132 ニナの魔力
再び呼び寄せたヴァンはやはり突風の如く現れ、サラドの目の前でギュンと急停止した。二人が跨ってからは、指示通りポクリポクリとのどかな足取りで進む。ヴァンは「走らないの?」とでも言いたげにブルッと鼻を鳴らした。
「それじゃあ、約束通りに。闇の精霊との交流の仕方だけど」
真後ろの頭上から降る声を遮るように、ニナにしては大きめの声を張る。
「待て! この傷を治してもらった時に言われた。『力を望むな』『身を滅ぼす』と。…だから、その、それを教わってもいいのか?」
ニナは無意識にスカーフ越しの左頬に触れた。そこにあった大きな傷痕は引き攣れた痛みもなく、もう殆ど目立たない。
「ああ、なるほど。(シルエは)そんなことを言ってたんだね。これも憶測の域を出ないけど…。
あの頃のニナは魔人に干渉されていたから。自分だけは理解者で味方だと思わせ、裂け目の力に溺れさせ、ニナが魔人に依存するのを狙っていたんだろう。
完全に眷属にすることができず、多分、頰の傷を負わせた時に血を介して魔力の塊みたいなものを埋め込んだんだと思う。影は『種』って言っていただろう?
それが体全体に馴染み、膨らむのを魔人は待っていた。ニナの居る先に関与できるように、効率的に己の術が行き届くように。
酷だけど、それがあったからニナも生き延びられたというのも事実だと思う。媒介となるニナの体を生かす必要があるから、肉体も精神も抵抗力を高めてあった。その支えを失えば急激に衰弱することも考えられる。だから『根っこは残す』って事。
そんな擬物の力なんてなくてもにニナは強いよ。その証拠にニナは拒否し続け、屈しなかった。本当によく頑張ったな」
あまり抑揚をつけず、落ち着いた声でゆっくりとサラドは語る。心理的衝撃を受けないように気遣いながら。思いの外ニナは冷静で、小さな頷きで相槌を打ちつつ、確かにあの影もそんなことを言っていたと記憶を反芻する。
「それでね。魔人に与えられた抵抗力をニナ自身の魔力で補えるようにしよう。但し、魔人はニナの魔力に敏そうだから、悟られないように気をつけないといけない。
賭けだけど、それができるようになれば魔人の力を全て追い出せる。影に恐怖することもなくなるんだ。
まずはちょっとずつ、無意識でやっていたこと…闇に溶け込むとか、気配を隠すとかを意識して行う。大丈夫、闇の精霊はニナを好いているから力を貸してくれるよ」
「わたし自身に魔力なんてあるのか」
「あるよ。ひとりでも凛と立つ、それでいて優しい魔力だね」
「はぁ? ふざけるな。嘘ばっかり。そんな小っ恥ずかしいことを良く口にできるな」
「本当のことだよ」
照れたニナが怒ったように斜め後ろを振り返る。サラドにからかう様子などなく真摯に「魔力の特性は人それぞれ異なる」と説明を加えた。ニナを見下ろす目はただ優しい。
「じゃあ、あんたのはどんななんだ?」
「どうだろう? 自分自身のことってわからないものだよ」
ヴァンの背の上、前後に座った状態でサラドによる指導が行われた。魔力を感じとること。魔力が体を巡るのを感じること。万物に宿る力、それらに生かされていることを知り、闇の精霊を信じ、感謝し、助力を願う。
ニナは馬上にいる状況で良かったと心から思った。向かい合わせで教わっていたとしたら照れ臭くて、まともに話を聞けていたかも定かではない。
「やれ」と命令されるのではなく、失敗すれば折檻されるのでもなく、優しく同じ事を何度でも根気よく繰り返してもらうなど未知の事過ぎる。なかなか上手く出来なくとも、きっとサラドは呆れた顔などしていないのだろう。どんな表情で「そう、上手」と囁き、この手を重ねてくれているのかと思った途端、集中の糸がプツリと途切れるのを自覚した。
「ニナの場合は闇の精霊と友達になりたいと思えばいいかも」
「闇の精霊ってどんな姿なんだ?」
「姿? うーん、闇そのものだよ?」
闇そのもの。ニナは月のない夜を思い浮かべ、木陰でひと息つく時間を思い浮かべ、煩わしさのない静かな空間を思い浮かべた。特殊部隊での感情を殺す訓練とは全く違い、心が凪いでいく感覚がする。
「今教えたのを時々繰り返してみて。呼吸を調えて、魔力を大きくしようとする必要はないから」
