139 セアラの羨望と…
茂みを分け入る物音と光源を極力抑えた小さな灯り。つい数刻前の事だがショノアの記憶は朧気だった。
(逃げ出した者がいるということか? あの暗がりの中どこへ…)
ある程度の距離をとった所で夜を明かし、陽が昇ってから本格的に移動するにしても危険は伴う。手引きしている者がいるのなら別だが、土地勘のない暗闇の中、決死の覚悟だろう。兵士たちの話から察するに何人もの者が去ったということ。それだけ、環境が悪いという証だ。
横一列に並べられた避難民が各々に割り振られた番号を順に声出しする様をショノアは少し離れた場所から見守った。見習い及び従騎士時代に集団訓練でショノアも経験している号令だけれど、住民に対して行うのは違和感を拭えない。
(まるで囚人を管理しているみたいじゃないか)
部外者であるショノアの目を気にしてか体罰などはなかったが、姿を消した番号と同じテントで就寝していた者が『知っていることを言え』と責め立てられている。
(のんびりしていられない。是正を上申しなくては。そのためにも正しい情報が欲しい)
斑模様の灰色の馬の歩みはポクポクとのんびり気まま。めぼしい草があれば足を止めて食んでいる。体格の良い馬なのでゆっくりでも一歩は大きいため、手綱を持つ小柄なニナはやや早足になっている。その横をセアラはちょこちょこと小走りになったり歩いたりしながら着いて来ていた。
「ねぇ、ニナ、変な事を聞くようだけど…。夜中にサラドさんが訪ねて来たり…していないわよね」
「まさか、ね」と独言し、照れるセアラを迷惑そうにチラッと見遣る。ニナの茶色の目は暗く淀み「着いてくるな」と如実に語っている。セアラはニナに邪険にされるのはもう慣れっこだった。養護院で小さな子供たちの面倒を見てきたセアラにとって、素直に甘えられない態度と大差がなく、へこたれることはない。施設に来たばかりの子はすぐには打ち解けられず、大抵は反抗したり萎縮したりして殻に閉じこもりがち。無視されてもこちらを気にしているのがわかればどうってことなく、気落ちもしない。
返事はないが視線をくれたことでセアラは独白を続けた。
「あのね…、おかしいと思うかもしれないけど…。夢…夢なのかしら? サラドさん…の声が励ましてくれたの」
連日の祈祷をこなすセアラだが、順風満帆とは言えない。セアラの祈りに特別な力などないことは彼女自身が誰よりも知っている。避難民の表情は暗いし、奉仕活動をする彼女らを兵士たちは迎合していない。ショノアが押し切ってくれなければ、端の方でコソコソ祈ることしかできなかっただろう。教えを説いた後、表情を緩める者や祈りの姿勢をとってくれる者も少数いるため、やりがいは感じているが常に不安が胸を占めていた。
眠る際にはついつい自問自答を繰り返してしまい、このところ寝も浅くなっている。昨夜もうつらうつらするばかりでぐっすり眠れぬ寝苦しさにもぞりと体を起こした。寝返りを打てるほどの広さはないので、膝を曲げて横向きに体勢を変えてからまた寝そべる。ただでさえ就寝時間の短いニナの邪魔をしないように、なるべく静かにと細心の注意をした。それでも座面はギシリと軋み、上掛けの毛布がパサリと音をたててしまう。
幌の方を向く体勢に変えたのが良かったのか、スッと目蓋が落ちるのと同時に夢に突入した。
――セアラはよくやっているよ。大丈夫。心配しなくても祈りは大地に届いている。
それでも不安? そうだな。うーん…、
次が祈祷の最終なんだよね? その際、最後の一節は目を開けてみてご覧。俺が友達に声をかけておく。きっと、祈りを受け入れた存在がちょっとだけ、姿を見せてくれるはず。
それを楽しみにして。
セアラの祈りはちゃんと、あたたかいから
懐かしいサラドの声がゆったりと穏やかに語りかけてくれた。セアラの心を、不安を解かすように。
夢を見たというのは語弊があって、目を閉じたもやっとした闇があるだけの中で、姿は見ていない。夢に聞いた、が正しい。その声も口調も夢にしてはくっきりと覚えている。だから余計に錯覚してしまう。
本当はすぐそこに、馬車の外にサラドがいて、手を伸ばせば届いたのではないかって。目を開ければ、セアラを慰めてくれる大きな手があって、優しく背を撫でてくれるのではないかって。
そんな都合の良いこと、望む言葉をもらえるなど、夢でしかあり得ないだろうけれど。
夢の様子を語るセアラの頬がふわっと紅潮する。同性から見ても可愛らしく映る表情にニナは「ちっ」と小さく舌打ちした。
サラドと一緒に行動できたのはそう長い期間ではないが、田舎の狭い世界しか知らなかったセアラには濃密だった。地元の神官以外で初めて出会ったこんなに頼りがいのある人。厳しく苦しい筈の巡礼路もサラドの援助のお陰で楽しくさえあった。それを思い出すとポワリと胸に幸福が満ちる。
