141 祝福
ニナは早朝に採って来た森の恵みを飼葉桶にたっぷり入れ、水桶も満たした。灰色の斑模様の馬に「のんびりしていてくれ」と言い聞かす。繋いで行くのは気が引けたが、多少距離があっても気配を消して素早く移動するには馬と一緒よりも単独が望ましい。セアラが祈祷をしている間に目的の場所を探し出すために森の中を走る。
外壁のための溝掘りと岩積みをしている辺りが一番脱走した者が多いと聞く。そこから森の奥、北へと向かうと人の気配を見つけた。
枯れた蔦が絡み合う場所からひょっこりと顔を出した男が周囲を警戒している。一度引っ込み、そろそろと出て来て、頭を下げ、歩き出した。それを追って行くと、馬に乗った男と合流し、相乗りで去って行った。ニナはそちらを追うことは止めて、再び蔦の方へと向く。
と、その時、グイッと首根っこを掴まれ持ち上げられた。足がぷらりと浮く。
(何だ? 気配が全くしなかった…)
無抵抗に見せつつ反撃の機会を窺う。ただならぬ威圧感にギュッと縮こまった心臓がバクバクと跳ね、耳鳴りが煩い。絶体絶命を覚悟した。
「ん? 何だ、お前、あのちっこいヤツか」
聞き覚えのある低い声がし、ニナはポイッと投げ落とされた。尻もちをついたニナは反射的に首を守りながら後退り、背後を取った男と対面する。黒い毛皮を肩にかけた黒髪の厳つい男、ディネウはつまらなそうにニナを放ったまま、どかどかと蔦まみれの岩に近付いて行く。
「やあ、ニナ、その後はどう? 闇の精霊とは友達になれた?」
またもや気配もなく背後から聞こえた声に、威圧から解放されて気が抜けていたニナは「ひっ」と小さく悲鳴を漏らした。
「‥‥」
情けない声を出させられたニナは恨みがましくサラドを見上げた。差し出された手を無視してすっくと立ち上がる。サラドはただ橙色の目を穏やかに細めた。
急でも何でもなく、二人がニナの能力を超えているため察知できなかった。同時に挟まれていたのだが、サラドが声を出すよりも早く、獣のような反応でディネウの手が出たのだろう。
「おいで。ニナも少し休んで行くといいよ」
フードの金具を外し、顔を晒したサラドはニナを手招きした。
蔦で隠された洞窟にディネウが荷を運び込む。岩棚に中央部が膨らんだ形の瓶が置かれている。栓付きで把手を倒すだけで中身が注げるようになっている給水器だ。
ディネウは上蓋を開けて中の水位を確認すると、洞窟内にいた男性を呼び寄せ、残りの水を全てカップに注がせた。そのひとつをニナに渡し、男性は残りのカップを持って洞窟の奥へと進んで行った。
見た目は無色透明のただの水。スカーフを持ち上げてちびりと口を付けると、果物の香りが爽やかでほのかな甘みもある。
ディネウは荷物から小さな瓶を出し、希釈液を空にした給水器に流し込む。足元にある持ち手付きの水瓶をひょいと持ち上げてザバザバと注いだ。なみなみと水をたたえた水瓶はかなりの重量があるはずだが、まるでそれを感じさせない。
「美味しいでしょ? 弟の特製なんだ。薬ではないけど、ちょっと元気になっただろう?」
サラドはにこにこ顔で得意気に特製だという水の自慢をした。味はただの果実水だが、飲み干す頃には疲労感が和らいでいる。
「ここは?」
ニナは洞窟内を見回した。奥で休んでいる怪我人が数名、その他にもまだ何人かが優に暮らせる広さ。灯りも設置され、各種道具類も揃っている。
「一時的な避難場所、かな。自ら逃げて来た者を保護する目的の。で、彼はここの管理人さん」
先程カップを出した男性がニナに優雅な礼をした。空いたカップをニナから受け取り洗い場へと下げる。
