170 導師の幽霊
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鎮魂の儀、式次第は神殿長による導師への謝辞を経て黙祷に移る。礼拝堂内に会する一同は顔を伏せた。
衣擦れなどの僅かな音も高い天井に反響する。そんな程良い緊張感の中、来賓席に居る者が急激な寒気にぶるりと体を震わせた。厳粛な雰囲気を壊してはいけないと、くしゃみが出そうになるのをぐっと堪える。じんと冷える足が辛くなってきて、そろりと目を上げて、ぎょっとした。
扉から霧がひと波、ふた波と押し寄せてきている。瞬く間に膝下くらいまでを白い霧が覆った。
急激な天候の変化かと思ったが、扉の脇に控えた兵士も空と足元とを交互に見ていることから、違うらしい。
其処此処でくしゃみや洟をすする音がして、俄に場内がざわついた。神殿長の咳払いですぐに静まるかと思いきや、警護中の兵士があげた「うわっ」という低い悲鳴につられて大勢が目を開けた。
そこで目にした奇異にもう儀礼どころではない。
うねうねと持ち上がった霧が少しずつ子供の輪郭を形成していく。時に髪や目の色まではっきり見えるほど明瞭になったり、ふっと掻き消えたり、薄衣越しのように朧気だったり。
「ゆ、幽霊だ」
誰かが不謹慎にも叫んだ。
「供養を望んで集まった魂だろう」
誰かが手を合わせ、短く祈る。
良く遊んでくれる神官を見つけて嬉しそうに走り寄る子、口を開けて礼拝堂の天井を見上げる子、厳かな雰囲気をものともせず駆けっこをする子、大勢の人が会す場に萎縮して隅っこで指を咥えている子。
それらはこの世に未練を残した幽霊というよりもただ屈託のない子供そのもの。
とても賑やかそうな見た目に反し、一切の音がないのが却って不気味だった。
導師の護衛であったジャックは警備任務も忘れる程に取り乱していた。白く透けた子供の中に見知った顔がいくつもある。同じ時期に養護院に預けられ、共に育った友や、世話をした小さな子。みな養子先や奉公先が見つかった筈が、別れた時のままの幼い姿だった。
「どういうことだ? これは…」
「遊ばないの?」とでも言いたげにしている子供の霊を前にした神官も子供の名を呟き、口に両手を当てて、驚きを隠せずにいる。
自由に遊び回る子もいる中、半数以上の幽霊は祭壇脇の端に陣取った副神殿長を中心とした一団をグルリと取り囲んでいる。
なぜ、ここに引き付けられたのかもわからずにきょとんとして神官らを見上げる子供たち。その数たるや。
霊に囲まれた神官は腰を抜かして、ガタガタと震えた。子供一人一人の顔など覚えてはいなかったが、儀式用の貫頭衣には嫌というほど見覚えがある。
祈りの言葉を紡ぐなどもはや無理で、狂乱も露わに悲鳴を上げるか「ゆるして」と口走った。
あの日――この遺跡に辿り着いた始祖が光を見出し、信仰として広めるべく説いたとされる大事な日を祝う儀式の夜。その最中に神殿を襲った天災は、導師が世の罰を代わりにその身に被ることで、外部への被害を防いだのだと説明されている。もともと病を得ていた導師の体はそれに堪えきれず、急に悪化して身罷ったのだと。
その任を副神殿長らも共に負い、今も痛みは続いている。覚悟も辛苦に耐えるのも、熱心な信仰心がなせるのだと評されていた。だからこそ来賓席にいる者たちは違和感を覚えつつも、その異様な祈りも、乱れた姿も、好意的に受け止めていたのだが。
あの夜に起きた真実を知る神官や見習いの厳しい視線が刺さる。子供の幽霊と副神殿長らの因果関係に疑念の目が向いた。
その時、パッと強烈な光が祭壇前で弾けた。収まる光が凝縮して人を象る。
その光はさながら、地下から昇ってきたかのように見えた。この下には霊廟がある。鮮明になったり、霞んで消えたりする現象も子供たちと同じ。
朧気で幻のような導師の姿。目は落ち窪み、髪はぺったりと頭の形に添っている。痩せすぎた体型を隠すためのゆったりとした衣は神官の法衣ではなく、布地もありきたりのもの。
壇上にいる神殿長が、手にしていた一等立派な杖を取り落とし、カランと乾いた音が響き渡った。
光はその実、サラドによる目眩ましだった。
扉から奥の祭壇まで一筋の道があるように中央が空いているのを確認したサラドは弓を横にしてなるべく低い姿勢で構えた。神殿長がいる段下の場所目掛けて、霧に紛らわせて矢を放つ。鏃ではなく紙で包んだ小さな火薬が付けられている。威力は無く、撹乱や連絡などに使う照明弾だ。狙い違わず、床に叩きつけられ、パチパチと発光した隙にサラドは自身に幻術をかけて侵入した。
(シルエには悪いけど…、導師の姿を借りるよ)
導師の霊は静かに佇み、わなわなと震える神殿長には目もくれず、礼拝堂内にいる子供たちをゆっくりと見回した。
