14 ニナと傷
旅が続くとすれば保存食などを仕入れておきたい。
船乗りたちが多く行き来する町は保存に適した食材が豊富だ。色街を出て下町の市場や商店を回っている時、急にゾワリとした寒気に肌が粟立った。
(…来る!)
よりによってディネウと別れた後で、とサラドは心中で舌打ちした。気配に向かい海へ走る。桟橋を過ぎ、護岸の端にそれはあった。
波間の中に黒い裂け目。
揺れる海面に反射する光に隠され目を凝らさなければ見失いそうだが、小さな真っ黒の目をこじ開けるように大きな青緑色の甲殻類の脚がギチギチと蠢いている。ぎりぎり弓が届くかどうかの距離がある。
「ニナ?!」
護岸の岩間に枝を削って作った銛を手にしたニナの姿があった。その先端には鮮やかな青と黄色の色彩を持つ海月が突かれている。貴婦人のリボンのような長い青色の美しい触手には強烈な痺れを、花のような模様がある本体には致死毒がある。
サラドに気付き反射的に身構えたニナをむんずと捕まえ岸に上げ自分の後方に投げ出した。その時、顔を覆うスカーフがふわりと捲くれ、口元から左頬にかけて大きな傷痕が見えた。
「なにす――」
地面に転がったニナはすぐにそれの気配に気付いた。ゾワゾワと体を這い回し、生気を奪うどす黒いもの。手をかざし、ぺたりと臀をついたままじりじりと後退る。
「来るな…消えろ…消えろ!」
サラドは急いで弓の一端を足で支え弦を張った。張ったばかりの弦では力が弱い。鏃の先で腕をチクリと刺し、赤い血がぷくりと盛り上がるのを確認する。痛みが頭を冴えさせる。矢羽根を撫で付け、風の向きに注視しつつも目は裂け目から逸らさない。青緑色の爪のような脚は裂け目を引っ掻くばかりでまだ出てこられずにいる。
その間に言の葉に力を込めて詠唱を紡ぐ。
「亡者の掟を壊り現るる者に告ぐ。我が名はサラド。常世現世の狭間の門を護りし者の盟友なり。水に穢れを撒くこと、許されざり。浄化の炎を以て在るべき場所へ還れ」
指で弦を弾いて張りを確認し、矢をつがえ、ググッと頬まで引く。詠唱が結ばれると鏃が白い炎を纏った。
(届くか?)
「風よ!」声とともに放たれた矢は追い風にのって海の中に吸い込まれた。炎は海水に呑み込まれたかに見えたが、渦巻くような蒸気が空に昇り、その中心で黒い裂け目は閉じ、継ぎ目も消え失せた。
海面は何事もなく揺れている。キラキラと眩しく美しい。
「ふう、ギリギリ…何とかなった…かな」
「消え…」
ずっと「消えろ」と連呼していたニナは体を這う気配が消えたことでやっと我に返った。
「乱暴にしてごめんな。大丈夫か」
「言うなよ!」
「え? ああ、うん…?」
差し出されたサラドの手をパシリと払い、ニナはぎゅっとスカーフを押さえ、走り出した。すぐに林の中へ身を隠し見えなくなる。
(毒を集めていたんだよな…。それにあの傷は…)
サラドはニナの去った方向を見て溜息を吐くと、弓をしまい買い物に戻った。
宿屋に戻ったサラドを迎えたのは何やらムッとした顔をして不快を隠そうともしないショノアだった。
「えっと、何かあった?」
「サラは傭兵なのか」
「いや、正式に傭兵と名乗ったことはない。たまに手伝うことはあるけれど」
「サラの友だという傭兵は信用に足るのか?」
「ちょっと口は悪いけどとても頼りになるよ」
「傭兵など、金でどんなあくどい仕事もする輩の集まりだろう。あんな礼節の欠片もない蛮人のような男が剣匠だなんて信じられん」
ああ、とサラドは胸の内で嘆きを漏らした。傭兵への偏見。創り上げられた剣匠のイメージでしかディネウを見ない者がここにもいる。そして勝手に違うと怒り、批難する。
そもそも『剣匠』という二つ名も彼は望んでいない。
旅の途中で腕の良い鍛冶師と知り合い、大剣を鍛え直して貰ったことがある。素晴らしい腕前で、愛着のある見た目はそのまま残し見違えるような強靱な剣に生まれ変わらせた。その際に母の形見の槍を短剣に仕立て直し「この重さならお前にも扱えるだろ。良い武器は己を守るって親父も言っていた」とサラドに貸し与えてくれたのだ。あげるといえばサラドが遠慮するのを見越して「貸す」という言い回しをして。
その話がどこかで漏れ『剣匠』という名を創られてしまった。その逸話を歌う吟遊詩人の詩はあまり流行らなかったが、その名だけ広まってしまった。
ディネウは「俺の技術じゃないのに俺の手柄みたく言われて鍛冶師に悪い」と言っているくらいなのに、言葉に関しては不器用でただその名が気に食わない、鍛冶屋を見下していると捉えられている。
「ショノアさまが知る『剣匠』はわたくしの友とは無関係のようです。わたくしは貴方が蛮人と仰る男の幼馴染みです。然るにわたくしも蛮人でしょうね」
「あの男は剣匠とは別人だと?」
わざと丁寧な物言いに変えたサラドにショノアは眉を顰めた。
「……噂を鵜呑みにするのは賢いとは言えません。その信憑性は? ご自身の目で確認は? 噂で有名な剣匠はわたくしの友ではありませんが」
