117 食卓に幸福を
「テオー、ご飯だよー」
勝手口から顔を出しテオを呼ぶ。すぐさまスケッチの手を止めて顔を上げた姿をみとめて、シルエは竈にかけた鍋に目を戻した。
籠に粗目で風通しの良い布を貼った埃と虫避けの覆いを外すと、三つの深皿に一口大に切ったパンが準備されていた。少し古くなったパンは焼かれて更にカリカリになっている。香味の強い草の球根部分をすり下ろし、灯台の町の名産であるサラリとした果実油に漬け込んだものが塗られていて、そのまま食べても美味しそうだが「これに鍋の具をかけて食べて」とメモが残されていた。
スープをかけたばかりのサクッとした食感と食べ進むうちに染み込んでくたっとしたパンの両方を想像してシルエは深く頷いた。
(なにこれ…食べる前にわかる。間違いなく美味しい)
鍋の中身は濃い色の具沢山のスープ。疲労回復効果のある鱗茎の野菜をたっぷりと使い、骨と野菜の皮を煮詰めたスープと果汁を足し濃いめの味に整えられている。この鱗茎は生だとシャキシャキとして強い辛味が、火を通すとトロリとして甘味が立つ。この野菜もだが、パンに塗られた球根や体を温める効果のある辛みのある根茎らは、火を通しすぎると有毒ガスを発生してしまう。使用量が料理程度の少量であれば大した害はないが、うっかり焦がした際などは目と喉がひりつくので注意が必要だ。
具はどれも小さな賽の目に切られ、テオが苦手としている体には良いが少々癖のある渋みや苦みのある野草も入っている。干し肉も原型がないほどほろほろに崩れ、良い出汁が出ていそうだ。これなら苦手な風味も感じにくいだろう。
鍋の大きさに合わせて作られた中綿入りの保温カバーが被されていて、まだほんのり温かかったが、温め直すとよりコク深さが匂い立つ。
この保温カバーは小鍋用のもあって、ノアラ一人分の際に使われていたのが偲ばれた。自ら望み、そう仕向けたとはいえ、聖都の神殿で使用人と同じ堅いパンと薄いスープばかりを食していたシルエは、ノアラがずっと提供されていたであろう食事情に軽く嫉妬を覚えた。
「ごめんなさい…」
「えっ? なんでそんな泣きそうな顔してるの?」
いつもなら食事の声がかかれば喜んでテーブルにつくテオが画板を抱えたまま俯いてふるふると震えている。温め直した熱々の鍋を持ったままシルエは「何事?」という視線をノアラに送った。ノアラにもわからないらしく、ゆるく首が傾げられた。
「これ…」
棚に置いてあるペンとインクをテオがおずおずと持って来た。
「…勝手に借りちゃって。その…、そしたら、あの、落っことして…、びちゃってして…、線が書けなくなって…、壊しちゃったみたい…ごめんなさい」
「ん? ああー、ペン先が潰れたのか。大丈夫。先だけ交換できるんだよ」
頭上にのびた手にびくっと肩を竦ませたテオは、柔らかく撫でられたことで、そろそろと顔を上げた。
「…どこにでも置いておくシルエが悪い」
「酷っ。思いついたらすぐ書き留められて便利じゃん!」
「物を大事に扱わないのは感心しない」
ノアラがはっきりとシルエを批判したことにテオもびっくりする。喧嘩が始まるのかとハラハラと二人の顔色を窺った。
「べっつに雑な訳じゃないし。勿体ないとか言って新しいのを使えずにいるノアラの方こそどうかしてると思うよ?」
口を尖らせて拗ねるシルエは怒った様子はなく、わざとノアラの分を少なくよそって渡した。熱いスープがかけられたことでパン塗られた油がふわっと香り、鼻腔をくすぐる。
ノアラは文句も言えず、差し出された皿を見つめ、への字とまではいかないくらい口端を少し下げた。
「ところで、テオはペンで何を描きたかったの?」
「あの、これ」
画板を開くと挟まれていた紙に繊細な線で『精霊と人の恋』が模写されていた。ペンで描かれた線はチョークより元の表現に近い。
「へぇ、更に精度が上がっている。すっかりハマっちゃったんだね。テオは研究者向きかも」
「でも、ここ…」
インクが垂れた場所とペン先が紙の繊維に引っ掛かって跳ねて汚れた箇所を、テオが力なく指差す。
「ああ~、これね。うん、これくらいならサラドに相談すれば、ちょいちょいってナイフで削ったり、薄く剥いだ紙を貼って目立たなくしてくれるよ」
「本当?」
テオはぱっと顔を輝かせた。修正ができなくても苦なくもう一枚描きそうではあるけれども。
「…上手いな」
ノアラは画板に挟まれていた紙を手にして、模写以外にも目を通している。シルエがメモ書きに使用し、不要となった紙の裏に木炭やチョークで植物の他にも馬のスケッチがされていた。書いた文字や記号に思い切りバツ印が入れられていたり、塗りつぶされていて裏までインクが滲みている箇所もあるが、心置きなく使える紙はテオには宝の山らしい。
馬のスケッチはどれも少し上から見た姿だ。馬とわかるもの、なんとか形になったもの、ましになったものと続き、どんどん上手くなっていく。四肢がすべて地から離れた姿や、なびくたてがみと尾の動きまで様々な姿態に挑戦している。
