17 水浴びと夜警
ひとつめの宿場を発って少しすると石畳はなくなり、次第に勾配のある曲がりくねった道に変わっていった。
朝、出発し次の宿場に着くまで小休止を挟みひたすら歩く。宿場でセアラは祈り、復興を願うためとショノアが宣伝することも忘れない。
それを繰り返して五日めとなる。
ここ二日は山を削った道で片側が崖や急な斜面も多く、パラパラと崩れて落ちる土が、足を滑らしたらこの身がどうなるかを語る。時折開ける視界には連なる山の尾根が、眼下には木々が、その先にちらりと海が見えた。青く霞む稜線は天に続く道のようだった。
「少し寄り道をしてもいいですか?」
「寄り道?」
これまで地図を出す必要がないほどサラドの道案内は堅いものだったのでショノアは何かあるのだろうと了承した。
「セアラ、それ使わせてもらっても?」
サラドはセアラの杖につけられた籠を指さした。何も入れていない、まだ使用したことのない籠を見て、セアラはこくこくと頷いた。鼠の手のような形の葉、花びらを取った胚珠など数種の乾燥させた植物を荷物から取り出して混ぜ、緩く揉むように丸めて籠に収める。両手で包み、間もなく煙が燻りだすと籠を閉じ、セアラに返した。草の青臭さの中にほんの少し柑橘類の香りもする。
「これは?」
「虫除け、ですね」
「火をつけたのは魔術か?」
「まあ、そうですね。わたくしにできるのはこの程度でして」
「…はじめて見た。詠唱や魔方陣は?」
「これくらいでしたら」
「そうか。でもこの威力では攻撃には使えないな」
「…そうですね」
踏み固められた巡礼路から直角に逸れて林の中を進む。細い道だが人ひとりが進むには問題ない幅はある。
半時ほどするとせせらぎが聞こえ、水源豊かな泉が姿を現す。その奥にも湧き水や岩間から水が染み出している箇所がある。水の豊富な地で数カ所の湧き水から小川が出来ているようだ。
「水浴びしてもいいですか?」
「ここでか? 外だぞ?」
「旅暮らしなら普通ですよ。もちろん短時間で済ますことになりますが。ここ何日も足を拭うくらいしかできませんでしたから。そろそろ洗濯もしたいな、と思いまして」
綺麗な泉を見てセアラもうずうずしているようだ。かく言うショノアもそろそろ思い切り体を清めたいとは思っていた。宿場によっては大部屋に雑魚寝などもあり、体を拭うこともままならない。飲み水も食糧も荷を運んできているため無駄にはできなかった。
サラドはパパッと木の枝を利用してロープを張り、布を垂らして目隠しを作った。少し移動してしまえば丸見えではあるが、その先は覗かないという心配りはできる。
「セアラ、女性からお先にどうぞ。その間に休憩の準備をしておくよ」
「え? でも…」
「ニナも――ん?」
サラドがニナに声を掛けた時にはもう姿がなかった。セアラは躊躇いながらも布をくぐる。後ろを振り返るとサラドはもう石を集める作業をしていた。外で水浴びなど抵抗はあるが、見渡しても人気はない。
(裸にならなければ、気にすることでもないわよね…)
荷物から着替えを出し、洗濯も兼ねて肌着のまま水に浸かった。
(冷たいけど、気持ちいい…)
入ってしまえば箍はすぐに緩んでしまった。興味本位でそろそろと泉の奥に進む。深さは胸くらいまである。足の下に湧く水がそよそよと当たってくすぐったい。見習い用の服も洗ってしまいたくなったが、そうするとびちょびちょのまま歩かなければならなくなってしまう。服は我慢したがセアラは髪をほどいて身を屈め水に頭を沈めた。金の髪が水面に広がる。しばしの水との戯れを楽しんだ。
サラドはいつもの手際の良さで、石で簡易な竈を作り、火をおこしていた。適度な大きさの石を四つ椅子代わりに運ぶ。大まかな準備が終わる頃、ニナが枯れ枝と木の実を採って戻ってきた。
「ありがとう。これ、美味しいよな」
ニナは相変わらず無言、無表情だが、サラドに笑顔を向けられ顔を顰めた。
