143 水脈への呼びかけ
「お久しぶりです。ショノアさま」
馬車より更に奥の木陰から声の主がゆっくりと歩み出す。手にしたランタンの灯りは小さな小さな火で、柔らかく灰色のフードを照らしている。片手でフードを外したサラドはショノアに軽く頭を下げた後、セアラやマルスェイにも目を馳せて目礼をした。
疲れのせいで仏頂面になっていたセアラがぱっと顔を輝かせる。ニナは振り返りもせず、鍋で煮立つ湯に穀物を煎ったものを無造作に入れた。香ばしい匂いが立つ。茶葉などよりずっと安価な穀物茶はセアラが田舎でも飲んでいたものと同種だが、これには薬効のあるものは混ぜられていない。
「サラド、その…。よく来てくれた。歓迎する」
戸惑いながらもショノアは右手を差し出して握手を交わした。
「すみません。オレが皆と関わるのは良くないとわかっているのですが…、お願いしたいことがあって」
「なぜ私たちと関係があってはいけないの?」
「願いとは…我々で協力できることか?」
セアラの悲痛な声とショノアの返答が被さる。眉尻を下げて申し訳なさそうにサラドが笑った。
「…宮廷からすれば、オレはお尋ね者ですから。なるべくご迷惑はかけたくないのですが…」
「サラド殿は王家さえも敵に回せるような――もがっ」
マルスェイが全てを言い切らないうちにセアラが「マルスェイ様は黙ってて!」とキッと睨むのと、ショノアがその口を塞いだのはほぼ同時だった。
「それで、どうしてここへ?」
「あの、廃村と耕作放棄地で祈祷をして巡っていると聞き及びまして。もう、次の目的地に出発するところでしょうか?」
サラドの目配せを受けてセアラがこくこくと頷く。今日の光のこと、夢のことを話したそうにうずうずしているのが見て取れる。
「祈祷は全箇所で終えたところだ。まだこの先は未定だ」
「でしたら、もう一周してもらうことは可能ですか? 食料とか余裕がなければ無理にとは言いません」
「物資は多めに準備したので多少なら余裕がある。もう一周とは祈祷を繰り返した方がいいということか?」
「いいえ。井戸の試掘をしているのは見ました? それの手助けをお願いしたいのです」
「井戸か。確かに重要だな。元の古井戸はほぼ使い物にならないか、涸れているようだったし」
ニナが穀物茶を濾しながらカップに注ぎ、会食から帰った三人に配った。煮出しが長かったようで色も悪く、渋も出てしまっている。それでも酔い醒ましには丁度良い、とショノアは思って飲み干した。
「オレが目ぼしい所に印を置きます。その中で良さ気な所を、セアラとマルスェイさまのお二人で当てて欲しいんです」
サラドが印の見本として手にしているのは何の変哲もない小石。河原で拾える丸くやや平べったい形。この辺の地面にあっても特に目立つこともない。表面に透明な塗料が塗られているようで、火を受けてチカッと照り返した。
「私?」
「私もですか?」
セアラは小首を傾げ、マルスェイが素頓狂な声を上げた。サラドがゆっくり首肯する。
「祈りに返答をもらえたセアラと、水と親和性のあるマルスェイさま、二人が適任です」
セアラは神妙にこくんと頷き、マルスェイは己の鼻を指し示していた指をのろりと下ろした。
「…具体的にはどうしたら?」
「時間もあまりありませんし、実際にやりながら説明します」
陽はとっくに沈み、辺りはもう暗い。
「疲労や倦怠感はない?」
じっと見つめてくるサラドの橙色の目とセアラの緑色の目がバチリと合う。心配してくれるその目が自分だけを捉えていることで、セアラの心が急に熱をもった。疲れていないと言えば嘘になる。些細な嘘も見抜かれそうで、「大丈夫です」という返事は小さくなった。
「…うん、魔力不足にはなっていないみたいだね」
あまりにじっと見つめるのでドキドキしだしたけれど、それが診察的な意味合いであったことを知り、セアラは恥ずかしさにパッと両手で顔を覆った。その反応にセアラが嫌がったのだと勘違いしたサラドもそっと目を逸らして「不躾で、ごめんね」と謝る。
「その、かなり力をつけたね。セアラは真面目で、日々の積み重ねを怠らないから、もっと強く、優しくなれるよ」
辺りが暗いせいで顔色や表情はすぐ近くでないと認識できないことが救いとなった。セアラは赤くなっていると自覚できるほど熱い顔を隠したまま、こくこくと頷いた。
頬を押え、気を取り直すためにセアラは口中で簡易な祈りの言葉を唱えた。スッと心が凪いでいく。
以前教わった『邪なるものの気配を察知』するのと同じ様に力を放ってみるように言われ、セアラは迷うことなく膝を折ろうとした。そこを優しく肩を叩かれ、押し止められる。
「立ったままで大丈夫だよ」
しとしとと降り続いていた雨はいつの間にか止んでいたが、地面はぬかるんでいる。
そう言われたものの、上手く感覚を掴めずに、結局、膝を抱えるようにしてしゃがみ込んだ。衣類の裾が泥に浸からないように気をつけながら、片手の平をピタと地に着ける。
力の奔流に意識を集中して周囲に広げていく。薄く、薄く、遠くまで。
目が届く範囲内の三箇所とサラドの手にある小石がぼやっと光った。
早速、「今のは何?」とマルスェイが口を開きかけるが、セアラは唇に指を立て「しっ」と制した。