サラドが逃げて来た人を匿うように頼んでいた男性は貴族の侍従をしていたこともあり、人を記憶することに長けていた。逃げて来た人の特徴や聞き取った内容ばかりでなく、集団にどんな人がいたかも聞いて頭に入れている。そのため優先順位を付けて効率的に人の移動ができているし、新たに逃げて来た人が誰かを探している場合にも把握した情報が役に立っていた。人の移動は傭兵たちが担っている。
最初に共にいた、弟を探したい少年は港町で漁師の手伝いの仕事を得た。水揚げされた魚貝の処理の生臭さに慣れるまでは苦心したようだが、早く船に乗せてもらえるようになるのだと、日々仕事に励んでいる。弟はあの時救出されてシルエの治癒を受けていた。ただ長く患っていたことからまだ施療院で療養中である。退院できれば二人で力を合わせて暮らしていくだろう。
恋人に会いたい青年も無事に再会できた。恋人は仕事で王都内にいたため魔物襲来の難を逃れたが住居を無くしてしまった。親切な仕事仲間の元に身を寄せたものの、貧民街の惨状から青年の生死を絶望視し泣き暮らしていた。
再会の場はそれが感涙に変わった。居合わせた者が思わず貰い泣きをするほど感動的だったという。案内をした傭兵の伝手で別の町に仕事と、王都よりも格段に家賃の安い部屋を得た彼に、彼女はもう二度と離れたくないと、王都の仕事をすっぱり辞めて着いて行った。
いくつかの物資を運び入れ終わったディネウが「先に行ってるぞ」とサラドに声をかけて出て行く。
「一応ね、ここがどんな状況なのか伝えてもらえるようには手配もしたんだ。でも、地位ある者だとその分、王宮との軋轢も避けなければならないからね。王都も今大変みたいだし、人員を割いてくれることを願うしかなくて…。直接手引きをする訳にはいかないから、今は自分から逃げて来てくれるのを待つほかなくて、申し訳ないんだけど」
「気にかけておく、なんて言っておきながら不甲斐なくて、ごめんな」とサラドが謝った。
「なんであんたが謝っているんだ?」
「母君も弟君もまだ苦しんでいるだろう」
「どうしようもなくならない限り、身内がいる者はあそこで生きていく決心をしている者も多いだろう。仕方ないさ」
ニナが命令に従わなければ脅すための材料として監視されていた母と弟。何年にもわたって何処でどんな暮らしをしているのかも教えてもらえなかった。幸せであるに越したことはないが、少なくとも生きていて、居場所がわかっている。
「あの様を見たからにはきっと、ショノアなら上手く角がたたないように報告してくれるだろう。進言も複数あれば見直しをしてくれるって期待している」
「まさか、それを伝えろというのか」
「そういう訳じゃないよ」とサラドが眉を下げ「でも、頼めるなら…」と続ける。
「井戸掘りもしているみたいなんだけど、掘り当てられずにいるみたいで。めぼしい場所に印を置いておくからセアラとマルスェイに良さげな所を見てもらって、指示を出している兵士に伝えてもらえないかなって」
「それは直接あんたが伝えてくれ。わたしが言ったところで信じてもらえるかどうか。それに、あんたと繋がりがあると、いつでも接触できると誤解される」
「あ…ああ…、そうだね。オレと関係があるのは宮廷人としては良くないものな。ごめん。ニナが信用をなくすのは本意じゃない」
「…、今アイツらは個人的な研鑽の旅という名目だ。覆面視察なのだから、誰と会っていたって、それが怪しい人物だって、王宮は文句などないはずだ。だから…」
「ニナは優しいな」
「はあ? どこにそんな要素があった?」
サラドとニナが会話している内に中年の男性が肩を貸して少年を連れて帰って来た。
「お帰りなさい」と出迎えた管理人が先程の果実水を二人に振る舞う。中年の男性は食べられるものの採取ついでに、新たに逃げて来た人がいれば保護する係を買って出ていた。
