168 溢れ出る…
本神殿に到着した祈りの行列は、散り散りになったかと思いきや、各々に決められた動きをきちんとなぞるようにして礼拝堂の中央に整列し直していく。
くゆる香の煙と浄化の薬用葉を燃やした煙とが融合し、優美な色ガラスを通して降り注ぐ陽の光を際立たせる。
最後尾を守っていた聖騎士が扉の両脇に就く。今日の儀は扉を閉じないようだ。運良く聖都、しかも二番目の壁の内側にも入ることができた者は壁の外に群がり、本神殿の中をひと目見ようと背伸びをした。
並び終えた神官たちの祈りの言葉は節の区切りで語尾を長く伸ばし、静寂に吸い込まれるようにして途切れた。チリンと大きく鐘が鳴らされ、ひと呼吸の後、新たに唱和が始められる。待機していた見習いも合わさり、一糸乱れぬ大合唱となった。長い年月、自壊することなく建ち続けた荘厳かつ重厚な壁にわんわんと反響する。
それは大きなひとつの和。
一部に混じる熱狂的なまでの願いの声は同じ言葉であって異分子だった。
聖都に一人残ったサラドは、聞き取りづらい音と足裏のザワザワとした気配に集中し、より強く感じられる場所を根気良く探っていた。
とても遠くからのような、弱くて微かな呼吸のような。
聖都を覆い尽くす鎮魂の祈りが感覚を狂わすのか、音も気配も知っている気がするのに判然とせず、もどかしい。
(オレを呼んでる? オレで力になれる? どうか、応えてくれ)
サラドの呼びかけに、応じるものはない。
サラドの足は本神殿から次第に遠退き、二番目の壁沿いに何枚もある薬草畑まで来ていた。儀式中のため、付近には誰もいない。
――サラド、あそこ、イヤな匂いだ
木陰から聞こえた闇の精霊の声に目を向けると、発酵した独特の匂いが確かにする。畑の端に堆肥を作るため、糞を積んだ山と、大きく掘られた穴に枯葉や野菜くずが折り重ねられた場所があった。
「臭くはあるけど…、そういう意味じゃないよね?」
――死、ともまた違う イヤな
闇の精霊の言葉は、祈りの大合唱の終息で突如として切り替わった空気の震えで遮られた。ふるふると震え、陰の中に逃げていく。
「どうし――あっ」
ギャンとジャンの間のような不協和音が耳をつんざく。
――開いたぞ。さあ、帰れ。そして然るべき道を行け
今までしかと聞きたくても邪魔されていた音が俄に鮮明になった。とても難しい言語で、複雑な音の組み合わせで。
日が陰り、足元が急激に暗くなったかと思えば、堆肥の横の空き地が黒くどろついて見える。まるで深い夜の底なし沼のように。
沼底から瓦斯が湧くようにフツフツと波打ち、パチンと弾けてはそこから白い霧が広がった。
ひとつ、またひとつ。
弾けた傍から霧は白く霞んだ人形を象り、一人、また一人と飛び出して来る。それは、自由な空に飛び出す如く、水に飛び込む姿を逆に見ているが如く。
次第に輪郭が明瞭になる人形は真っ黒い空間から出てきたとは思えない無垢なる白。どれもみな小さな子供で、簡素な貫頭衣を着ている。顔立ちは個人が特定できそうなくらいには見えるが、体全体が透けていて朧気。霊体で間違いないだろう。
「まさか、魔人の死霊術で?」
子供はどんどん増え、きょろきょろと周囲を見回しては散らばっていく。洗濯物を干すために建てられた竿の側で追いかけっこをする子、地面にお絵かきをする子、手遊びに興じる子、思い思いに遊び、きゃっきゃという声が聞こえてきそうなくらい。だが実際には目の前の光景は無音で繰り広げられている。あのザワザワは彼らの声ではないらしい。
「…違う? この子らは呼び覚まされたわけじゃないのか?」
一人の子が不思議そうにサラドを見上げた。声はないが「おじさん、誰?」と問う思念が伝わってくる。
「オレはサラド。聖都にいた導師の友達だよ。君たちは…その、」
導師という言葉に反応してにぱっと笑顔を見せた子供の霊は、微かに漏れ聞こえる神殿長の挨拶と止まぬ願いの声に気付いて、サラドの横をスイッとすり抜けた。腕を振って「一緒に行こう」と皆を誘う。霊たちがススス…と移動していく際には、たなびく煙の端のように足が見えなくなり、走るというよりも空を飛んでいるみたいだった。続々と連なり、個々の境目が曖昧になるくらいにひとかたまりに集まる。それは白い霧となり波のようにうねる。
「待って! 君たちは」
今も黒い沼から湧き出ては本神殿へ向かう子供の霊にサラドは手を伸ばした。
――行かせてやれ