「何か攻撃の術でも覚えるのかと思っていた」
「そういうのもあるけど、まあ、いずれ、かな。ニナは攻撃より補助の方が向いてる気がするんだよな。それともやっぱり攻撃したい?」
ニナは「いや…要らない」と小声で答えた。マルスェイが「もったいない」と叫ぶ姿が思い浮かび可笑しくなる。
「そろそろ王都に着く。中まで送りたいんだけど、手前で許してくれ。オレは王都に入れないから」
「それって濡れ衣なんだろう? あんたはそれでいいのか」
「…陛下の忠臣たちがオレを排除すべきとしたのにはそれなりに理由があるんだろうし。だから、仕方がないよ」
サラドの声は沈んだ様子もなく、諦観でもなく、あっけらかんとしていた。「オレも弟たちを守るためになら手段を選ばないことだってあるし」と自嘲めいて笑う。
「本当は無理に王都に戻らなくても、ニナの実力があれば逃げ果せると思う。…ごめんな。戻るように誘導して」
「別に。あんたに言われたからじゃない」
「今までもそれとなく、ショノアたちを強盗やならず者、そこまでの悪党じゃなくてもトラブルから回避させていただろう? これはオレのお節介だけど、戻ってくれると聞いて安心したんだ。
オレ、あの後一度ショノアと会っていて『手を貸して』って言われたんだけど、これ以上オレが王宮と関わるのは良くないし、そんなオレといるのはショノアたちにとっても良くない。
ショノアは真面目で正義感が強いのは美点だけど、生まれとその気質のせいか視点が偏りがちなところがある。セアラは養護院育ちとは思えないほど擦れてないし、素直すぎて心配。マルスェイはあの通り、時々突っ走って周りが見えなくなるだろう?
ニナは良い調整役だし目端もきく。感情に寄らず情報を集める手腕は視察に、彼らの旅に必要だよ。人々の暮らしに何が不足しているか、何が問題か、きっとニナだからこそ報告できる」
「あんた…、アイツらのことそんな風に思ってたんだ?」
ニナが「ハッ」と笑いとも嘲りともとれる息を吐き出した。ショノアに報告を上げても自分の集めた情報など重きを置かれていないだろうと感じていたニナにはサラドの評価は意外でもあり、率直に嬉しくもあった。心の中で「わたしが必要…」と呟いてみる。ショノアらが直接そう思っていなくても、それはとても甘い言葉だった。
「それと、魔人は強い。オレの仲間でも苦戦するのが必至なくらいには。もしかしたら今後ニナに協力を願うこともあるかも。それはつまりニナの身に危険が及ぶということで――」
「いいよ。そんなの、元々だ。むしろ助けてもらった恩義がある。囮にでも何でもなるさ」
神妙な声に変わったサラドに、ニナは最後まで聞かずに言葉を割り込ませた。
「うん。その時は頼む」
「何かあったら、『暗く静かな独りの場所で呼ぶ』?」
「覚えていたんだね。そう、闇の精霊が手を貸してくれる。前にもニナのことを伝えてくれたから」
王都の牆壁前、門兵に気取られない所でサラドは馬を止めた。「じゃあ」と短く挨拶をしてニナは真っ直ぐ王都内に戻った。背後に気配は感じない。門を潜った後でそっと振り返ってみたけれど、もう走り去る馬の姿など全くなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
遺跡の森近く、耕作放棄地に張られたテントの中で避難民たちは不安に震えていた。老若男女構わず押し込まれ、私的な空間もなく、交流する時間もない。暗くなったら疲れに任せて眠るしかない。
避難先の面倒を見るだの、ここを移住先にすると良いだの、再興の後押しをするだの、本当だろうかと疑いはすれども、それを他の者に聞こうにも私語に興じようものなら兵士の叱責が飛ぶ。ヒソヒソ話には尚のこと目くじらを立てられる。
貧民街を襲った魔物は複数。その時、住民たちは混迷を窮めた。幸か不幸か、荒ら家が密集し、町並みが入り組んでいることが魔物の侵攻の足止めになり、僅かな時間稼ぎとなった。路地まで知り尽くした住民はなんとか逃げ延びようと必死に走った。
「こっちだ! ここに来い!」
