171 魔術師のゴースト
シルエが手首を返し回しかけた杖をディネウがその籠手で止めた。鈍い音がして、ジビビ…と骨にまで衝撃が染みる。
「待て! 落ち着け。アイツも何か思惑あってそこに居るってことだろ? 術をぶっ放って取り返しがつかなくなる前にまず確認しようぜ。声がするなら無事ではあるはずだ」
「う、うぅ…」
シルエの手元に集まり出していた光が萎んでいく。杖を軽く払って痺れる腕を下げ、ディネウはシルエの背をぽんぽんと軽く叩いた。ノアラとも目を合わせ、頷き合う。
「聖都前から救援信号も上がったが…」
ノアラが空を見上げた。青い煙はもう霧散して見えない。
「こっちの気の方が強い。というより、それらもこっちに集まってる」
シルエが杖で指し示す。目指すべきは本神殿の礼拝堂。そこに全ての気が集結している。
礼拝堂内は切羽詰まった調子ながらもどこか温かみのある祈りの唱和で満たされていた。その声に踊るように無数の小さな光の粒が舞っている。
鎮魂の祈りに参加しているのは、その場に居合わせている神官と見習いの全員ではない。中には呆けている者や気絶した者、あわあわと口の開閉をしている者など反応も様々ある。
神殿長は受け入れ難い現実に落とした杖を拾うこともせず、導師を目で追っていた。
導師の霊は静かに副神殿長に近寄り、その膝に乗っていた子供の霊に両手を差し出す。目は昏い穴となり、小さい歯を剥いてグルグルと唸るような顔をした子供の気がこちらに向くまでそっと寄り添う。
副神殿長はぎゅうっと目を閉じ、精一杯顔を背けていた。小刻みに動く唇の動きを見ると、子供の霊を罵っている。サラドは悲しくなった。その感情が祈りを紡ぐ声にも反映する。
漸く子供の霊から険が抜け、サラドに手を伸ばし掛けた時、入口がどよめいた。
礼拝堂の扉脇に控えた聖騎士が気を失って倒れた。阻む者を排除し続々と侵入して来るのは、白い霧から出た無邪気な子供の幽霊とは一線を画すおどろおどろしい灰色で陰気で酷く傷付いたモノ。
神殿内をひと目見ようと壁に噛り付く者たちはごっそりいなくなっている。みな散り散りに逃げたのだろう。
子供たちの霊に驚きはしたものの、逃げることはしなかった神官たちも、新たな灰色の幽霊に道を空けるようにザッと身を退いた。整列も祈りも乱れ、和が崩れる。
灰色の幽霊の行列はぼてりぼてりとした無理に足を前に出すような歩みで、息ではなく黒い靄を吐く。人の顔をじろじろと覗き込むことはあっても襲いかかってくることはない。まるで、誰かを探しているかのように。
急にその足の重みを忘れスーッと軽やかに移動を始めた灰色の幽霊は身を縮ませる神官の間をすり抜け、壁沿いに並んだ来賓席へと向かっていく。
なんとか正気を保っている兵士の誘導で来賓は回廊の奥へと避難を始めた。追い付かれ、顔を覗き込まれた者はその昏い顔にぞっとして「ヒッ」と息を呑む。腰を抜かす者も出て、賓客を守ろうと兵士たちが盾となった。
「殿下も早くこちらへ!」
第一王子も灰色の霊に足留めをされ、じろじろと顔を見られていた。逃げたいのはやまやまだが体が硬直して動けない。直視したくないのに目を逸らせない。
王子の顔を見ている霊は軽く首を捻った。胸に手を当てて礼を執る霊に対し、王子はハッハと浅く呼吸をするばかりで何の反応も返さない。じっと待つ霊も、やがて王子の背後、柱の陰にいる人物に気付いた。霊はスッとそちらに向かい、跪く。
そこにいるのは礼装で身を包んだ王配だった。手巾で引き攣った顔の片側を押え、第一王子を見守るように身を潜めていたのだ。
太く豪奢な柱の陰で礼拝堂にいる者からはそこで何が起こっているのかは見えていない。