少年は果実水のおかわりをしている。道すがら中年の男性から話は聞いたようだがまだ緊張している様子は崩れない。
「…わたしはもう行く。そろそろ祈祷が終わる頃だ」
「わかった。雨が降り出しそうだね。ニナも間に合ったらセアラの祈りを見てあげて」
「あんたはいつもここにいるのか?」
「うん? 今日はたまたま荷を持って来ただけ。だからニナに会えて良かったよ。…また後で」
「了解」
ニナは振り返りもせず駆け戻った。
◇ ◆ ◇
本部の立派な天幕の前広場でセアラが祈祷を始める。
興味本位で見物する兵士は今までもいた。今回は高官に騎士、使用人らがそれに加わっている。それでも、長い長い祈りの途中から人は次第に離脱していく。それもいつものこと。
兵士の手が足りていないのか、捕縛された二人の男は放置されていた。もう口をきく体力も残されておらず、おとなしく護送の馬車を待つ身。滔々と紡がれる祈りの言葉に惹かれたのか、ぐったりと項垂れていた顔がいつの間にかもたげられている。
数日前から続く曇天からとうとう冷たい小雨が降り出した。セアラは雨にも気付いていないかのように一心に祈り続けている。体感から祈祷はもう暫く続くはず。ショノアはセアラの体に障るだろうと心配し、せめて雨脚が強くならないことを雲に願った。
雨もあって高官や騎士、使用人は天幕の中に入り、そこからぼんやりと耳を傾け、時々変化のない様子を覗いている。
セアラの意識の片隅に夢で聞いたサラドの言葉が甦る。祈りに集中するべきなのに、この祈りがサラドにも届けば良いのに、などと考えてしまう。
(祈りはあまねく全ての幸福を願うもの。でも、たったひとりを想って祈ってもいいのか、『その答えを見つけなさい』と真白く静謐な空間で告げられたわ。啓示、だと導師様は仰っていた。私はサラドさんを信じる気持ちを込めよう。どうか、この祈りが届きますように)
全身がしっとり濡れそぼった頃、最後の一節に掛かったセアラは夢のサラドの言葉通りに目を開け、僅かに視線も上げた。ふわっと視界を掠めた光が鼻先に止まる。髪から滴った雫に反射した光かと思ったが、そうではなかった。霧雨に靄がかった中で幾つもの小さな小さな光がセアラを取り巻いている。
驚きにセアラの声が一瞬裏返った。光は一語毎に増し、くるくるふわふわと輪踊りをするかのよう。白っぽい光が多いが様々な色を帯びた光もある。雨の粒子に乱反射しセアラの周囲全体が淡く光り輝いて見えた。
ショノアもマルスェイも、それを目にした他の誰も彼もその美しさと驚嘆に声も上げられずに見入った。
祈りの結びとともに光も収束し、しとしとと降る雨の中、辺りはしんと静まり返った。
(何? 何が起きたの? 夢では私の祈りを受け取った相手が姿を見せてくれると…本当に? やはり、あの声は夢なんかじゃなくて…)
セアラの頭は混乱していた。当の本人が自身に起こった現象についていけない。祈りの姿勢のまま硬直している姿は、少しも気を乱すことがない高潔さとして周囲の目には映った。
「…祝福だ」
一部始終を見ていた捕縛された男の内の一人がぼそっと嗄れた声で呟いた。それを皮切りに見物していた者がザワザワとざわめく。
「これぞ奇蹟の光…」
「この地に祝福が与えられた! 必ずや集落は再興し、栄えるだろう」
興奮にのぼせた声が飛び交う。ショノアの手を借りて立ち上がったセアラはそのあまりの熱狂にただ恐縮するばかり。その間、差し出されたショノアの手の平に彼女の手がそっと乗せられたままだったことにも気付かないくらいには困惑していた。その姿は、さり気なく守る騎士と謙虚で純真な聖女として、とても絵になっていたことも。