「皆を待っている間に探して目印を置いたんだ。そこで…、っと、その前に。みんな、なるべくオレの近くにいてくれる?」
サラドに手招きされ、ショノアとマルスェイが一、二歩間を詰めた。ニナも嫌そうにしつつも近付く。
頬を微風が撫でる。虫が顔近くを飛んだのかというような不快感が一瞬耳を襲った。
「見回りの兵士に不審がられないようにするから、なるべく風が感じられる中にいて」
「井戸水の探知ができるのも驚きだが…それは…一体どの様な手段で…?」
ショノアの疑問にサラドはにこっと笑んだ。
「すみません。オレも手の内を全ては明かせません」
「あ、こちらこそ、すまない。安易に聞いたりなどして」
マルスェイは目を爛々と輝かせてキョロキョロしているが、術らしき手がかりは見られない。
もし、サラドと仲間のままでいられたら、その技術の恩恵に与ったり、様々な知恵を授かれていたのだろうかと思うと、ショノアは残念で仕方がなかった。
「この目印を置いた所で魔力を流して、反応をみてください」
「魔力を流す? 術式や詠唱は?」
「要りません」
今まで蓄えた魔術に対する知識を総動員しても理解不能な言葉にマルスェイがオロオロしているのを余所に、セアラは索敵をかけた時と同じ様に屈んで手の平を着く。
「『広く』から『深く』に変えてみて」
ぎゅっと目を伏せ「深く」と繰り返し呟く。眉根に寄った皺が次第に険しくなる。思うようにできなくて、無意識にも首を傾げたところ「セアラ」と優しく名を呼ばれた。少し嗄れていて落ち着きのある声が、体の余計な力を解してくれる。
「難しく考えないで。危機察知や防衛ではなく、扉をノックしたり、友達に『おーい』って呼びかけるような感じで」
地表に着けた手を見つめていた目を上げると、サラドは膝に手を当てて姿勢を低くして見守ってくれている。少し垂れ目の、よく知った朗らかな笑顔。セアラはふぅと息を吐き出し、穏やかな気持ちを心がけて再び挑戦した。その横でマルスェイは混乱するばかり。
「えっ、えっ…、ノック? おーい? 一体何の話を…。あのっ、もう少し詳しく」
「精霊への感謝を、と伝えた時の感覚は覚えていらっしゃいますか? 体内を巡る魔力、それを地に流すんです。詠唱せずに魔力を感じるのが難しいようであれば、発動前を保って、流れを足元へ変えてみるとコツが掴み易いかもしれません」
「えっ? 発動させずに保つ???」
マルスェイはいよいよ思考停止に追い込まれそうになった。
「…そうですね。では、一緒にやってみましょう。手をお借りします。清めの術を唱えてみてください」
マルスェイは言われるがまま詠唱を始めた。サラドの手からはまだ何も感じない。
「良い調子です。もう少し…。流します」
体内を巡る感覚がサラドの掛け声によって足元へと一直線に流れを変えた。地中にと向かった魔力はほんの少し雨の匂いを強め、方方へ散ってしまった。脳内にびちゃっと水が撒かれた図が浮かび、マルスェイは失敗したのだと覚った。
「周囲の雨水に引っ張られちゃいましたね。今の流れを地中へと持って行くんです」
サラドの手が放され、マルスェイ一人で再挑戦するも良くてただ清めの術が発動するか、流れを制御できず魔力が霧散するか。
「降った雨は地中にしみていきます。それと同じ。奥へ、奥へ、深く。それをイメージして」
諭すようなサラドの声は静かで苛立ちなど微塵もないが、失敗すればするほど初期の段階で不発となりマルスェイの焦りは募る。
「うーん、杖を使ってみるのもいいかもしれません」
そう助言されてマルスェイは弾かれたように馬車に向けて駆け出した。先端に良く磨かれた大きな玉の付いた杖を携えて急ぎ戻って来る。杖は魔力の発動を助け、的を絞り易くする重要な道具兼武器。術の逆流や暴発を防ぐためにも余程の熟練者でなければ手放せない。
「そのまま、清めの術を」
握り手にサラドが手を添え、玉を下向きにして地スレスレに構えるように導く。
「深く、深く。この声が届いたのなら、どうか応えを」
詠唱を紡ぐマルスェイの横でサラドは親しい知人に語りかけるような声音で呟いた。術が結ばれ、玉の下、水色の魔術陣の円がそのまま小さな水溜まりとなった。雨に濡れた大地はもう充分な水を含んでいるが、その水は中心から吸い込まれるようにすぅっと深く染み込んでいく。
杖を起こそうとすると、添えられていただけのサラドの手にグッと力が入った。横を見ると首を小さく振られる。腕の力を抜きそのまま玉を下に向けていると抵抗はすぐに解かれ、サラドの手が引く。
杖から手、腕、体の中心へと微振動が伝わる。地の奥へ、奥へと水が進むイメージがマルスェイの脳裏に浮かぶ。地の底に流れる水脈へとマルスェイの魔力を含んだ水が到達すると、喉が潤う爽快感がした。
「…今のは…」
「応えは受け取れました?」
「喉が…、水を飲んだ時のような…」
マルスェイは喉元に手を当て、目を彷徨わせた。
「きっとその感覚です。なるほど。マルスェイさまにはそう感じられたのですね」
「こんな…反応が…」
「術を発動せずとも魔力のみ届けることで行えます。すぐにコツを掴めると思います。そうした方が魔力を浪費せずに済みますので」
マルスェイは今度こそ起こした杖の玉を何とはなしに撫でさすった。そこから感じ取れるものはもうなかったけれど。