今まで貧民街で起きることには、犯罪であろうとも極力関わろうとしなかった王都内の兵士が避難を呼びかけていた。一刻も争う事態に「乗れ!」と促されるまま、なぜか家族や仲の良い者と別々の馬車に誘導されても、避難先で再び会えると信じて従った。
連れて来られた先がただの荒野でも、命が助かっただけでも御の字と、配られる食事に感謝し、兵士の指示通りに働いた。新しい環境に慣れようと努めた。
兵士らは『第一王子殿下はかねてより貧民街の問題を憂慮しており、生活の再建に心を砕いている』と喧伝していた。避難民は王子を称えた。
だが日々が経過しても、かつての知人と交流も持てない。家屋の建設も殆ど進まない。材木が近隣から運ばれる予定だというが滞っており、足りていない。雪がちらつくのも目前だというのに。
人々の疲れと不安は日増しに募っていた。
夜泣きをする赤児の声に紛れて、一人が「なあ、おかしいと思わないか?」と隣で眠る者に囁いた。
「うるさいぞ! 早く泣き止ませろ!」
赤児を抱く母親は立ち上がって揺すりながら「よしよし」と宥める。その母親の目も潤んでいて今にも子供と一緒に泣き出してしまいそうだった。
不安はここでの生活のことだけではない。
兵士は取り合おうとしないが、森から呻き声が聞こえるという証言はいくつもあった。はっきりとは聞こえないが『不届き者』と『我が安眠を妨げるとは身の程知らずめ』『出て行け』と。
木を伐採するよう命じられて林に入った者は、陽が射すのとは別方向に自分の影が動き去ったのを見たと腰を抜かした。
同じ頃、妨害行為と取れる嫌がらせがあった。
最初は周囲にゴミが撒かれる程度だったが、壁の建設のための溝が崩されたり、テントの近くに獣の臓物が捨てられていたり、保管している食糧が荒らされたり、だんだんと大胆になっていく。
不審火が数件続いた後、遂には建設途中の家屋と材木が焼かれてしまった。
展望の持てない生活に数々の問題。作業の精度は落ち、兵士の指示も通り難くなっている。ついにはある集団で一部が労働拒否を起こした。
補給物資を運んできた兵士がすぐ近くにいたこともあり、労働を拒否した数名は暴動でもないのに組み敷かれ、蹂躙された。
不満を抱えていたのは兵士の方もで、もう抵抗していない者への暴力が止まらない。体の良い捌け口を見つけたとばかりにいたぶった。
全体責任だとして、その集団全員に罰が与えられ、縄をかけられた者たちは見せしめに他の集団の拠点を引き回された。
兵士たちは避難民を制圧せねばと躍起になった。
「ふんっ、もともとあんな芥溜めに住み着くような奴らは怠け者の集まりなんだろう。タダ飯を食うだけで働こうとしないなどと」
それを目にして心が離れ、自給自足をする方がマシと、遺跡の森とは反対側、霊峰の麓、湖を囲む森へと一人、また一人と逃げ込んだ。何人かは見つかって捕まったが、個別に追いかけて全員を引き戻せるほど兵士の手は足りていない。
兵士は火付けが逃げ出した者の仕業かと怪しみ、手引をしている者がいるのではと疑ってかかった。
尋問されても留まっている人々からは何の情報も得られない。そもそもここで知り合った仲、貧民街では住んでいた場所も違い、詳しい為人を知るに至ってもいなかった。いなくなった者の名前さえあやふやだった。
「だが、避難した者同士励ましあっていた。こんな、下手をすれば人が死ぬようなことをしてくるとは思えない」
「逃げたのなら、態々戻って来る意味がないのでは」
「そうだ、そうだ」
一人が声を上げると、他の者も同調し、兵士の決めつけや自分たちの処遇に不満が噴出した。
兵士を増やし見廻りを強化したことで、嫌がらせや不審火の犯人――遺跡の呪いと、ここが神の怒りに触れたため滅んだ土地だと信じる近隣の村によるもの――は捕らえられたが、避難民の兵士への不信は膨れ上がっていた。
堕ちた都北部へ移住させた民による再開拓が思うように進んでいないと報告を受けた王宮で、
「そうだ、今巷で噂の『聖女』が王都に戻っているだろう。その者を向かわせてこの土地に祝福があるとすれば古い考えの民も納得させられるのでは?」
との意見に異を唱える者はいなかった。
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