126 貧民街
非公式に貧民街を視察する王子殿下に乗じて、ショノアらも固く閉ざされていた門を潜ることができた。
「角の運搬、ご苦労だった」
現在、王宮前の広場に置かれた巨大な鹿の角は、人々の見世物になっている。噂が巡り巡って、鹿の魔物を倒したのは王子だということになっているらしい。我が国の第一王子はこんな巨大な角を持つ魔物を倒す力を有しているという噂は民にこの上ない安心感を与えるし、塞ぎがちな状況で光明となる。王子の評判も良くなるので、あえて訂正されず、大袈裟になっていく一方の噂は放置されている。
魔物の標的となった貧民街の救済措置に、王子の発案で新たな土地へ住民の移動が進められた。軍用の馬車が何台も出て、半ば強制的に人々は着の身着のまま逃された。魔物に襲われて壊滅的な被害を受けたことで、反発も少なく人々を立ち退かせることに成功した。
運ばれた先は堕ちた都の北側にある耕作放棄地と放置林だ。王都、聖都の両側から徐々に開墾が進められている土地だが、地元民からは遺跡の呪いがあると恐れられている場所。堕ちた都を囲む森は迷って出てこられない、無事に逃げられても病に罹るなどの逸話があるが、外側から少しずつ開拓していけば、遭難などしないとの論だ。
背後にある霊峰の麓が国境。隣国にとって信仰の対象である山の扱いは繊細な問題だが、それ故に山を越えて攻め入れられる心配もほぼない。長年手付かずになっている遺跡と森には豊富な資源が眠っていると思われ、そこに町が発展する意義は大きい。
年々拡大していく貧民街の問題解決と、堕ちた都の再開発、同時に行えると見込んでいる。
住民の移動と整地の進捗具合を視察に向かう王子は上機嫌だが、それを聞いていたショノアはどんどん渋面になっていく。
(兵士たちがテントを張り、炊き出しをしていると言うが、生活基盤の整っていない未開拓の地に放り出したも同然だ。しかも住民たちの同意もなく? これから冬を迎えるのに? 住まいは貧民街でも王都内で働いていた者もいるだろうに…)
王子のにこやかな表情もすぐに失われた。感情の読めない取り繕われた微笑みに変わる。
すえた臭いが充満して空気も重い。
残された住民は酷い怪我や病を負った者、年老いた者、身寄りがなく働き手にならないくらい幼い子供。移動させる労力に見合わないと後回し、もしくは見捨てられた者たち。
瓦礫の山にできた空洞に身を寄せ、都度、石や板で入口を塞いで凌いでいる。次に魔物の襲撃に遭ったらとても防げないし、逃げることもできなさそうだ。
荒涼とした土地で唯一活動しているのは、老体に鞭打って遺体を運ぶ者。その傍でニナは穴を掘っていた。小石が多く痩せた地はなかなか十分な深さまで掘り進まない。
前日、ニナは上官であった王配殿下の懐刀、特殊部隊長と面談した。この男が現職が何で、どこの所属であるかは知らない。だが、間諜や暗部を担う者は国にとって必要な人材である。腹心の部下ともども王配殿下への忠誠は健在なのだろう。
「528番、アレは使えるようになったのか?」
アレとは『裂け目』を自在に操る不思議な能力。ニナが特殊部隊に連れてこられたのも、母と弟を人質の如くとられたのも、落ちこぼれなのに生かされているのも、それを組織が欲していたからだ。裂け目に吸い込まれる魔物、その手前で幼いニナが「消えろ!」と叫んでいるのを目撃されたせいで、秘めたる能力があると勘違いされた。
ニナは「いいえ」とキッパリ答えた。「そのような力は欠片も感じません」と付け足す。
尋問を得意とし、嘘を見抜く技にも長けた上官はニナをつぶさに観察し「ふむ」と顎をさすった。
ニナは嘘をついていない。現にシルエに解呪されて以来、迫る恐怖も体を這う怖気も感じたことはない。
「…お前の処遇は現在の任務担当に聞け」
塵芥でも見るように最後に一瞥すると上官は背を向けて部屋を出て行った。王都を魔物が襲っている今、もしニナが能力に目覚めていたら、決して逃さず洗脳を強めて意のままにしようとしたことだろう。開花しなかった能力の持ち主には興味を失ったのか、ニナは「用なし」と断じられた。終ぞ労いのひと言もなかったけれど、部隊から抜けられるのは願ってもないこと。
その後、母と弟の様子をひと目見ようと壁を越えたニナは、そこで貧民街の惨状を見た。話を聞いて回ったが、住民達がどこに連れて行かれたのか、残された者には知らされていない。町中の者は貧民街で起きていることから目を逸している。急に働きに来なくなった者について雇い主が憤っているくらいだ。王宮内の兵士には、元特殊部隊見習いのニナは警戒されている。手がかりは皆無。
