157 魔物の変異と魔人の関わり
魔物の遺骸の処理を全て終えても臭気はまだ漂い、穢れに冒された地は生気を失っていて、林は不気味な静けさに支配されている。
「…お疲れさま」
ランタンに戻った小さな火はいつもの温かな赤と橙色で、蜥蜴を象った姿で丸まって微睡んでいる。
先端から枯れ色に変わった葉をへたりと下げている木の幹をサラドがそっと撫でた。いつかまた精霊が戻って来ることを願う。この林はゆっくりゆっくり回復していくしかない。幸い、休息と癒やしの季節である冬は始まったばかり。春までにその準備が幾らかでも整うことを祈るのみ。
「サラド…その、ごめん」
シルエはサラドのマントをクイッと引っ張った。たとえ魔物が相手であろうと徒に傷付けるような真似はせず、被害も最小限に抑えるようサラドは取り計らう。
瘴気を前にして取ったシルエの行動は、死屍を損壊させる乱暴だったと自覚がある。命に敬意を払い、肉体が地に還るための手助けとは言い難く、しかも周囲を巻き込んでもいる。
冷静になってみれば、死を送る祈りを担うサラドが嫌う行為であるのは知っているのに、興奮や怒りに委せて自制が利かなかった。
サラドは俯き加減で自省しているシルエを振り返ってにこっと穏やかに笑んだ。
「みんなのお陰で最悪の事態は回避できた。ありがとう」
「んじゃ、長居は無用だな。帰るとしようぜ」
やれやれといった様子でディネウが頭をガシガシと掻く。これだけ騒いだのだから王都も異変には気付いているはずで、現に牆壁上の警備兵は林の方面を注視している。静かになれば調査に来る事も考えられるので、その前に退去しておきたい。
「もしかして、魔物が生まれる場を体験したのではないかと」
ノアラが前置きもなく考察を述べた。次々に頭を過ぎる考えを捕まえようとしているのか、眼球が左右上下に揺れている。深く考え込むノアラは随分前に終わった会話をその後の空白がなかったも同然に続けるという事がよくある。それがわかっているため、ディネウが「そういえば、」と頷いた。
「自然発生がどうとか、何か考え込んでいたな」
「んー? それってあのノアラの魔力を吸った土塊とは別?」
ノアラはこくりと頷いた後、ふるふると首を横に振った。関係があるのか、ないのか、シルエが「ん?」と顔を顰める。
「昔、僕らが村を旅立った時には魔物は既に各地に蔓延っていた」
「うん? そうだね。ディネウの両親も、おそらく僕の保護者? も魔物にやられたもんね」
「倒しても倒してもどんどん増え、どんどん手強くなっていった」
「うん? だから?」
シルエの眉間の皺が深くなる。ノアラは言葉にする間ももどかしいのか「あ、」とか「う…」とか口を開いたり閉じたりを繰り返す。
「よしっ、ノアラ、落ち着け。とりあえず帰ろう。話は頭を整理してからにしろ」
促すようにディネウが肩に置こうとした手を避け、こくりと頷くとノアラはその手首をガシリと掴む。薄紫色の転移陣が浮かび上がるの見て、サラドとシルエも手を伸ばした。
ディネウは中空に向けて「ヴァン、帰るぞ!」と叫び、サラドは指笛を鳴らす。勢い良く近付く蹄の音に、ノアラがしまったとばかりに「あ」と呟いた時には転移陣はもう輝いていた。
髪や身体に染みついた匂いを取ろうと湯を浴びれば、人心地がつく。小屋から漏れるたっぷりの湯気が温かくて心地よいのかヴァンも近くをうろうろしている。竃で火傷をしないようにサラドが「これ以上近付いちゃダメ」と鼻先を逸らすと「ブルッ」と首を振って不満を漏らした。
「サラドはどう思う? 精霊はなんか言ってたりする?」
布で水気を拭きながらシルエがサラドに話を振る。濡れた淡い麦わら色の猫っ毛は頭の形に添ってぺったりとしている。神殿にいた頃は童顔を補って少しでも威厳を示せるようにという理由で、後ろに撫で付ける髪型を強要されていた。常に整髪油でべたつくのも気に入らないし、高貴そうに見えるからと金髪用の色付きだったのも釈然としない。そのため、この濡れた状態の見た目が好きではない。早く乾かそうと何度も頭皮に指を滑り込ませている。
「精霊には異変を感じたらすぐ逃げるよう言っておいたから、王都の周辺には殆ど残っていなかった。そのため地の力が失われかけていたのは確かだけど、普通は影響が出始めるのはもっとゆっくりなはず。魔物が暴れることで穢れが広がり発生しやすい状態とはいえ、死後、忽ち瘴気と化すなんて…」