遺構であり、多くの神官が祈りを捧げている礼拝堂内の場の力は強い。そのためいつ術が破られてもおかしくはない。せめて鎮魂歌を歌い終わるまで保ってくれと逸る気持ちですぅと息を吸う。誠心誠意、子供たちに向けて、黄泉路へ旅立てるように、と歌い導く。
高い天井に声は思いのほか響いた。
神官たちの記憶にある導師のものとは違う、少し低めの嗄れた声で紡がれる言葉。否、それは不明な言語で歌われる厳かでいて切ない旋律。
初めて耳にする畏怖と畏敬の念に場内の者は聞き入っている。
礼拝堂内を占拠した子供たちもその歌声にわらわらと集まり出す。「遊んで」とせがんでいた子供が神官に小さく「バイバイ」と手を振って、導師の幻影に抱きついた。導師の手が子供を優しく撫でるように動くと、ふわりと光の粒となって空に昇る。あっという間に導師は子供に囲まれ、ひとつの大きな白い塊になった。そこから次々と光の粒が舞う。
歌が終わる頃になると残っているのは祭壇脇にいる神官たちに纏わり付く子供だけとなった。その子供たちは神官の足にしがみついたり、鼻がぶつかるスレスレまで顔を近付けていたり、様相が違う。己の身に起きたことを知ったのか、責め立てるような、怒りをぶつけるような、そんな表情だ。
歌に続き、やはり聞いたことがない言語で、韻を踏み独特の調子が紡がれる。それが他言語による鎮魂の祈りだと気付いた神官の一人が恐れながらも言葉を重ねる。別々の言葉のようであっても不思議と調和している。一人、また一人と祈る者が増え、その大合唱に成仏を拒否する魂も揺らぎ出した。
その頃、聖都の裏手へひた走りながらもニナは葛藤していた。怖くて逃げてしまいたい気持ちと、サラドに囮になると宣言した約束を守る義務感。
もし、影に見つかったらどうすればいい?
また『娘』と呼ばれたら?
自分の影に入り込まれたら?
怖気は消えず、震えも止まらないのに引き寄せられるように足は動く。
影に追い付いたニナはその動向を監視できるギリギリの場所で木陰に身を隠した。ふぅふぅと荒い呼吸で自分の位置を特定されてしまいそうで怖い。だが、ドコドコと騒ぐ心臓は一向に制御できない。
そこは聖都の裏側にある廃棄場。人の生活により生じた塵が捨てられる場所。絢爛豪華な神殿が輝く光ならば、完全にその影。都合の悪い物から目を逸らすように低い壁で隔てられ、薄暗く、空気が悪く、周辺の木々も活力がない。
「目覚メヨ。今コソ復讐ノ時、ソノ無念、怨恨、晴ラス時、力ヲ貸ソウ」
影の呼びかけに応じ、靄が立ちのぼる。ゆら、ゆら、と揺れては次々に長衣を纏ったゴーストへと変じる。血塗れのローブは元の色も相まって昏く、裾は煙のように消える。顔があるはずの部分は人であったことを忘れたのか、黒々とした虚が三つ空いているだけ。呪詛を吐きながら、何かに掴みかかろうと腕を伸ばす。
「憎カロウ、悔シカロウ…。ソウダ、行ケ、ソノ身ニ受ケタ屈辱、返シテ来ルガ良イ」
ゴーストの集団は牆壁に向けて行軍していく。実体のないモノに壁は何の意味も成さず、すり抜けて聖都内へと易々と侵入して行った。その濃い靄に守られるようにして影も乗じている。
街門方面からも悲鳴が響く。灰色の霊たちも門を潜ったらしい。
「…どうしよう。知らせるにも、どうしたら…」
ニナは木陰でカタカタと震える身をぎゅっと縮込ませた。
影が去った廃棄場では遅れてモゾモゾと蠢くモノがある。ボコッと土を割って出て来た黄や茶色に煤けたモノ。ニナの脳裏に古戦場から湧いた骨が西の外れにある村を襲った惨事が浮かんだ。
「まずい!」
牆壁はさすがにニナでも越えられる高さではない。己を叱咤して、ニナはもと来た道を走った。
「え? なにこれ? どういう状況?」
聖都に転移してきたシルエは不死者の気配の多さに面食らった。
「この、怨嗟とそれに被る振動…。魔人がいる!」
「お出ましだね!」
ノアラの不可視が歪み、地に手を付いた姿が露わになる。シルエもほぼ同時にその存在を察知したようで、反射的に杖でビシリとその方角を指した。そこは本神殿から僅かにずれている。感じ取ったのは聖都の裏側。本神殿へ移動しているらしく、シルエの杖先もじわじわと動く。
ノアラは怨嗟を煽る声を邪魔するべく、音の術を練っていた。
「まさか、灯台の町は僕らの足留めをするための罠だった?」
街門の外から聞こえるのも、本神殿の開け放たれた扉から漏れ聞こえるのも鎮魂の祈りの唱和。なあなあな儀式と言うよりも真に迫っている。にも関わらず、街門から入り続々と礼拝堂に向かう灰色の幽霊。逃げ惑う人の悲鳴と混迷と騒乱で音が渦巻き、然しものノアラも苦しげに顔を歪めた。
「サラド!」
祈りの中にサラドの声が混ざっていることに敏く気付いたシルエの目に剣呑な光が射した。