156 穢れを撒く瘴気
目の前で急速に腐敗し、ドロリと形をなくしていく魔物の遺骸をノアラが指差す。
サラドの浄化の炎と鎮魂の祈り、シルエの浄化をもってしても、グチュグチュに崩れていくのは避けられないらしい。毒化は防げているが、このまま放置したら発生しそうな程に匂いが酷い。
「うわ、何これ、気持ち悪ぅ」
「な、俺も驚いたんだ。これ見たらさっさと片付けねぇとって思うだろ? いや、でも、さっきはもっと早かったような…。個体差か?」
「それで辻の所では、すぐに埋めろと?」
ディネウが神妙に頷く。糧になるのに埋めるよう指示したのは王都の兵と揉めない為だとノアラは判じて黙って従ったが、違っていたことに気付く。
「えー、じゃあ、倒すのを先にして放置して来た所で、みんなこんなコトになってるの? どうすんの、これぇ」
「サラドが何体かまとめて戦えるように誘引していたから個々が林全体に散らばっていないのがまだ救いだな。放っておくとこのドロドロで埋め尽くされそうだ」
「埋めて処理したとして、地下水源が大丈夫なのか心配になるレベルの臭さだよね」
「ここは…、影響は少なそう」
ノアラが王都の水道の配置と水源の記憶を探るように眼球をゆっくり上下させ、こくりと頷く。
「もう、さ。いっそ林ごと全部燃やしちゃう?」
冗談でもなさそうな顔でシルエが囁く。ノアラは火の術はあまり得意ではないため、他の術に比べると制御が難しいのか、魔力に比例して大きな火力が発動しがちだった。
「こうなったらしょうがないじゃん? 野焼きみたいなものだと思って」
シルエに横目で見られ「やっちゃいなよ」と煽られたノアラは困ってディネウに視線を向ける。
「待て。サラドが戻って来てから…、ん?」
「今の気配はっ」
「っ!」
三人がほぼ同時に察知したのはただならぬ気配。歴戦の成果で、索敵の術に頼らずとも、殺気や強い邪気に敏い。十年前に苦しめられた、理が歪められる揺らぎを感じ取った。
「サラド!」
シルエがいち早く気配の在り処に駆け寄る。祈りを捧げていたのであろう片膝を着いた姿勢のサラドがそれと対峙していた。
そこにある遺骸は魔物にしては小柄で地味な見た目、それに反し魔術にも似た特殊攻撃をしてくる厄介な相手だった。
おそらくは精霊のなれの果て。
肉や内臓を持たない遺骸は腐るということはなく、炭と化した黒い塊がボロボロと崩れている。そこからゆらゆらと立ち昇る昏い靄――瘴気。
周囲を見渡してみれば、同時に倒した他の遺骸にも陽炎のような靄が纏わりついている。命を絶たれた魔物は怨嗟を漏らす間もなく瘴気となって穢れを撒いていた。
ゆるい風が元精霊の煤も巻き込んでいるのか、空中で特に濃い黒となった箇所は〝裂け目〟と同じく、狭間の歪みが生じている。
無理にこじ開けた裂け目と違い、靄によって繋がった狭間は、閉じようとする力の存在を察したかのように、拡散して曖昧になった。意思を持った蜂の群のように分かれ、また集まり、翻弄する。
小さな火もランタンから飛び出してサラドの膝の傍で身構えている。蜥蜴を象った火は頭をもたげ勇ましく足を踏ん張っているが、瘴気は精霊を弱らせてしまう。
「亡者の掟を壊り現るる者に告ぐ。我が名は――――うぐっ!」
干渉しようとする力の元を排除しようと、濃い瘴気がサラドに取り憑く。黒いモノに集られ前傾するサラドを支え、シルエは浄化の力で加勢しようと手を重ねたが、詠唱は既に潰された後だった。
「くそっ」
苛立ちをそのままに光の球にしてぶつけたが、炭となった塊が更にボソボソと崩れただけで瘴気が収まることはない。シルエは悔しそうに悪態をつく。
サラドの力が薄れたことで靄はより黒く濃くなり、奥に小鬼の影が見え隠れした。閉ざされた道の先を探るように頭を出し、こちら側を覗う小鬼。荒れ放題となった林でも向こう側からしたら豊かに見えるのか、人を獲物として捉えているのか、小鬼の口角がニヤァと引き上がった。
「ギィーオゥー、ギィー…ウギャ!」
ディネウの大剣が一閃し、仲間を呼び寄せる小鬼の声を断った。剣の腹で打たれ、小鬼の体は濃い靄の奥へと転がる。
「ギャ!」
集合の合図と悲鳴を聞きつけ、背後で様子を見ていたであろう仲間の足音が着実に近付いて来る。
シルエが支える逆側にノアラがスッと陣取りサラドの手の甲に指先を置いた。サラドと目が合うとこくりと頷く。
ノアラの力を借りて、今度は音を隠して詠唱を紡ぐ。こちらへニュッと伸ばされた小鬼の腕をディネウが切り落としたのと、術の完成はほぼ同時だった。
サラドの詠唱に合わせたシルエの力が細い細い光の糸で編まれた網となり、広がろうとする靄に覆い被さる。小鬼の悲鳴と共に狭間は光の糸に絡まりぎゅうっと閉じられ、白い炎が爆ぜた。