「そうだよね。街道脇や港町では見られなかった急変だけど、魔物への対処が遅れていたら、こうなっていたって考えていいのかな」
シルエは身体をブルリと震わせ「っぷしっ」とくしゃみをした。髪が乾ききれていないせいで寒気をもよおしたのだと思ったサラドが背後に回ってシルエの頭をわしわしと丁寧に拭う。兄の懐かしい手つきの感触に子供扱いの恥ずかしさは置いておき、シルエは甘えることにした。
ボタボタと水が滴り、床を濡らすのも構わずにいるディネウがそんな二人を呆れた目で見ているが、シルエはその視線を丸々無視した。
ノアラは水が垂れるのを防ぐため頭に布を巻き、それに不釣り合いなきっちりとした服装。もう少し寛いだ衣類でも良さそうなものだが、シャツの釦も首元まで全て留めている。額が全開で整った顔立ちがはっきり見え、真面目くさった無表情さは可笑しみさえある。
頃合いを見計らうように三人の顔を順に見たノアラの紫色の目がすっと細められた。
「サラドが悪魔から聞いた話では、古代に緑色の鉱石からの抽出物を使って獣や精霊を魔物に堕とし、それらが暴れることで撒き散らされた毒で世界そのものの魔力を奪っていた、と」
「あー? そんなこと言っていた…か」
ディネウが「細かくは覚えてねぇ」と確認するようにサラドを見る。サラドは「うん」と頷いた。ノアラもこくりと頷き、話を続けようと口を開く。
「通常の大型の獣である魔物は性質は元の獣と変わらず、臆病な種も多い。魔物化は生活圏の地質や餌から摂取した魔力の影響だと思われていて、それは突然変異だったり。遺伝だったり。身体が大きくなる病気みたいなものだと。
餌も身体に見合った量を必要とするから、そういう意味では他との均衡を崩す存在ではあるが、必ずしも害獣ではない。天災や災害で飢える状況でなければ、里まで下りて家畜や人を襲う件数はそう多くない」
これまでの魔物に対する認識に齟齬がないか確認し合うようにノアラが説く。〝夜明けの日〟以降、魔物は急激に減り、もう何年も町の襲撃騒動などなかった。
「少し前の数件――サラドが遭遇したという小鬼や港町の海獣などは裂け目を通って来たものだと思われる。山林の町近くに出た蛇擬きはその後、死霊として蘇った。それは魔人の媒介になった人物が関係していたと」
「あの、サラドと一緒にいた特殊部隊のコだね。確かに身の内におかしな気を抱えていた」
シルエがトントンと頬を指し示す。ちょっと困ったようにサラドが微笑み、頷く。
思い返せば、アンデッドとして蘇った魔物を排するためにシルエが強行して神殿から出て来たことで、四人での再会が実現した。
「シルエが解呪と保護術を施してからはその人物を通すことができなくなり、魔人は自らの影を使い混乱を引き起こす行動に出た。獣をけしかけるのではなく、死霊術で不死者を呼び醒まして」
音に浄化を乗せようと試みて失敗したのを嘲笑うかのように利用されたことを思い出し、シルエが顔を歪める。
「ここ最近、街道などで出ていた魔物は例の土塊に直接触れたことで変化した獣だと推測している。土塊に緑色の鉱石からの抽出物が使われているのは間違いないだろう。僕の魔力を吸った核からできたのも緑色の結晶だから」
ノアラは小さな革に包んだ緑色の結晶を懐から出し、示す。撒かれた土塊の実物は回収できていないが、ノアラが触れた瞬間から魔力を吸い上げて魔物へと変じた後、核に残った物だ。もうひとつ、似たような包みにも緑色の小さな小さな結晶がある。こちらはサラドが土の精霊から貰い受けた緑色の砂粒で毒素が抜かれたものを核にして魔力を込め、結晶化させたのだと説明した。まだまだ砂粒を少し大きくした程度の大きさだが、繰り返し試してやっと成功したもの。再現できたということは同じもの、土塊に金色の抽出物を使うのに緑色の粒子が混入し、それが核となったのではというノアラの憶測を裏付けた。
「うぐぐ…、またそうやって、難易度の高いことを成功させてる」とシルエがノアラの才能に嫉妬し悶えた。サラドもディネウも「いつのまに、そんなことを」と驚きを隠せない。
「これ…動力源になるヤツでしょ…」とシルエが触ろうとした所で、「この結晶については今はいい」と言ってノアラは結晶をさっさと片付ける。
「そして、精霊や土地から一定の力を奪うと魔物を生むと予想もしている」
ノアラに視線を寄越され、サラドが頷いて同意を示す。
「瘴気の靄に現れた歪みはあの時の暗い空、その中心に出来た裂け目と似ている。規模をうんと大きくしたら…。