サラドは慇懃に礼をし、その場を辞した。
いつもの朗らかさを消し、平坦な声ときれいな作り笑いをする冷めた目にショノアは愕然とした。
剣技に優れた『剣匠』は〝夜明けの日〟前後、魔物との戦いで大活躍したという。
従騎士時代の指導役はその技の素晴らしさと強さを熱く語っていた。その分、味方にならないことへの不安と不満も。
魔物の脅威が人の住まう地域から遠ざかると、その腕を見込まれて騎士団の指南役にと望まれたが彼は首を縦に振らなかったという。国境付近に領地を与えるという話にも結果は同じ。彼は権力も金も欲しがらなかったためその力を擁したい者は苦慮したそうだ。
強い力を持つならそれを国のために使うのが当然のはずだ。そう教わってきたし、貴族としての責務でもある。それに見合った振る舞いをすることも。
ショノアは首を捻った。
サラドは溜息を吐いた。大人気ないとは思いながらも大切な友を貶されて平気でいられるほど広量ではない。
それに今『噂』を追い調べる立場にあって慎重な態度を心がけて欲しいと切に願う。
精査せず信じてしまうのは危険なことだ、と。
いつものようにニナの食事を取り分けているサラドの様子がどこかしらおかしく、セアラはまごついた。何に違和感があるのかと考え、笑顔が全くないのだと気付いた。店員とのやり取りは普通だったのを思うとショノアとの間で何かあったのだろうと想像がつく。ショノアも酒場からの帰りほどではないが、険がある。
盆を持ってサラドが席を立つとつい目で追ってしまった。
食卓に残されたショノアとセアラはもそもそと夕食を口に運んだ。
再び席に着いたサラドも無言のまま食事を終える。いつもなら何かしら楽しく話をしてくれるのに。
「セアラはあの傭兵をどう思った?」
ショノアがセアラに問うた。あれが立場ある者の態度として相応しくないという感覚が間違っていないと同意を得たい気持ちが彼にはあった。剣匠といえば多くの女性の憧れだとも聞く。実態を見れば百年の恋も冷めるだろう。
ショノアの質問が剣匠と呼んでいた人に対してだとセアラははすぐに気付いたが、答えに窮してサラドをチラッと見上げた。
「あの、私は本当に田舎者の世間知らずで、剣匠という方についても知らなくて」
二人の反応を覗い、コクリと唾を飲んで続ける。
「大きくて、威厳があって…、ちょっと怖くて…お顔は拝見できなくて、この辺しか見ていないのですが、」
セアラは円を描くように指で上半身をくるくる指す。
「熊さんみたいだなって」
「ぷっ。熊…か。毛皮が目立つもんな。ははっ」
サラドが吹き出し楽しそうに左の八重歯を見せて笑った。その笑顔を見てセアラはほっとした。いつもの穏やかな雰囲気が少し戻っている。それでもそれはその一瞬だけで、すぐに各々の部屋で休むことになった。
ニナの部屋の前に出された空の食器を持ち上げた時、扉が指二本分くらい開いた。部屋の中から濃い茶色の鋭い目がサラドを射殺さんとばかりに睨む。
「…どういうつもりだ?」
「何が?」
ニナが部屋にサラドを引き入れ、扉を閉じた。ヌラヌラと黒光りする、まるで大きな針のような短剣も構えている。潜めながらも威嚇する声音。
「これ、だ! わたしを懐柔しようとでも?!」
ニナは手の上の小さな浅い器をギュッと握り、拳を振り上げた。食事と一緒にサラドが盆に載せておいたものだ。
「そんなつもりはないよ。誰だって痛いのはイヤだろう?」
サラドはそっと自分の頬を指してみせる。床に投げつけようとした動きをニナはピタリと止めた。
「やっぱり見たんだな!」
ニナが「言うな」と念を押したのはこっちのことか、いや、もうひとつの懸念は気付かれていないと思っているのかもとサラドは考えた。
「弟ならその能力でもっと良い薬を作れるんだけど、オレにはそれが精一杯で。痛みは和らぐはずだよ。根気よく毎日塗っていれば痕も少しは薄くなる。使うも使わないも好きにしてくれていいから」
サラドは盆を片手で支え、ニナに指先を伸ばし「これはおまけ」と呟いた。近付く指を避けニナはぐっと身を引こうとしたが光の粒が頬に触れ温かさを感じて瞠目する。常に口が引きつり、食事や大きく発声しようとする度に裂け、動かさないようにしていれば治まるを繰り返していたジクジクした痛みがにわかに遠ざかった。
「…前から気付いていたのか? それでいつも軟やかい食べ物ばかり」
「話す時にア音が発音し辛そうだったから、何かしら怪我はあるのかと思っていたけど、そこまでとは思っていなかったというか…」
ニナがギリリと歯を食い縛り眉間に皺を寄せた。
「言うなよ」
「安心して。ニナが言おうとしないことは誰にも何も言うつもりはないよ。オレは臨時のメンバーだし。警戒しないで」
「そんな言葉、信じられるか」
そう言ってニナはサラドを突き飛ばすように部屋から追い出した。