霊は王配の紋が刻まれた指輪に口づけ恭順を示す。胸に当てられた手指の揃え方は、王配に忠誠を誓う特殊部隊所属のもの。
灰色の霊は王配の前にきちんと一列に並び挨拶の機会を待つ。王配は小刻みに震えるだけで逃げ出すことも拒否もできない。せめて、と側近と護衛が迎えに来た王子に早く逃げるように目配せをした。
騒乱の中、サラドの祈りの声は調子を崩さず、静かに続いていた。それに合わせようと祈りを継続している者の声も熱を帯びるが、礼拝堂内の怪異が鎮まることはなく、それどころか神殿の象徴である長く尾を引く星と小さな星が重なったモニュメントがカタカタと微振動を始めた。重厚な石の床も下から突き上げられているかのように震えている。
色ガラスを通して美しい光が降りそそぎ明るく照らされていた礼拝堂内にフッと影が差した。舞っていた光の粒が一斉にパッと姿を消す。
壁も、星のモニュメントもすり抜けて、更に重々しい気が祭壇に立つ神殿長の背後に押し寄せる。昏くて冷たくて苦しくて臭いモノ。
ゆら、ゆらとゆらめいているのは長衣をはためかす最も暗い色をした幽霊の一団。祭壇脇に陣取り許しを乞う集団に首を向けた途端、グルンと体を丸め、人の形を捨てた。この場にある陰の気を集めたように魔力が凝縮していく。
礼拝堂の中央を走り抜けたディネウ、シルエ、ノアラが間一髪、導師の霊と暗い色の幽霊との間に割り込んだ。ディネウにグイッと引き寄せられ、背に庇われた神殿長はすぐ横にいる導師の霊と目が合いそうになり、慌てて逸らす。
「くっそ!」
「魔術師のゴースト?」
暗い色の幽霊は黒い炎となり跳ね、風刃や石礫を飛ばし、足をすくう激流となりうねる。
シルエが瞬時に張った防御壁が炎を阻み、ディネウが水の軌道に剣を振り千千の滴に散らし、ノアラが風と土を相打ちにして落とす。
激しく魔術が飛び交う中、星のモニュメントの裏で影は満足気にその身を伸ばした。にゅうっと這い出て、壁を伝い、灰色の幽霊が詰めかけている王配に迫る。
立ち上がり、ニマリと嗤う影。
「見ツケタ。ヨシヨシ、種モ育ッタナ。複製故ニ増エハシナイガ、ナイヨリハマシ…」
王配はすぐにそれが自身を乗っ取った影だと気付き震えた。腕を無茶苦茶に振るが影は揺らめくだけで、手応えもなく、消えない。
「く、来るな!」
「ハッ、安心シロ。ソレダケ貰エバモウ、オ前ナゾ用ナシダ」
王配の首後ろからスルスルと黒い靄が昇り影に吸い込まれる。脱力感に襲われた王配はその場に頽れた。
服従すべき主君の姿に戸惑う灰色の幽霊も形を保てなくなり、指や肘、顎から汗が滴るように黒い水がボタリボタリと垂れている。
場内にいる者に被害が及ばないよう防衛に徹している三人も魔人の気配を察知していた。防御壁の強化と範囲の拡大をしながら、その行く先を目端で捉えたシルエの術が影を狙う。
柱を打った光が弾け、パラパラと天井に近い飾り彫り部分から埃が散った。
「避けられた!」
「マタ…マタオ前ラカ! マタ邪魔ヲスルカ!」
憎々しげな声を投げつけ、シュシュシュッと壁を這い上がった影は、色ガラスから抜け出た。
追撃を放つがガラスがビリリと振動音を立てたのみ。ノアラも追えなかったようで首をふるふると振った。神殿長の身を整列した神官に預けて戻ったディネウも「ちっ」と舌打ちする。
「正面から戦う気はねぇってことだな。でもまぁ、捨て台詞を言う余裕もなく逃げるくらいには追い込んでるだろ」
「くっそ。何処に逃げ隠れているんだか…」
逃げた魔人の影に気を取られている隙に、再び人の形を取ったローブ姿の霊は三人の横をススス…と抜けていた。それらは副神殿長らを睨んでいる。吐き出される呪詛がぐるぐるととぐろを巻く。
