177 「おかえり」
王子の視察に随行した文官に持たせた一対の魔道具にて届いた緊急の報告は、俄には信じ難いものだった。
王都と並び、結界に守られて安全と評されていた聖都を襲った存在。王都とも一致する事項があり全くの無関係とも思えない。
「あの子は無事なのか?」
「王子殿下は避難していらっしゃると。ただ、王配殿下に関しては、神殿長殿に参考人として呼ばれており、怪我の有無などについて、はっきりしていないようです」
「そうか…。命に別状はないのだな」
「お二方をすぐに帰すように伝えますか?」
「否。予定通り、なるべく安全な地を選んで巡視を続けるようにと申し渡せ。王都を守るのは余の務め。第一王子には生き残ってもらわねば困る。それから…第二王子にも経験を積ませよ」
母としての心は殺し、女王として第二王子に防衛戦への参加を命じる。まだ成人も迎えておらず、新兵よりも年若い第二王子の出兵は酷にも思える。魔物による襲撃が起きて以降かねてより習っていた剣術の時間を増やし、兵の訓練所にも顔を出すようにさせている。前線に出ることはなくとも、王家として、人の上に立つ身分として、その存在を示すのは重要だ。
第一王子は聖都の式典参列にかこつけて視察へ送り出してある。万が一を考慮し、王家滅亡という危機を避けるためにも王都から離れさせたかった。その準備中に貧民街を小鬼が襲い、その場に第一王子が居合わせたと知った時には肝が冷えた。
聖都に到着してからは、これを最後の機会と心して王配から外交や諸々の教えを請うように言い付けてある。聖都に暫し滞在するか、もしくは視察に同行させるかは王配の容態を判じてからと指示していた。
憑き物落としと養生で聖都に預けられた王配は原因不明の体調不良となり、それが「神より罰を受けた」と見做された。神が認めた罪を神殿で雪いでいるのだからと、魔物に操られて謀反未遂を起こした件の処罰は下されていないままになっている。
魔物の襲来で頓挫しているが、第一王子に譲位するのは女王の中では決定事項だった。それに合わせて王配に蟄居を、側近たちにも退陣を申し渡す。摂政や相談役になることは認めない。
政に支障をきたせずにそれを成すためには大変な準備や根回しがいる。次代の人選は特に重要だ。何の対策もせずに退位などすれば、それは即ち責任の放棄、逃げでしかない。
「…あれの不調はどうなっている?」
「それについても追って報告するとあります」
「そうか」
人を下がらせた後、女王は窓の外に目を馳せた。一筋の残光もなく、夕闇の迫った藍色の空は王都の行く末を暗示しているかのよう。
「…未練がましいにも程があるな」
未だ心のどこかで、サラドと嘗てのような友人関係に戻れるのではないかと淡い期待を抱いている己に女王は苦笑した。思い出の品は処分したが、吟遊詩人に書かせた手記は結局、抽斗にしまい込んだ。
「昔も。『誤解をされようとすべきことは変わらない』と貴方は笑っていたな。きっと、今回も…。それが余に対する温情ではなく、無辜の民の為でしかないとしても…」
魔物の襲撃で閉じ込められ、市場は新たな荷が届かず品薄が続き、王都の民は疲弊してきている。その鬱憤がいつ王家に向いてもおかしくはない。現に、騎士や兵士の離脱は抑えきれず、王都の防衛だって危うい。
「あの日、差し出された手を、笑顔を思い出せ…」
彼女を支える存在と信じていた臣下は『女王陛下のため』という理屈で、彼女が最も望んでいないことをした。その上、今も当然のような顔をして侍っている。
私情を混じえるのは愚かだし、王として間違えてならぬと律してはいる。
しかし、信頼は崩れ去り、もう戻らない。
「余はもとより孤独だったではないか。何を嘆くことがある? あの、王都中の人間が眠る中、たった一人、目覚めていて逃げ回った夜を思えば、これしきで弱音など吐くものか」
せめて心の中だけでも友であると胸が張れるように、なんとしても王の責務を果たそうと女王は己を鼓舞した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
骸骨の歩みを止めるため、王都の裏手、林の奥へ赴き、土へと還した頃には日が落ちていた。
沼ごと一帯の浄化を終えたシルエが魔道具の仮面とフードを外して、軽く頭を振って風を通す。
「はー…。仮面を着けているからって息苦しいわけではないけど、取るとやっぱりさっぱりするね」
淡い麦わら色の髪を掻き上げると明るい草原色の目が露わになる。険しく眉を顰めた表情。やや童顔の甘い顔が台無しだった。
サラドの手前、我慢していたが、この一連の出来事は腹に据えかねている。怒りを抑え、よく暴れずにいたとさえ思う程に。
「シルエ、ごめん。勝手に導師の姿を借りて…」