サラドはナイフで器用に木の実の外殻を外し、渋皮を剝いて器に張った水に漬けていく。
別の小鍋には昨晩から水に浸しておいた豆がある。
「あ、出ました。ありがとうございます」
長い髪からポタポタと水を滴らせながらセアラがひょっこりと顔を出した。
竈に鍋をかけるとサラドは立ち上がった。
「じゃあ、オレも…。セアラ、火を見ていてくれる?」
「ニナも一緒に入ったらどうだ?」
外した革鎧を整えながらショノアが声を掛けたがニナはぷいっと顔を逸らし、木の陰に身を隠した。
「あー…。ニナも休憩したらどうかな。小川の側、ほら、あの岩の陰とか丁度良さそうだぞ?」
サラドが指し示した方向を目で追い、ニナは彼をキッと睨むと、身を翻した。
「何かあったら大声を出してね」
上半身裸になったサラドを見てショノアは目を見張った。ショノアも鍛えている自負はあったが、服を着た姿から想像するよりもずっと引き締まっている。目を奪うのは傷痕の多さだ。その中でも驚愕なのは右の鎖骨辺りと二の腕にある痕だった。丸く引き攣れた痕は大きな獣に牙でガプリとやられたのだと想像できる。それで食いちぎられなかったのも驚きだし、その負傷から回復したのも、腕の動きに支障が残っていないことも。
近くで見れば、顔にも顎や眉のところにうっすら傷痕があった。
あまりにじっと見ていたせいかサラドが鎖骨の傷痕をさすり出した。
「気味が悪いですか?」
「あっ、いや、すまない。不躾だった。気味が悪いなどと、歴戦の勲章だろう」
「ご冗談を。若気の至りの無謀さと弱い証拠で、お恥ずかしい限りです」
サラドはザプリと水に入ると頭をガシガシと洗い出した。
「ひっ。思ったより冷たいな」
ショノアが足を水に浸けたくらいでサラドはサッと上がってしまった。
「えっ? もう上がるのか」
「これも積年の習慣でして。見張りはしますので、どうぞゆっくりなさってください。あ、あと…」
濡れた体を拭きながらサラドは声をぐっと落とした。
「女性に対して一緒に水浴びにと誘うのは如何なものかと」
「は? 女性って?」
「ニナに」
「えっ? ニナが女性だと?」
「どう見ても女性かと。名前からしてもそうでしょう?」
「それをサラが言うか」
「それもそうですね」
「それにしても、勘違いしていたとはいえ俺はレディに対してなんてことを」
「謝られるのも嫌だと思いますよ。ニナは構われるのを厭っているようなのでそっとしておかれる方がよろしいかと」
「わ、わかった…」
布がめくれないように脇を通ってサラドが出て行く。羞恥に熱くなった顔を冷まそうと水に潜ったショノアの耳に「火の番ありがとう」と言っている声が聞こえてきた。
「いいえ、私ばかりのんびりしてすみません。なんだか新鮮ですね。その、」
セアラが自分の頭を指すようにちょんちょんと触れた。サラドは癖っ毛ではねているので、濡れて後ろにぴったりと撫でつけた髪型は見慣れない。
「そういうセアラも。きれいな髪だね。陽の光を受けてハチミツみたいな色だ」
いつもきっちり結い上げたセアラは髪を乾かすために今は下ろしたままだった。そのことを忘れていたのか顔が紅潮する。伸ばしっぱなしの長い髪は毛先が荒れている。
サラドは鍋の様子を見て灰汁をすくい、水を足した。琥珀色に輝く粒子を入れると甘い香りがふわりと漂ってきた。
戻ってきたニナも髪から水が滴っていた。それを見てサラドがほっと息を吐く。
ショノアも戻って火を囲むように四人が揃った。
張ってあるロープから目隠しにした布を外し、代わりに洗濯物を干すと心地いい風が吹いた。
サラドは甘く煮た豆と蒸した木の実を配った。ひとくち食べてセアラがぱあっと笑顔になった。
「わあ、とても美味しいです」
「本当はよく冷ました方が味が染みるんだけどね」
チチチと鳥の鳴声にサワサワと葉擦れの音、せせらぎ、時々コポッと水が気泡を押し上げた音。とても賑やかでいて静かな時間が数分続いた。