そして昨日は得られなかった情報がないかと訪れた先で、無情にもなりきれず、遺体を納める穴掘りを手伝うことにした。そこに運ばれる遺体の中に目的の人物がいないことを祈りながら。
「おうっ、爺さん。無理すんなよ。今日はこれだけでスマンが皆で分けてくれ」
奥の林から駆け出た馬上から声を掛けた男は、麻袋を差し出した。剣と弓を携えていて、毛皮を肩に掛け、頭に派手な布を巻いた厳つい男。おそらく傭兵だろう。年老いた男は食糧が入った大きな袋を受け取り、傭兵に「ありがたや」と手を合わせる。
「止めてくれ。仏さんになった気分だ」
荒々しそうに見えて気安い態度の傭兵は老人に「早く行け」と急かす。遅れて林から数名がスコップやツルハシを手に追い付いた。
「埋葬は俺たちが引き継ぐ。メシ食ってきな。そこの少年も」
ニナは僅かに目を上げただけで首を横に振った。厚意を無視して黙々と硬い地盤にスコップの先端を突き刺す。その態度に一瞬、顔を顰めたものの、この状況では意固地になるのも理解できるのだろう。痩せてはいるが貧民街に残された者達のようにやつれたり怪我を負ったりしていないことから傭兵もニナの好きにさせることにしたようだ。
「よーし、じゃあ、お前らで…」
指示を出そうとしたところで傭兵は壁沿いを移動してくる小集団がいることに気付き、体を強張らせた。形ばかり平伏の姿勢を執る。
堂々と歩く王子はそれを当然のように受け入れ、周囲を悠然と見回した。
累々たる遺体。瓦礫の中に身を潜める残された住人。そこで人道的な活動をしているのは国に仕える兵ではなく傭兵と思われる人物。王子は僅かに片眉を跳ね上げ、侍従を見遣った。
「貴様ら! ここで何をしている! 遺体から盗みを働こうとは不届き者め」
「憐れにも打ち棄てられた死人を土に還そうとしていたまでです」
侍従の詰問にリーダー格の傭兵は臆することなく答えた。彼らの胸に一物があることは想像に難くない。
「止めろ。無為な言い掛かりはよさぬか」
意外にも諌めたのは王子だった。為政者として感情的にならず、事実を受け止める必要がある。国は少なからずの犠牲の上に成り立つもの。
「視察に来ただけだ。取り締まりではない。作業を続けてくれ」
あるいは王子は理解ある人物だと印象づける茶番なのか。
王子に言葉をかけられても真意が掴みきれないからか平伏の姿勢を崩さない。王子は構わず視察を続けた。
「…農閑期に人夫を雇い、速やかに瓦礫や廃材を撤去せよ。また人が住み着くことがないように対策も」
王子の指示に侍従は短く返答する。
王城に住まう者からしたらここは芥溜めのような場所に見えるのだろう。不潔で無秩序で病気や犯罪を生むと。ここに人々の暮らしがあったと想像もしていない。
逃げる際に少しでも身の回りの品を持とうとしたのか、散乱している生活道具。残された料理が腐り、鍋には虫が集っている。つい最近までここで日々の営みがあった証拠だ。狭い範囲に密集していて、人口もそれなりであったと推測される。
ショノアもこの惨状になる前の貧民街を知っているかと聞かれれば否だ。『魔王』の噂を探れと命を受け、王都を出なければ、今も問題視しなかったかもしれない。傭兵に対しても偏見を持ったままだっただろう。
(何故?)
ショノアはこの意識差に違和感を覚えた。何故、ここまで王都は絶対だと、自分たちは王都に住むに相応しい選ばれた者だと当然のように思っていたのだろう。
王城の警護を主に担う騎士及び国お抱えの兵団と、傭兵の関係性は良好とはいえない。ある意味、これが貧民街での出来事だから傭兵も勝手ができた。正門前であれば、どんなに苦戦を強いられていても傭兵は助力を申し出なかったに違いない。
かつては報酬の支払いという繋がりであれ、協力体制ができていたはず。今も地方領主との雇用関係はあるのだから。いつから溝が深まり、これほど拗れたのか。
王子は侍従に止められ、林付近へ進むことなく視察を終えることにしたらしい。護衛が隙なく動いて王子は壁沿いに戻り、通用門の方向に歩き出す。王子の集団を見送り、臣下の礼を休めたショノアはふと遠くに目を向けた。
貧民街でも壁に近い場所はまだ生活基準が高い方で、家屋もあった。遠くなるほど、テントのようなものになり、四方を囲めるならまだましで、ぼろ布を垂らしただけになる。雨風も凌げない。魔物の被害も直接受けただろう。
ショノアの暗澹たる心情を表すかのように厚い雲が陽を陰らせ、視界が俄に暗くなる。林の奥からこちらに向けられた幾対もの目がギラギラと光っているのを薄闇が際立たせた。
「あれは…」
ショノアが気付くのと同時、その殺気に傭兵もニナも一斉に林を振り返る。
「増援を呼ぶ! 配置に付け! 持ち堪えろ!」
低めの笛の音を響かせる矢が連続して放たれた。