圧と息苦しさをもたらす声。そこだけ灼熱であるかのようにゆらゆらと空が揺れ、サラドを通せんぼする。一際大きく歪んだ空間から上半身を覗かせたのは、艶やかな緑色の体表に尖った耳、山羊に似た角、長い腕に大きな手をした悪魔だった。持ち上がった棘付きの尾の先端がチラチラと見える。
声だけ聞かせてくれた時とは比べものにならない圧迫感。立っているのがやっとだ。
サラドは発音に注意して悪魔の名を呼んだが、やはり完璧にはその名を再現できなかった。それでも悪魔はそうだといわんばかりに鷹揚に頷く。口端から鋭い牙が覗くのは笑んでいるからだろうか。
――サラド、死の案内人よ。あれらを導いてやれ
サラドが目線だけで沼を振り返る。またひとつパチンと気泡が弾けた。サラドの不安を見透かしたように悪魔がカカと笑う。
――心配するな。全て渡り終えたら、責任を持って閉じよう。使い魔が勝手に通ることはない
この子供たちは、隷属の術を得るための悪魔召喚で贄にされた魂。泣き喚いたり暴れたりされては面倒だからと、眠った状態で魔術陣に供されて、肉体から剥がされた。そのため、子供たちの魂は自らに起きたことを理解していないらしい。
とっくに喰われていたはずであり、悪魔界の一部となった魂がこちらに帰ってくるのは不可能なはず。
――あんな馬鹿げた契約、結ばせる気はなかった故のこと。お前が名を返してくれたくれたので、こちらも返す
悪魔はまた目を眇めて笑顔をつくる。
他の使い魔の餌食になることもなく魂が無事であったのは彼が狭間にて手を施していたからだろう。
難しい言語を聞き取るのに必死で殆ど返事も返せずにいるサラドの心情や疑問を表情だけで酌み取り、悪魔は伝えたいことを勝手に話していく。
――喰ったのだから従えと言わせぬためだ。馳走を並べられても、そんな愚は犯さない。今は神界と魂の数を競ってもいないしな
一方的な契約で縛り付けられていた悪魔も、サラドたちがテオを救うために召喚を成功させる前から不履行の機会を狙っていたのだろう。使い魔から下位の悪魔に昇格し、力も増したため実行が可能になった。一年に一度の〝夜明けの日〟の式典を待たずして、好機は訪れた。神官たちの鎮魂の祈りがこの地に因縁がある魂と道を繋げる。
――人には長い月日でも、我々にとってはそうではない。だが、贄となり狭間に身を置いたことは変わらぬ。果たして人として命の環に還れるかどうか。それは知らぬ
「…それでも。安息の地へは送れるように最善を尽くすよ。本当にありがとう…なんてお礼を言っていいか…」
サラドは絞り出すように謝意を伝えた。
黒々とした沼から最後の一人が出るのを見送ると悪魔は早速、道を閉ざす。濃い闇は失せ、後には堆肥とも畑とも違う、ぐずぐずした土の面がある。鉄を焦がしたような匂いが風に流されると、糞や饐えた匂いがむわりと広がった。
――中には憤怒や怨恨に堕ちる魂もあるだろう。それは遠慮なく連れて行く。お前が心配することではない
悪魔はまた口端を上げて牙を見せた。耳障りな音で笑い、姿を消す。濃密な気が霧散して圧力から解放されたサラドはドサッとと膝をついた。急激な呼吸困難と音の奔流で痛む側頭を押える。
早く子供たちを追わなくてはと焦りながらも足に思うように力が入らない。
――サラド、待って
悪魔の出現で身を隠した闇の精霊が目の前でふるふると揺れている。
――あそこ、まだイヤな匂いがする
子供たちの魂が堆肥場横から出て来たのは、そこに魂の抜け落ちた体が秘密裏に棄てられたからだろう。常に堆肥を用意しているなら多少匂いがきつくなっても不審がられることはない。
サラドはぎゅっと眉根を寄せ、膝をついたまま祈りを捧げた。ランタンから飛び出した小さな火がグルグルと走った後が白い炎となり地を舐める。鎮魂歌を歌ってもそこから還る光は当然ない。
(どうか…、浮かばれぬ骸に邪悪なものが入り込むことがありませんように…)
――サラド、そのまま行くの?
ふらりと立ち上がったサラドの足元を闇の精霊がうろついて注意を引いた。悪魔の圧に押され不可視の術が解かれている。
「あ、そうか…。教えてくれてありがとう。どうしよう…。オレには不可視なんて無理だし、内服のは手持ちがないし」
――少しの間なら隠せる
壁沿いの陰の中を進むうちは闇の精霊の助けを借りて身を隠した。礼拝堂内は採光に優れている設計なのか光に満ちていて、この先は闇の精霊に負担がかかりすぎるために一度別れる。闇の精霊は不安そうに揺れていたが、サラドはにこりと笑ってみせた。