養護院に預けられたばかりの頃、セアラは真面目で聞き分けの良い内気な子供だった。無気力で外因の刺激に怯え、心を閉ざしていたともいえる。そのため共に暮らした少し年上や同い年の男の子に若干の苦手意識があった。周囲のみんなも同じく、肉親と故郷を失ったことで荒んでいたせいもあるのかもしれないが、反抗的で乱暴者、セアラをからかっては大声で笑う。よく泣かされていた。男の子故に力はあるから喧嘩を始めると怖いし、生意気で困った兄弟みたいなもの。
みんなセアラよりも早い年齢で丁稚先などが見つかり院を出て行った。その後、慈善活動の手伝いに来てくれて再会した際には、仕事に就いたことで急に大人びていたけれど、それでも突っかかってきたり、ふざけてきたりしたのは変わらなかった。
父親でも良いくらい年上のサラドは最初から何かと気に掛けてくれて親切だった。その朗らかで落ち着いた笑顔に何度も救われた。この人が一緒で良かったと心から思った。
今でも時折サラドが傍にいてくれたら、と願ってしまう。田舎から一人、王都に出てきて不安で堪らなかった時に優しく導いてくれたため、無条件で信頼し、依存してしまったのだろうか。その包容力に惹かれるのは、早くに両親を失ったセアラにとって単なる思慕の情なのか、それとも敬愛なのか、はたまた恋愛なのか。自分のものでありながら、セアラは胸にある感情を正しく把握できていない。
「ニナが羨ましい…」
セアラがぽつりと零した呟きにニナが「何言ってるんだ」とでも言いたげに目を眇めた。セアラ自身も自分は何を口にしたのだろうかと動揺しながらも想いが言葉になる。
「だって…、ニナの方がサラドさんと近いでしょ…」
「近い?」
会話をする気はない意思表示であるように一切返事をしていなかったニナが思わず声を漏らした。いつもの小声だが、いつも以上に低くて不機嫌な声。
「ニナはサラドさんと同じ景色を見られるでしょ? いざこざがあった時、ニナは一緒に戦える。サラドさんもニナを頼りにしていたもの」
「ハッ、馬鹿にしているのか」
「違うわ。気に障ったのならごめんね? …本当に、ただ、そう思っただけなの」
セアラは慌ててニナの手を取ろうとした。「許して」というように。だが、大きな動きではないのにスッと避けられてしまい、セアラの手は虚しく空を掴んだ。
こういう隙のなさも大きな違いだとセアラは感じている。自分は庇護者でしかなく、サラドとの間にも大きな隔たりがある、と。
口をついて出た言葉でセアラ自身も気付いてしまった。サラドに気に掛けてほしいと願う欲があることに。
「私は…ほんの少し面倒を見た子、くらいだろうから…」
多分、サラドにしてみればセアラは、彼女にとっての養護院の弟妹たちと一緒。
(特別な感情で『セアラ』と呼んでくれた訳じゃない。ただ名前を知っているからそう呼ぶだけ。…人を羨ましがるなんて、勝手に負けた気持ちになって悔しがるなんて…いけないことだわ。こんなの教えに反するもの)
セアラはきゅっと唇を噛んだ。心の中で懺悔を唱える。
歓びから一転しゅんと俯くセアラにニナは再び舌打ちした。愁える表情さえ人を惹きつける。潤んだ目を見たら慰めずにはいられないのだろう。
確かにニナは特殊部隊の見習いとしてあらゆる訓練を受けてきた。だからこそサラドの持つ能力の高さを知れるし、その一部は共通した技術だろう。隠密、偵察、暗殺…。
それはニナが自ら望んだものではなくて、自身の境遇を呪ったことは一度や二度ではない。
(サラドと近くて羨ましい?)
表立って褒められ敬われ大切にされているセアラ。そんな彼女が影で暗躍する裏の存在で、今は雑用係でしかなく、任務の仲間と思われているかも怪しいニナを羨んでいたとして優越感など微塵も感じない。あるのはただ苛立ちだけだ。無神経だとすら感じる。
こんな話題はもうたくさんだとでも言いたげに、ニナは馬首を廻らし馬車を停めた場所への帰途についた。
「ニナ、昨夜あったことを教えてくれ」
馬と馬車を繋ぐ作業をしているニナにショノアが声を掛けた。今度は何だと忌々しそうにニナが顔を上げる。
「移住して来た者が逃げ出しているらしいのだ。昨晩のあれはもしかしたら、と…」
「ここでの暮らしに見切りをつけて出て行ったとして何が悪い?」
ボソリと小声で返られた言葉をショノアは聞き逃さなかった。
「ニナは何を知っている?」
ショノアは顔を顰めた。斜に構え横目で見返してくるニナの目も同じくらい鋭い。
「何を知りたいんだ?」
「ここで彼らがどんな生活を…、逃げたくなるような仕打ちを受けているのか、どうか」
ニナがハッと短く息を吐く声が微かに聞こえた。
「ここで報告はしない。耳目がある」
「あ、ああ…。そうだな。では移動の途中で頼む」
冷静なニナに言い切られ、ショノアがその視線を追うと視界の端にこちらを気にしている兵士の姿が目に入った。ショノアは急いで出発を告げた。