「間に合っ…た?」
ガクリと脱力したサラドを支える腕にシルエはグッと力を込めた。ノアラは指を放し、スッと立ち上がって、一歩退く。
四人とも狭間があった中空を睨んだまま目を逸らさない。
サラドは小さな火を手の平で掬い上げ、口元に近付けた。ふぅと息を吹きかけると、蜥蜴に背びれを足すように火が揺らめく。だが、勢いはすぐにしぼんで姿は蜥蜴のまま。
「ごめん…」
しゅんとして伏せた小さな火に指を差し出すと、慰めるようにぐいぐいと頭部を押し付けて来る。
「終わりじゃねぇぞ。気ィ抜いてる場合じゃねぇ」
複数の溶けゆく遺骸から発せられる瘴気は緩く渦巻いて一つ所に集まり出していた。これらが集中し濃い塊となれば歪みを生むのはもう自明の理だ。
「くっそ、アンデッド化は防げていたハズなのに、瘴気を生むなんて、僕の浄化じゃ不足だってコト?!」
シルエはギリギリと歯軋りした。杖の下端を蹴り上げ、グルンと勢い良く一回転させる。杖に嵌め込まれた石の軌道が描いた大きな二重の円に、淀みなく唱えられていく言葉と左手指が忙しなく動くことで主となる文様、それを補う文字、記号が書き加えられていく。
「待て! シルエ、突っ走るな。冷静になれ!」
ディネウが戒めるもシルエはもう止まれない。陣の中が次第に埋まり淡い緑の光が強くなると、目が霞む程に眩しくなった。
詠唱の間にも異変は続き、腐敗した遺骸の下からモゾモゾと蠢くモノがあった。蛆や土中にいる虫が普通ではあり得ないながらも、すぐさま脅威となる巨大さでもない、中途な大きさで這い出してくる。ディネウが剣先でブチブチと潰していくが、わらわらと湧き出し、きりがない。ブニュブニュとした幼虫はのんびりした動きに見えてその実はかなり素早く、取り逃がしそうになる。
「自然発生の…魔物?」
ノアラが何かに思い至ったらしく、首を僅かに傾げた。
「ノアラ、考え事してねぇで手伝え!」
ハッと我に返ったノアラが術を発動させようとしたところに、シルエがコツっと杖で地を突く音がした。三人は申し合わせたように腕で目を覆い保護する。瞼を固く閉じていても網膜を刺激する強烈な光が襲った。
陽の光を凝縮したような熱線は静かに降り注ぎ、遺骸も蠢く虫もジュッと蒸発していく。巻き込まれて熱に灼かれ干乾びて色を変える大地と幹の表皮や枝葉を枯らす木々。魔物の跡は骨と大地に残った染みのみとなった。
「どうだっ」
構えを解き、肩で息をするシルエはふんっと息巻く。
しかし、既に地に満ちた穢れの全ては祓いきれず、嫌な気は残ってしまっている。
「…ったく。やりすぎだって言ってんだろ。頼むから処理はノアラに任せてお前は浄化に力を注いでくれよ…」
眩しさに目をしぱしぱさせて、ディネウが愚痴をこぼす。シルエは鼻に皺を寄せ、ギリッと歯噛みした。
シルエの力は回復と支援、補助が本来。攻撃に関してはどうしたって魔術に分がある。アンデッドには有効でも、普通の獣、特に昼行性であれば労力に対し威力の程度はとても見合わない。魔力を温存することを考えれば避けるべき技だ。
「オレたちだけでは…。地の力が回復して自浄しない限り、まっさらにはならないんだ。シルエの力不足じゃないよ」
「くっそ」
「とにかく、反対側の林もあるし、他の箇所もとっとと片付けちまおうぜ。臭くてかなわん」
サラドはノアラの魔力を借りて再び小さな火に息を吹きかけた。今度は手袋を外して指先をちょっぴり傷付け、ぷくりと出た血も与える。小さな傷と出血とも言えない少量でもシルエとノアラは眉間に皺を寄せて異を唱えていた。
チロリと血を舐めた火はクルリと前転をして、力が漲ったことを伝える。「お願いしてもいい?」と遠慮がちに問うサラドに、ピョコッと火の玉を上げて応えた。
詠唱を紡ぎ、慎重に魔力を練り、火に更に白い炎を纏わせる。浄化の炎は火と似ていても精霊とはまた別の力。異質な力を受け、小さな火はブルリと震えた。
内炎は橙、外炎は白の尾羽根の長い小鳥の姿に变化し、颯爽と飛び立つ。常時の蜥蜴姿よりひと回りほど大きいだけの小鳥は小回りが利く。木々の合間を滑空しているが如く、羽ばたきもせずビュンと飛び過ぎる。
ピコピコと尾羽根を上下させニ種類の炎で瘴気を放つ遺骸だけを確実に燃やしていく。
その後を追うようにノアラが清めの水を霧状に広げ延焼を防いだ。
ノアラが土の術の応用で掘った穴にディネウが残った骨をぼとぼとと落とす。土に還れるようにともう一度サラドが短く祈り、その横でシルエも大地が癒え回復する事を願う。
戦闘よりも余程、後処置に時間を要した。