「え? それはいいよ、別に。僕と導師の霊が一緒にいたことで、素直な人は別人だったと納得してくれるだろうし、疑り深い人だって詮索してはいけないって、いくらなんでも理解したでしょ。その…ありがと…。サラドが導師の尊厳を守ろうとしたんだって…知ってる」
むすっと口を尖らせていたシルエが照れ臭そうに声を萎ませていく。サラドはゆっくりと首を横に振った。
魔術師の隠れ里へは翌朝を迎えてから訪れようと言うディネウとシルエに対して、ノアラは少しでも早くにと異を唱えた。
「まぁ…、彼らと一番親交があったのはノアラだろうし? ノアラがそこまで主張するのは珍しいし? それなら訪問するには非常識な時間かもだけど送り届けようよ」
シルエはサラドの顔を窺いながら、ノアラの希望に添う意を示した。そのサラドはどこか上の空でいる。
来訪者はないはずの里の近辺に宵の口になって突然現れた人の気配に、里の灯りが消え去った。別の箇所で目眩ましの灯りが浮かんでは消える。森に迷い込んだ旅人であれば、集落があると思って近付いたら何もなく、狐につままれた気分になるだろう。
ノアラが魔術を使って自身の存在を報せた。周辺のあちこちに人の住処があるように見せかけていた灯りが失せ、本来の里に灯が点る。警戒が解かれ、道が開く。
里の人々は急な訪いにも、温かく迎い入れてくれた。
暗い顔をして、話し辛そうにするサラドたちに事情を聞くでもなく、もてなす準備をする。それを遮ったのはディネウだ。ガリガリと頭を掻き乱す。
「あー、すまない。今日来たのは良い理由じゃない」
ノアラが背負っていた籠を降ろし、そこからひとつを丁寧に拾い上げて、包みを開く。ノアラはいつもの無表情で、傍目には何も感じていないように見えるが、その紫色の目は哀しみと悔しさに沈んでいる。
代わりに説明しようかと提案するシルエにサラドは首を振って、歌いすぎて嗄れた声を絞り出した。
「…申し訳ありません。骨を拾ってくることしかできなくて…」
彼らが来た経緯を知り、里の者が集められた。複数の光の術で照らされて明るくなると、髑髏を並べた重苦しく沈痛な場が少しだけ和らいだ。
帰らぬ者を待ち侘びていた身内や師が骨に手をかざして、そこに残る僅かな魔力を探る。あのローブに刺繍されていた意匠と各々が持つ色が可視化された。骨の髄にまで刷り込まれているのか、脈々と受け継いだ系譜で、その骨が誰であるかわかるらしい。
浮かぶのは少し離れた位置で見守っていてもわかるくらいに大きいものから、ほんの小さく朧気な色まで様々だった。読み解くのを可能にしているのは師弟の絆か、魔力の相性か。
「…僕にも、あんな風に僕を表す特別な文様と色があるのかな」
ぽそっと呟いたシルエに、魔力を流されて反応を返す骨から目を離せずにいるノアラも正面を向いたままこくりと頷いた。
骨は全てがこの里出身のものではなく、無関係なものも含まれていた。
「こんな隠れ里ではなく故郷に帰りたいかもしれんが…。少なくとも虐げた者の手が及ばぬ地ではある」と、一緒に埋葬することを申し出てくれた。
それから弔いの酒席が設けられた。急拵えだが心尽くしのつまみと酒でしめやかに別れを惜しむ。
古くから伝わる葬送の習わしは地方それぞれで特色に違いがあるものの、神殿のそれとは趣が異なる。最も大きく違うのは格式張らず、死が身近で忌むことがない点。
神殿は唯一の神を信じ、各地にあった土着の信仰や風習を認めず、排する動きがある。葬儀もその勢力の拡大とともに神殿式が一般的になっている。神殿が布教しきれていない鄙であれば代々受け継いできた方法で送られることを望む人も少数いて、養父のジルは求めによってどちらにも対応していた。
酒席で演奏されている旋律はサラドが歌う鎮魂歌に似た雰囲気がある。都で聞くような洒脱な音色ではなく、雑音が混じるような楽器と技巧だが、想いは込められていた。
ふと、サラドが立ち上がった。追いかけようとして腰を浮かせたシルエの腕を取り、ディネウが有無を言わせず座り直させる。
サラドは夜の闇にすぐ溶け込んで、気配も消したため、何処に行ったのかはわからないが、曲の向こうに微かに歌声が聞こえた。
「もう…。骨の浄化はしたし、鎮魂だって済んでいるのに。サラドの喉だって限界でしょ」
「だからって、しないっつう選択はアイツにはないだろ」
端の方に座している彼らの元にも、代わる代わる骨を受け取った縁者が清めの酒を注ぎにくる。それにはノアラもチビリと口をつけた。慣れぬ飲酒で既に顔が赤く、目が若干据わっている。
希望を持って魔術師の里を旅立った若者から一切の音沙汰がなくても、「便りがないのは、元気で、忙しくしている証拠だ」と残された者は互いを慰めていた。里は狭く、世界は広いのだから、と。
それでも、虫の知らせを感じ取っていたのだろうか。無言の帰宅を静かに受け入れた。