「セアラは人の気に聡いし、奇蹟の力もある。邪悪なもの、人を害そうとするもの、悍ましきもの、疚しいもの、そんな気を探ることができるようになるかも」
セアラの手をすくうように自らの手に重ねサラドは説明した。
「〝治癒を願う詩句〟を唱えた時に感じる力の奔流を思い出して。難しければ祈りを唱えてみてもいい。その力を意識して周囲に広げるイメージで。薄く、薄く、遠くまで届ける…」
セアラは言う通りに頭に思い描くがなかなか上手くいかなかった。祈りの言葉の一節を口の中で唱えてみても同じく、奇蹟の力の片鱗すら感じ取れない。
「うん、じゃあ、一緒に〝治癒を願う詩句〟を唱えてみよう。二人を起こさないように声は小さくね」
御者を治した時と違ってサラドも今回は同じ言葉を唱和する。ゆっくりと落ち着いた、少し嗄れた低めの声。その声に自分の声を合わすのがとても心地良いことだとその時セアラは知った。
治すべき傷もないのにセアラの指先に光が宿る。対してサラドの手は光っていなかった。
「これを広く遠くに届けるつもりで――」
重ねた手を引かれ腕を伸ばす。
自分が滴る水の中心にいて波紋がひとつ、ふたつ、と広がる心象。その波紋が何かに触れて円が崩れ、ほんの、ほんの少しピリッとした感触で伝わる気がした。
「うん、上手。今の感覚で、少しずつ練習を繰り返せば身につくと思うよ。慣れれば気配として察知することができる」
「…できるようになるでしょうか」
「大丈夫。すぐに完璧にやる、なんて誰にも無理なんだから。でも、あまり無理して練習はしないようにね。魔力切れに気をつけて」
「魔力? 祈りで得る奇蹟の力も魔力なのですか?」
「そうだよ。人それぞれの魔力量は違う。決して限界を超して使用しないこと、無理をしないこと」
セアラは感慨深く自分の手を見つめる。
「…その、奇蹟の力だけど、王都の神殿では無理強いはされなかった?」
セアラは返答に困り、首をちょっと捻って横に振った後、頷いた。肯とも否ともどちらにもとれる。
望んで神官見習いになったかは別として、巡礼路を越え聖都へ赴けばセアラにとっては良い経験となり箔もつくことだろう。その後に各地を回る際にも聖都参りを終えたとなれば人々の信頼も篤くなる。
それでも――
「…今こうして神官見習いをしているセアラには言い難いけれど、聖都に入ったら、その…よく町や人を観察するまでは奇蹟の力については慎重になった方がいい。おかしなことを言っていると思うかもしれないけど」
サラドの言葉が聞こえていなかったのかと疑うほどたっぷりの間をおいてセアラは口を開いた。
「…サラさん、私…、神官見習いの修行を受けたのは王都に来てからなんですが、奇蹟の力を授かったのはもっと以前からなんです」
「うん?」
「故郷の神官様はやはり同じように奇蹟の力を使えることを知られないようにと仰いました。でもそれはある方にそう言われたからだと。
私を保護し、その養護院に連れて来てくれた方だそうです。私がいずれ奇蹟の力を使えるようになるだろうと見抜き、神官様に守って欲しいってお願いしていったといいます。
私はその頃の記憶が曖昧です。どんな方だったか思い出せません。
養護院には定期的に寄付とお菓子を届けてくれる方がいました。みんなそのお菓子を心待ちにしていました。でも子供たちとは一切会わず、いつも神官様に預けてすぐに帰られてしまうのだそうです。とてもシャイな方らしくて。
私、一度夜に目が覚めてその後ろ姿を見たことがあるんです。『いつもありがとう』って言いたくて追いかけたけれど、すぐ見えなくなってしまって。
神官様に何度も何度も聞いてその人が私を保護した方だって教えて貰いました。だからその方は私にとって特別です。いつか、お礼が言いたい。立派に育ったねと褒めて貰いたい。
養護院に預けられた子供たちはある程度の年齢になると次々に養子や徒弟や奉公へと行きましたが、私はその方の言葉があったお陰で施療院の手伝いをして自分がどうしたいか考える猶予をいただけたんです。
王都から使者が来て神官様とはゆっくりお別れもできませんでしたが、最後に
『もし聖都に行くことがあればその力は秘匿しなさい』とそっと耳打ちされました。
神官にとって奇蹟の力を許されるのはとても名誉なことのはずです。
聖都に行くのも田舎者にとっては憧れです。
