128 光の届かぬ場所
地に額づくような姿勢でじっと佇む藍色の長衣に金髪の男性。普段は隠している身を無防備に晒している。その姿を見留めたマルスェイは思わず走り寄ろうとしたが、セアラにぎゅっとローブを掴まれ、つんのめった。驚いて振り返ると口を真一文字に閉じ、首を横に振っている。
「セアラ、放してくれ。あそこに大魔術師が…」
「マルスェイ様、駄目です。邪魔をしてはいけません」
祈りや恭順にも似たその姿勢は傍目にも集中しているとわかる。セアラはマルスェイが突撃しないようにと足を踏ん張って引き戻した。
「そ、そうだな…その通りだ、そう…」
それでも滅多にない機会に、マルスェイは落ち着きなくそわそわと体を揺らした。セアラは掴んだローブを放そうとしない。彼女もただこうして壁に張り付いて身を守るしかないのを歯痒く感じている。飛び出した所で足手纏いになるのは自明の理だ。ぐっと堪えて、目の前で起きている事柄を重く受け止める。それでも、弓を構える灰色のマント姿をそっと視界の隅に留め置いてしまっていた。
◇ ◆ ◇
小鬼も含めて誰もが目を瞑らずにはいられなかった閃光の刺激が収まる中で、王子はそろそろと目を開けた。細めた目に映ったのは、差し迫る手斧と立ち塞がる人影。護衛の怒号が飛ぶ。視界を塞ぐようにして身柄を確保され、王子は牆壁内へと押し込まれた。重厚な扉は閉じられ、太い閂が通される。
「物見へ上がるぞ!」
「殿下っ、お待ちくださいっ」
王子は侍従の制止も聞かずに階段を駆け上がった。物見に上がるなり塀から身を乗り出そうとする王子を護衛が狭間へと誘導する。
「これでは良く見えないぞ…」
「殿下、頭を上げないでください」
護衛も王子を守ろうと必死だ。少々強引でも動きを遮る。
「陛下にも報告を、『影がいる』と。なんとしてでもあれを討ち取れ!」
「…殿下、影なるものは見当たりませんが」
「何だと? 倒したのか?」
「わかりかねます」
王子が物見に到達するまでの間に戦況は様変わりしていた。火鳥もいつの間にか姿を消している。雨雲もないのに落ちる紫雷は小鬼を逃さず貫く。淡い灰色のマントを中心に貧民街一帯に光が広がると残りのアンデッドが掃滅された。牆壁上の兵士から「おおっ」と響めきが起こった。
「あんな重たそうな剣を軽々と…」
「あの奇をてらった動きに負けないなんて」
図らずも高みの見物となった兵士たちが傭兵の闘いぶり、こと大剣使いに驚嘆の声を漏らしていた。唖然と見守る中、小鬼の殲滅を遂げた勝ち鬨が上がるまで、さしたる時間は要さなかった。
傭兵たちが黒髪に黒装束の大剣使いに群がっていく。互いに健闘を称え合っているようだ。慕われているのは疑いようがない。
そこに注目しているうちに、いつの間にか林と貧民街の間の地が大きく穿たれていた。手押し車で小鬼の遺骸が運ばれ、燃やされている。昇る煙にのって届く臭いに嘔吐いている兵士も多い。王子もハンカチを出して鼻と口を覆った。
たった一度の術でアンデットを排した人物は、傭兵の元を訪れて二言三言を交わしている。ホワリと淡く光った後は次の傭兵の元へとツカツカと歩んで行く。それは武器の金属部に光が鈍く反射したかのような一瞬の閃きで、この高さから見下ろしている分には何が成されているのか詳しくは判断できない。
貧民街に残っていた住民が隠れていた瓦礫の下から傭兵によって助け出された場所では、幾度も繰り返される光。ぐったりと動かなかった民が光を受けた後、傭兵に支えられながらもその足で立ち、用意された馬車に乗り込んで行く。
失血したまま倒れていたり、担架で運ばれていく傭兵はいないようだ。もしや、と勘繰ったことは確信に変わった。
「あれは、治癒の光か?」
残民が歓喜で抱き合うのに背を向けた淡い灰色のマントは燃える穴の淵に近寄ると杖でトンッと地を突く。祝詞のような調子が微かに聞こえ、光が穴を覆う。炎は一瞬白く輝き、消えた。周囲の傭兵たちが土を被せて穴を埋めていく。連携のとれた無駄のない動きだった。
機を見計らっていたように、革鎧に立派な剣を携えた男と神官見習いが駆け寄り、頭を下げている。一歩遅れて来たのが宮廷魔術師のローブを纏っているのに気付いた騎士が叫んだ。
「そこの宮廷魔術師! その治癒士を王宮に連れて来い! 中にも負傷者が大勢いる!」
革鎧の男がぎょっとした様子で振り仰ぐ。当然、声は治癒士にも届いている。静かに見上げた顔はどんな表情をしているのかわからない。慈愛の笑みなのか、呆れなのか、怒りなのか。
ずかずかと歩いてきた黒装束の大剣使いが革鎧の男の前で立ち止まり、その背にフイッと治癒士が隠れた。翻った淡い灰色の衣が光を受けて銀色に輝く。
仁王立ちで腕を組んでいた大剣使いが元来た方角へ戻ると、治癒士の姿はどこにもなかった。革鎧の男と神官見習いはがっくりと肩を落とし、宮廷魔術師は何やら文句を言っている。