「えっ? 何? ちょっと、僕らのこと無視?」
「なんか、様子がおかしくねぇか? 二撃目が来ねぇし、サラドはあのうねうねした中には入ってねぇ。ただ、ヤツらへの恨みを晴らしてぇ、みたいだな」
ぼそっとディネウが囁やき、様子見を促す。シルエとノアラも同意し、反撃に転じずにいると、ローブの霊たちは器用に導師を除けて、「許して」と叫ぶ者たちをぐるりと囲んでいた。
「ええー? これは、彼らの気が済むのを待ってあげた方がいい? あっちを助ける必要は感じないし」
「攻撃術が思ったよりも強い。だが、古代の魔術師のゴーストとは思えない」
「なぁ、あれ。見覚えないか?」
ディネウが幽霊のローブ、ボロボロの袖先に残る刺繍の意匠を指す。
「あー、あれ。あの国境の向こうの…、隠れ里!」
過去に訪れたことのある小さな隠れ里には魔術師の末裔が住んでいた。
国や他の町村とは隔絶してポツンとある里は終末の世にあって、不作には悩まされていたが大きな災害や病には遭っていなく、どこか長閑な雰囲気があった。
表向きは田畑を耕し、森から糧を得て、自給自足で営む生活。その傍ら親から子、あるいは資質の似た者で師弟関係を組み、活躍させる場はなくとも魔術を脈々と伝えている。
彼らが魔術と一緒に受け継いでいたのがあの意匠だったと記憶している。普段は農夫と違わぬ質素な服だが、ここぞという時に着用する正装があのローブであったと。
昔々、強い魔術師の迫害から逃れた一門が移り住んだのが始まりと伝えられおり、再びその憂き目に遭わぬようにひっそりと暮らしているのだとか。
また伝承では先祖はかなりの術を行使していたらしいのだが、年月を経るに従い、生涯をかけても術を扱えるまでに成長できない者が増え、それどころか魔術を発露しない者も多くなった。
だとしてもこの里に住む者たちにとってそれは欠点でもなんでもない。先祖が受けた誹りをこの里で再現する愚は犯さない。
強い術を得ることよりも制御と調節に秀でることを目指し、生活の中でも使える術に特化する工夫をしていた。魔術が使える者は里の儀礼などで精霊と地に感謝を捧げる任を担う。魔術は特別な力ではなく、狩りの腕が良いとか細工物の技術が優れているなどと等しい価値観であった。
閉鎖的な里だが、そこから出ることを禁じたりはしていない。里の中だけでは血が濃くなり過ぎる。伴侶を求めて、または単に外の世界に憧れて出て行く者を止めていなかった。里の平和で穏やかな暮らしを懐かしんで、戻ってくる者も多かったからだ。そのため、世情を全く閉め出しているということもなかったが、疎いことは確か。
里には珍しい魔術に関する古書が数多く保存されていた。その出会いはノアラにとって貴重だった。ノアラが開発した術を里の者は褒めてくれ、彼の理念と努力を認めて、さらなる成長の手助けをしてくれた。本来は師弟関係でのみ継ぐ術を伝授してくれることもあった。
サラドたちの訪問で、里の外では想像以上に不作や災害、魔物被害に苦しんでいることを知り、受け継いで来た魔術が少しでも役に立つのなら協力したいと申し出てくれる者もいた。
そんな気の良い人たちだったはずが…
「えー、あの里の魔術師たちがどうしてこんな…」
そう疑問を口にした瞬間、ある可能性が頭に飛来した。ノアラも同じ考えに至ったようで、珍しく怒りをその顔に表す。総毛立っているのか、サラサラでストンとした金髪が少し膨らんで見える。
「…そうだよね。誰が悪魔召喚に手を貸したのか…。彼らは使い捨てられた?」
ローブの幽霊から流れくる負の念に影響されたのか子供の霊も再び副神殿長へと憤怒を放つ。
とうとうサラドの祈りも途切れてしまった。