‥‥どうしてサラさんも同じことを言うの?」
セアラはとても静かな声で独白のように喋った。
「…そう、だね。セアラが心配だから、かな。ごめんね。あの時、オレはその力を暴くようなことをしてしまった」
申し訳なさそうに頭を下げるサラドにセアラは首を横に振った。御者を助けられたことを後悔はしていない。そもそもあの力も自分のものなのか半信半疑なのだ。
「心配…ですか?」
「奇蹟の力は稀有で偉大な力だからこそそれを持つ人を抱え込んでおきたいという者は多いんだよ。セアラは素直であまり人を疑うことをしないから心配なんだ。だから自分の目で良く確認して」
聖都は特別神殿の力が強く、またその威光を守るためにも有能な人材をそこから出そうとしない。下手すると奇蹟の力が使えるというだけで望まなくても聖都での修行を強要される。聖都へ巡礼に赴いた田舎の神官が帰って来ない、なんて話も聞く。
「ショノアさまにはまだ説明するか迷っているが…。オレはもしかしたら聖都に入れないかもしれない。そうなったら自分で身を守らないとだから、一応話しておこうと思って」
「入れないってどうしてですか?」
「うん、それは…、あ、夜明けだよ。お祈りの間はオレが見張ってるから」
「あ、はい…」
一筋射し始めた日の光にいつものようにセアラは朝のお務めを始める。
「ああ、うん、いつ聞いてもセアラのお祈りはとてもきれいで清々しいね」
祈りを唱えるセアラの耳にサラドの独り言が届き、集中力を欠いた。そっと側を離れていく気配にほのかな寂しさを覚え、首を振って祈りに集中しようと組んだ指にぎゅっと力をこめる。
陽の姿が地上に出切る頃になると「おはよう」と挨拶が交されショノアが鍛錬を始める、いつもの朝の光景だ。ショノアはいつも以上に眠そうに体をほぐしている。ニナも起き出して湧き水に向かった。
祈りの言葉を結んだセアラは先程サラドから教わった感覚を忘れないように、おさらいしていた。奇蹟の力は今は感じていない。彼に手を取ってもらってもいない。それでも意識を集中してみる。
チリチリと警鐘を鳴らす音がした気がした。
驚いて目を開けた時にはサラドが腰に提げた鞄のベルトに差した短剣の柄に手をあてつつ、足音を忍ばせてじりじりと進んでいた。
その緊張感にショノアもセアラもピタリと動きを止める。サラドは少しだけ振り返り、口の前に指を立てた。いつの間にかニナも短剣を予断なく構えている。
木々の間から姿を現したのは巨大な山鳥だった。体高はサラドよりやや低いくらい。それ以外はただの鳥に見える。足元をちょこまかと数羽の雛がうろついている。その雛が通常の山鳥よりも大きい。
こちらに気付いた巨大山鳥はボワッと胸の羽毛を膨らまし両翼を広げて威嚇する。冠羽を逆立て頭を左右に振り、ケケェとけたたましい声をビリビリと鼓膜に響かせる。雛がサッと身を隠した。山肌にいれば擬態になるのだろうが大きすぎて隠れきれておらず、ぺたりと地に伏したまあるい姿は可愛らしくもある。
サラドは柄から手を放し、後方の三人に手を振って下がるよう指示した。ニナが素直に従ったのを見て、ショノアとセアラも目を合わせて数歩退いた。
サラドは膝に手をおいて身を屈め、巨大親鳥と対峙した。
双方動かず静かな時間が過ぎ、ほどなくして警戒を解いた巨大山鳥親子は去って行った。コココ…と誘導する鳴き声にピヨピヨと雛が付き従う。親鳥の背中に乗ろうとしたりまだ羽と呼べない翼をパタパタさせ必死に着いていく。
それを見守ってからサラドは三人と向き直った。
「サラさん、今のは魔物ですか?」
「うん、そうだね。大きさから魔物と呼ばれるけれど人を襲うことは今はもうほぼないよ」
白くなるほどにぎゅっと手を握り、セアラは山鳥の去った方角を見遣る。
「魔物ならば倒すべきなのでは」
「…何故です? 食すために獲物とすることもありますが、害意のないものを無駄に殺す必要はありません」
「だがいつ人を襲うかわからんだろう」
「襲うかもしれないで排除するのは山の掟に反します。獣にしても植物にしても生きるのに必要なだけ分けて貰っているのです。お互いの生息域を侵してはいけません」
「…そういうものか」
「ええ、大事なことです」
魔物と遭遇して戦わないことがあるとはショノアにはにわかには信じられなかった。