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169 呼び寄せる

 サラドが悪魔から贄になった魂を託されている頃、聖都の外にも鎮魂の祈りに引き寄せられたモノが集っていた。


それはやたら低くたれこめた黒々しい雨雲のような見た目で、他の白や薄灰色の雲とは明らかに違う。上空の風の流れとは関係なく、王都方面から聖都へ迫り来る。


 背筋を這い上がる怖気と荒くなる呼吸でその異様な気配を察知したニナは馬車の陰に身を潜めた。なんとか平静を保とうと深呼吸を繰り返す。サラドに教わった自身の魔力の巡り、闇の精霊の存在に思いを馳せ、闇に溶け込むこと、気配を隠すことに意識を集中する。

息と脈が落ち着いてくると、ニナを包む闇が一層濃くなっている気がした。外界と隔てられ、守られている、そんな安堵感にすっと心が凪ぐ。


 ニナは馬車の座面を寝台にして無気力に寝そべるマルスェイを叩き起こした。


「おい! 馬と馬車を頼むぞ。離れる」

「どうしたんだい? ニナ、そんなに鬼気迫って」


少しだけ頭をもたげたマルスェイは虚ろな目で薄ら笑いを浮かべている。


「ハッ。この()を…。何も感じないとは、とんだ腑抜けだな」

「何を…」


ニナの小声は注意して耳を傾けなければ聞き取れないくらいだが、馬鹿にしているのはなんとなく感じ取れるもの。


 ショノアに支えられて戻って来て以来、マルスェイはこの世の終わりかのように絶望していた。

セアラとショノアの会話が聞こえたので大まかな事情は把握している。ニナは気の毒だと同情するような心は持ち合わせていない。マルスェイの態度はふて寝をしているだけだと思うくらいには無関心だ。


「とにかく、頼んだぞ」

「えっ、ちょっと…」


瞬く間に姿が見えなくなったニナが向かった方角に目を遣り、マルスェイは気怠げに体を起こした。今、宿場の表通りは静かで、その奥に停めた馬車にまで聖都門前の賑わいが届いているのにマルスェイはやっと気付いた。



 祈りの行列の最後尾が門の中に消えても、沿道の人垣はまだ留まっている。その外側にいるショノアとセアラはすぐに見つかり、ニナは音もなく近付いた。


「危険だ! 今すぐここを離れろ」

「わっ! …その声、ニナか?」


すぐ脇に立たれても声が掛かるまで気配に気付けなかったショノアは驚きに身を跳ねらせ、反射的に剣の柄をしっかと握った。


「どうした? 危険とは?」


 その時、ビュウと冷たい風が吹き抜けた。黒い雲はぐんぐんと流れて聖都外門の上部に到り、急に動きを鈍らせた。

その後方に雲とはまた違う影が揺らめく。雲を追い立てるように『行ケ、行ケ』と囁く。

ニナは身を硬くし、ドッドッドッと速まる鼓動を抑えようと胸と口元に手を当てた。


「ニナ? どこに行ったの?」


隣にいるのにセアラが困惑した声を漏らす。


「行ケ、行ケ、ソウダ、ソノ恨ミ晴ラシテ来イ」


黒い雲は端から少しずつ崩れて地に落ちてきた。ボタっと落ちた黒い水滴から霧が発生し、むくむくと灰色で朧な人を象っていく。

ボタリ、ボタリ。雨粒にしては大きすぎる粒が次々と落ちては形を変える。


「何だ…、あれは…」沿道が驚異にざわめく。まだ身の危険を感じていないのか、その様に目が釘付けになって動こうとする者はいない。だが、その昏い人の細部が徐々に明瞭になっていくと、口を衝いて出そうになる悲鳴を押し殺した。両手で口を塞ぎ、息を止める。そうすれば、目の前を通り過ぎるモノに目を付けられないとでも信じているかの様に。


 ニナは目を瞠った。遠目にも見覚えのある訓練着。そこにある黒い染みが血なのは疑いようもない。顔の一部が損なわれている者、ブラリと片腕を提げた者、満身創痍な者。年端もいかぬ子供から少年まで様々な年齢の――幽霊。

ニナは自分自身が生き残るのに必死で、互いを認識していた者などいないが、特殊部隊の脱落者であることは間違いないだろう。


「サア、行ケ。オ前タチ丿主ガコノ先デ待ッテイルゾ。早ク会イニ行ッテヤルトイイ」


そこはつい先程、祈りの列が通った場所。街道の両脇を人々が固め、中央が空けられた道をぼてぼてとした歩みで行進していく灰色の幽霊。

深い闇を宿す眼窩、薄く開いた口から漏れるのは息ではなく、苦悶を具現化したかのような昏い霧。

霊の出現に「ヒイッ」と悲鳴を上げ、壁に貼り付いたり、聖都内に逃げ込む聖騎士や兵士たち。


 霊は沿道の人の顔を確認するようにじろじろと首を傾ける。眼球はないのに目が合ったと錯覚する。ただそれだけのことで襲いかかられてはいないが、見られた者はその場に縫い付けられたように動けず、声も出せず、震えた。

最前列にいた人々が石像の如く硬直する(さま)に、後ろにいた人々は堪らず慌てて身を翻す。幾重にも重なる人を押し退けてでも逃げようと、恐慌状態に陥った。決壊した川のような勢いで人垣が雪崩れていく。