「どこへ消えた? 何故、命令を無視する?」
憤慨した様子の騎士を逆撫でしないように、兵士たちは整列して撤収の号令を待っていた。
◆ ◇ ◆
少し嗄れた低音の声で紡がれる厳かでいて切ない旋律。
遠くに聞こえる畏怖と畏敬の念にニナの心も洗われた。目が涙で潤む。寝惚けた頭に「あの歌声に従って旅立ちたい」と浮かんだ時、
「まだ。まだ早いよ。戻っておいで」
と囁きが聞こえた。
うっすらと目を開ければ、そこは真っ暗な空間だった。満たされた安息感は裂け目の内側にも似ている。
投げ出された足に感じる砂利の感触。肌寒さ。背に感じる温もり。枯れ草を揺らしザワザワと鳴る風。何かを燃やした焦げ臭さは気分の良いものではない。そういった五感の刺激があるのは裂け目の内側とは異なっていた。
意識が覚醒してくると覗き込むようなサラドの顔がぼんやりと見えた。一点の光源もない空間なのに、不思議とその姿は視える。
胡座をかいたサラドに横抱きにされているらしいと知ったニナは慌てて体を起こそうとしたが、骨張った大きな手で後頭部を支えられ「もう少し寝ていた方がいい」と肩をそっと戻される。遅れて襲ってきた鈍い痛みと倦怠感にニナはされるがまま身を預けた。
「ここは…?」
「闇の精霊の揺りかご…とでも言えばいいかな」
「闇…の精霊?」
「そう。ニナが呼んだ…うーん、ここに全力で逃げて来た、と言った方がいいかな? 闇はそれだけで人に不安感を与えるけれども、反して安息もくれるよ。深い眠りと休息を。闇の精霊はとても恥ずかしがり屋でね。そっと見守ってくれるんだ。ニナには…心地良い場所だろ?」
頭を支えられていて頷けないニナはゆっくりと瞬きをすることで返事の代わりとした。サラドが朗らかに微笑むのが見える。釣られてニナの口角もほんの少しだけ上がった。この暗闇の中では気が緩んでしまう。
「あの…小鬼とかアンデッドとか…その、あの、か、影とかは…」
「影には逃げられてしまったみたいだけど、他のは片付いたよ。安心して。前の襲撃ではだいぶ痛ましい犠牲を出してしまったようだけど…」
サラドが眉根を寄せて目を伏せ、唇をぎゅっと引き結んだ。
「…あんたがなぜ『救えなかった』みたいな顔をするんだ。何でもできるつもりか? 人は万能じゃないのに何様だよ」
絞り出すような声で、つい憎まれ口を叩くニナに「そうだね」とサラドの表情が緩む。
「…ここは裂け目の内側と似てると思った?」
「‥‥」
「でも、ここはオレでも呼吸ができる。術者の違いもあるけど、世界と隔たりがないんだ」
返事をしないニナの様子を窺いながらサラドは話を続けた。
「これはあくまでオレの推察だけど…。ニナは小さい頃から無意識に闇の術が使えていた…か、あるいは…闇の精霊に好かれていたんだと思う。例えば…かくれんぼが得意だったり、すごく静かに歩けたって記憶はない?
あっ、勿論、さっきも言った通り、何にでも二面性があって。水は命を育むけれど、時には激流となって地形さえも変える。火は燃やし尽くすこともあるし、体を温めてもくれる。闇に恐怖を抱く人は多いけれど、決して悪ではないよ。だから闇の精霊に好かれたといっても疚しく思うことは全くないからな」
ニナは再びゆっくりと瞬きをした。
「あの影は魔人の分身ともいえる術。自身は動かずに分身や眷属、死霊術を操って事を運ぶ。闇の精霊に好かれる才を手にしようと、眷属にしようと、幼いニナに目をつけたんだと思う。周囲の大人を唆して孤立させたり、味方を奪ったり…、そんな覚えは?」
ニナの肩がビクリと跳ねた。ポロリと涙が零れる。
「…。ごめんな。辛いことを思い出させた。もう少し眠って。体も心も癒えるように。目が覚めたら、身を守れるように闇の術を…えっと、簡単なのしか無理だけど…教えるよ。ニナが望むのなら…だけど。だから今はおやすみ」
今度こそ返事をしようとニナは口を開こうとしたが、やたら重怠く舌が思うように動かない。喉もつっかえて狭まって感じる。重たい瞼を開けていても閉じていても暗闇なのは変わりないが、気遣わしげなサラドの顔だけが視界から消えた。後頭部を支えてられている安堵感と接している部分の温い体温は消えない。
「心配しないで。大丈夫。おやすみ」
少しの沈黙の後、聞こえてきたのはゆったりとした旋律の、郷愁をそそる子守唄。
(これは前にも聴いたことがあるような…)
ニナのツンツンと跳ねた硬めの髪を慈しむように優しく撫でる手。子供扱いして、と反抗心を抱きつつ、このまま甘えていたい衝動もあった。この闇の中では本当に自我を律することができないらしい。
(あんたの言う通りに父がわたしのことを『気味が悪い』と忌み嫌っていたのが操られた結果なら…。物心つく前の記憶にない頃に、誕生を喜び、こんな風に愛してくれていたとしたら…。だとしたら、どんないに良いか…)
意識がふわふわと夢と現を行き来する。抗い難い眠気にニナは身を委ねることにした。