連日の山道で足腰が疲弊している上、慣れない宿場での夜に精神的にも摩耗している。
「わがままで寄り道をさせてもらって言うのはなんですが、今から進むと次の宿場に着くのは暗くなってからになりそうです。今日はここで夜を明かしませんか」
「野宿か…」
ショノアがセアラとニナに気遣わし気な視線を送る。
「野宿も経験しておいた方がよろしいかと。宮廷魔術師殿がいらっしゃる前にわたくしでお教えできることがあれば、と思いまして」
抜けることが前提であることを殊更強調するサラドにショノアは眉間に皺を寄せる。セアラは不安そうに眉尻を下げた。ニナは疑い探るような眼差しだ。
それでも甘味に癒やされ、座ったことで疲れがどっと出たことで暗くなるまで歩く気力は失われていた。
「一晩くらいは寝ずの番もできます。支援しますので今夜の見張りは経験と思ってください」
見張り番はニナが一番手、眠りを分断することになる二番手に体力的にも余裕のあるショノアが、次いでサラドと交代し、最後がセアラ、彼女はもともと夜明けとともに祈るのでこの時間帯が最適だろう。
「ニナには教えることは特になさそうだけど」
「一人で充分だ」
「オレがいるのが気になるなら見えない所にいるよ」
サラドは枝張りの良い木に近づき、するすると登った。一度枝が揺れる小さな音がしただけでシンと静まり返る。
サラドの気配が消えた。
ニナはその木に目を馳せ、周囲を見回した。背中に冷たい汗がつつっと垂れた。訓練時に格上の者と手合わせする時と同じ緊迫感が漂う。
「ニナに何かするつもりなんかないからオレのことは警戒しなくていいぞ」
「ちっ」ニナは小さく舌打ちした。
頭上から降ってきた小声に腹を据えるしかないと悟る。声がして尚、どこにいるにか全く探れない。今の自分ではこの男に敵わない、逃げるのが精一杯だろうと体に叩き込まれた感覚がそう告げていた。
ニナは偵察、危険察知はしっかり仕込まれていて危なげなかった。寧ろ普段は己一人分の警戒で済むところを人の命も預かる気負いから、気を張りすぎなくらいだ。山の中の夜に臆することもなく担当した時間内きっちり務めショノアを起こした。
「交代するとわかっているから眠れないかと思ったが、いつの間にか眠っていたようだ」
ショノアは欠伸をしながら伸びをし、鞘に収めた剣を脚の間において、円坐に置いた石に座る。サラドは少し離れた木の根元に腰掛けていた。
「俺も騎士団の訓練や遠征で何度も経験している。休んでくれて構わないぞ」
「そうですね。あくまで補助ですから」
火は山に住むものたちを刺激しないように炭になったものを燻らせる程度に抑えている。
ホーウホーウと響く鳴声、夜行性の獣が水を飲みに集るのか時折カサッと音がたつ。最初は肩がビクッと跳ねたが何度目かになるとそれにも慣れてしまった。退屈と昼の疲れが眠りを誘う。
「――ま、ショノアさま」
呼ぶ声に覚醒し目を上げると元いた場所にサラドの姿はなかった。
「ああ、動かないでください。虫が」
すぐ背後から声がして首筋にヒヤリと指先が触れた。全く気配がなく緊張で瞬時にして汗が噴き出る。振り返ろうとした頭にサラドのもう片手が添えられた。強く押さえられたわけでもないのに動かすことができない。
「虫?」
「毒虫ですね。手で叩いたり急に動くと攻撃されたと思い咬みますから。あっても腫れと痺れと発熱くらいで致死毒ではありません。ご安心を」
そっと差し出したサラドの手に触覚を動かし虫が移動していく。それを木の幹に誘導し逃がした。
「山には毒虫も多いですからね。獣や盗賊よりも怖いかもしれません。…不思議ですよね。こんな小さい体で遥かに大きな体の人を苦しめる毒を持つなんて」
「…あ、助かった。礼を言う」
「いいえ、丁度いいので交代しましょう。お休みください」
ショノアは首筋をさすり、ぶるりと体を震わせた。