悲鳴は伝播してより恐怖を煽る。

バラけて配置に就いていた自警団が何とか人々を誘導しようと声を張るが、叫喚に掻き消されてしまう。


 我先に逃げようとする者は、外側にいたショノアやセアラに体当たりをしていく。ショノアはセアラを抱き寄せて、人波から何とかして抜けようと必死にもがいた。


「こっちだ!」


ニナがショノアの衣を引き、人の流れがない方へ導く。人にぶつかられない所まで下がった所でセアラが「待って!」と叫んだ。


「あの人たちに祈りを捧げてあげないと! 無限に苦しむことになってしまうわ」


霊を人と呼び、混乱の中で踏み潰される危険があるにも関わらず、セアラは膝を折って胸の前で手を組んだ。


「セアラ! 止せっ 危ない!」

「ごめんなさいっ。でも、やらなければ」


ショノアが二の腕を掴んで立たせようとするが、セアラは振り払って、再び祈りの姿勢をとる。一連の動作を省かずに、正しく祈りの言葉を紡ぎ出す。朝夕の祈りでも見せる集中力は、すぐに周囲の喧噪など意識の外に追いやった。ただ一心に、苦しみを吐き出し続ける霊の供養を祈る。


ショノアはいつ事故に巻き込まれるかとヒヤヒヤしながらも、腹を括った。セアラの盾になるべく、腰から鞘ごと剣を外し、左手は鞘を、右手は柄を握り、体の正面に立てる。


 荒れ狂う人の流れに翻弄されながらも、この場に留まろうとしたのはセアラばかりではなかった。聖都に入ることが叶わず、人垣の中から見学する立場に甘んじていた他国の神官や巡礼者たちだ。

セアラが祈っていることに気付いた者が一人、彼女の近くで膝をつき声を揃える。また、一人、一人と加わっていき、鎮魂の祈りを唱和した。


悪霊を押し返す波のような声を背に受け、ショノアは誇らしさと心強さを感じた。


「フフフ…」


 逃げ惑う人の姿を見て、空中に漂う影は楽しげに揺れていた。


「無駄ナ事。ソンナ魔力モナイ()二破レルモノカ」


影は膝をついて祈る集団を一瞥して「ハハハ」と一笑に付す。止めどなく黒い雨粒を落とし続ける雲を残して聖都の裏側へ向きを変えた。


「モット、モットダ。待ッテイロ」


愉悦にまみれた影の声が遠ざかって行く。

ニナは追うべきかどうか、己の恐怖心と闘う。悪霊ばかりに目を奪われ、影の存在に、その声に誰も気付いていなさそうに見える。もしや、見聞きできているのは自分だけなのかと疑い、そっと左頬に手を当てた。


「こ、これはどういう事だ?」


 先端に付いた玉が重いのか杖を引き摺るようにしてヨロヨロとマルスェイが走って来た。


「なっ! 馬車を頼むと言っただろう!」

「あれは我がモンアント領が育てた誇り高き馬だぞ。怪しい者など近付かせないさ」


なぜか胸を張るマルスェイをニナはギロリと睨んだ。


「マルスェイ、大丈夫なのか」

「ああ、すまない。流石にこの気配を放って寝てはいられない」


ショノアはニナとマルスェイの会話から馬車の盗難などを不安視したのだが、彼は自身の体調を心配されたと受け取っている。ショノアは小さく嘆息した。


「…まあ、いい。この事態だしな」


マルスェイはひとつ頷き、セアラを守るようにショノアの横に立つ。ショノアも一歩ずれて場所を調整した。


「…。わたしはアレを追う。馬車に何かあっても知らないからな!」


ニナはマルスェイをひと睨みして言葉を呑み込み、跳ぶように走り去る。その方向は霊が集る街門ではなく壁沿いに奥を目指していた。


「アレとは何だ?」

「わからない。だが…、ニナに任せよう」


ショノアはマルスェイの方には目を向けず、人々の動きを注視している。こちらに転がって来るような者がいれば、すぐに対処できるようにと。

マルスェイもすぅーと息を吸い、気を引き締めた。足を肩幅に開き、重心を置く。杖は左手に構え、玉に右手をかざす。それはまるでショノアと対をなすような立ち姿だった。


 マルスェイは涼しい顔をしているように見えるが、その心は掻き乱れていた。いくら集中しようとも魔力の巡りは霧雨の一粒ほども感じられない。そうとわかればわかるほど心には細波が起こり、焦りと動揺は荒波となる。

それが横にいるショノアにも伝わるのか「落ち着け」と平らな声で呼びかけられた。


「マルスェイは剣術も武術も心得があるだろう。守る力はひとつではない。今は拘りを捨ててくれ」

「あ、ああ…。すまない」


マルスェイは一度ぎゅっと目を閉じると、魔力を感じることは止めて、周囲への警戒に神経を尖らせた。


 祈りに加わる者が増えるに従い、自警団の一部や、少なからず平静を取り戻した者が、守り手として名乗り上げてくれた。「頼もしい」という意を込めてショノアは目配せをする。

祈る者、守る者、大きな輪ができ始めていた。



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