土塊で変じた魔物は獰猛で非常に攻撃的。居るだけでも地を穢す。王都付近の林は討伐が遅れて魔物の滞在も長かった。死後すぐに腐って毒を撒き、瘴気化するのも計算された変化だとすれば…。それは即ち全て歪みを呼ぶための布石」
「じゃあ、何? 各地の穢れが積もり積もってあの黒いでっかい歪みを招いたっていうの? やばっ」
「それだけが原因ではないが、大きな要因ではあると」
「だが、昔戦った魔人ってもっとこう…享楽的で…残虐で…本能のままっつうか、策略を巡らせてるって感じではなかったけどな。魔物を倒す俺らが邪魔だから排除するにしたって、それなら今の魔人と同じように、なるべく裏方にいる方を選ぶだろ。自ら姿を晒すのは得策じゃないと思うが」
「自我や理性が殆ど失われていたからか、それとも自暴自棄になっていたのか。…それを思えば今回の魔人はかなり意識が残っているんだろう。自分が何を望んでいるのか、何を為したいのか、どんな手段なら可能か」
「…何をしたいっていうの? 魔力無しと蔑んだ人々を傷付けて愉しむ? 恐怖で支配する? それとも」
「もちろん魔人の望みは魔人にしか語れないだろうけど…。もしかしたら…歪みによって世界渡りの道が開けば仲間の元へ行けると信じているのかも…」
「ちっさな可能性に賭けて同じ状況を作りだそうってか」
ディネウが苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「古代人も世界を滅ばす災厄の兆候を掴んで世界を渡ることを選択したんだよね? そんな強い魔術師だって対抗するより故郷を捨てる方を選ぶくらいの歪みと、計算された渡りじゃ全く別物でしょ」
「投獄されていた罪人はそれを知らない可能性もある。封印から解かれてみれば町は退廃していて、仲間が去ったと知れば…」
サラドが眉を寄せ目を伏せた。
古代の魔術師も移住できるくらいの渡りを成功させるには、普段は干渉どころか関係を持たずにいる魔術師同士も協力せざるを得なかったに違いない。
魔人にできるのはせいぜい魔物を迷わせる裂け目を開けること。おそらくは当てずっぽうに。それすらもかなりの魔力を要するに違いない。一度は死の旅路の途中に開いたこともあるが、魔物を引き込む意味では、死霊術が得意な魔人からしたら上手くいった例なのかもしれない。
とても目的の世界を探し出して繋ぎ、自身が安全に渡るだけの道を作れるとは思えない。サラドがニナと一緒に入った裂け目の内側も道としては不完全で閉ざされていた。魔人も術中の存在。
契約のための悪魔召喚だってあれだけの労力と準備が必要で、一方通行。相手が世界を越えられるだけの力があるからこそ可能になる。人が向こうに行こうとした所で魔力が足りずに押し潰されて終わりだろう。
「先程湧いた虫は自然発生に近いのではないかと」
腐敗する魔物を分解する虫が余剰な魔力を取り込むことで魔物へと変異する過程。それが今回は時間が異常に早まった状態だったのだろうとノアラは推測した。
もともと土塊で人為的に魔物化させられた影響も受け継いで、通常なら卵を産み付けられてから一~三日で孵化するところ数分で、成長もみるみるうちにした。
「それなら、片っ端から潰したのは悪かったかもな」
ディネウはポリポリと頭を掻いた。死骸や枯葉を食べ、分解する存在は土を豊かにする。種類など見ている余裕はなかったが、中には穢れを取り除くのに役立つものもいたかもしれない。
「でも、あの成長速度で蛆があっという間に羽化して手の平大の蝿になって一斉に飛び立ったら…と思うと仕方なくない? そうなったら王都も大狂乱になるよ。ま、僕には関係ないけど」
これまた想像するとぞわぞわするような光景にシルエは二の腕をさすった。
「昔は僕らが生まれる前から災害などが重なり地の力は徐々に弱っていっていた。魔物も人を襲うくらいまで増えるには何年もかかっていたはず。通常の繁殖だけではなく、さっきの虫のような条件の自然発生で。莫大な数になったのも倒すのに窮する強さになったのも後期の数年」
「…今回はその比じゃない早さってことか」
難しい顔をして呟いたディネウにノアラがこくりと頷く。ゴクリと唾を飲んで喉を鳴らしたのは誰だったか。暫く四人とも黙りこくった。
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