「動きもよく捉えられている。テオはものを見る目を持っている」
ノアラの褒め言葉にテオは頬を喜色に染めた。魔馬ヴァンが到着した時、サラドに「大丈夫だよ」と手招きされたが、テオは怖がって屋内に引っ込んだ。けれど、駈ける馬は美しいと思え、窓からその姿をスケッチしていた。
ちっともじっとしていないあの動きを瞬間的に切り取る能力にノアラは素直に感嘆している。
「へぇ、すごいね。…とりあえず、汚さないようにそれは避けて置いて。ご飯にしよう」
シルエの酷薄そうに聞こえる「へぇ」という声音に、テオは慌てて紙を画板で挟み、綴じ紐を結ぶ。ペンとインクも合わせて棚に片付けた。
テーブルに戻ったテオがそっとノアラの器と自分のを入れ替える。シルエはふんっと鼻を鳴らし、テオが手元に引き寄せた器にお玉で掬った具を足した。
「育ち盛りは遠慮しない」
ノアラがほんのり困った表情でテオを見ると「そこ、子供に気を遣わせない」とシルエに窘められる。「大人気ないことを最初にしたのはシルエだが…」という言葉をノアラは口にできなかった。
「テオも自分専用のペンとインク、欲しいよね? お買い物に行こうか?」
食器を洗い終えたシルエは満面の笑顔でテオを誘った。
「えっと、あの、急がなくてもへい…き…」
テオの返答は尻窄みになっていく。ちらちらと上目遣いでシルエの顔を窺うが「行きたくない」とはとてもではないが言えない。
「そんな不安にならなくても、テオのことはしっかり守るよ? 僕もこう見えて結構強いし」
「シルエ、無理強いは良くない」
「無理強いなんてしてないよ。テオだって留守番ばっかじゃつまらないでしょ。それに模写をしたことで上手くなっていることも実感しているだろうし、町にある絵画を見るのも刺激になると思うんだよね。あの図書館で見た植物誌も楽しかったでしょ?」
そう問われてテオは指をそわりと動かした。図書館で見た本に興奮したのは確かだが、ひどく緊張したのも覚えている。大人に囲まれるのはまだ少し怖い。探るような視線は尚更だ。シルエと二人きりで町に行くのは躊躇われた。
興味と期待、恐れと怯えに揺れる目と震える指先を見て、シルエはふぅと小さく息をついた。
「んー…。今日のところは僕一人で行くことにするよ。サラドと一緒なら迷わないんだろうけど、兄さんには優先事項があってね、何日も帰ってこないこともザラにあるから。テオも考えてみて」
テオは勇気の出ない自分を申し訳なく思い、しゅんと項垂れた。
「そんなに思い詰める必要はない」
ノアラからの慰めにテオはこくんと頷く。
「それよりも、手伝って欲しいことがある」
ノアラが屋敷の奥を指差したのを見てテオはドキリとして背をしゃんと伸ばす。休憩なしで何時間も「うー」だの「あー」だの声を出し、それによって砂が跳ねる動きや描く紋を書き留め続けたのを思い出し、テオはごくりと唾を飲んだ。とことんまで突き詰めるノアラに従うには体力と根性がいる。
「あ〜、ノアラってばそれで引き留めたの? ずるいなー。自分は味方みたいな言い方して、さ。まあ、いいや。何か買って来て欲しいものはある?」
意地の悪い笑顔を向けられ、ノアラは「違う、違う」と否定するように胸前で手の平を見せ首を横に振った。
灯台の町を訪れたシルエはいくつかの水路を軽く見て回った。
町の中でも完成間近の劇場は存在感を主張している。向かいには新築された菓子とお茶を楽しめる可愛らしいカフェが一足先に開店しており、数組のお客が入っていた。もうすぐ公演となる劇への期待に胸を膨らませた女性たちが豪奢に飾り立てられた建物の外観を眺め、うっとりとした表情でお喋りに花を咲かせている。観劇に合わせてドレスを新調したのだとか、誰を誘ったのだとか、主演の俳優の評判など。
まだ空席も目立つが、いざ劇場が開幕すればこの店にも客足が殺到するだろう。他にも観劇の客層を狙った小物雑貨の店やアクセサリーを扱う店が軒を連ねている。
(ふぅん、ターゲットは貴族や富裕層だよね。やっぱり女性向けなんだろうな。サラドの思惑とは違ったみたいだけど、これが当たってディネウの方が霞むといいんだけどね)
門前にある柱に掲げられた公演作のポスターは確かに『精霊と人の恋』の衣装を現代に置き換えたもの。それを横目にシルエは公園を抜けて図書館に向かい、地下に秘された遺跡の書架を漁った後、テオにペンとインクを購入した。
「さて、と。一番の目的を果たさないとな」
上水道の下端で標本となる水を採取して、上流に向かう。手の中には貝殻と石を組み合わせた魔道具がある。貝殻はディネウが港町で貰ってきてくれたもので、北の海で採れるもの。冷たい海でゆっくりゆっくり育った貝は扇形に形成された成長線が密で硬く頑丈だ。南洋で採れる貝のような美しい輝きはないものの、その白さは質実剛健な印象を与える。貝殻の表面を削った窪みにきっちりと嵌め込まれた石は二種類。水に磨かれた丸い石は白地に緑の斑模様があり、河原で拾える特に珍しくもない、ちょっと綺麗な程度のもの。もう一つは先日の騒ぎでノアラの魔力から作られた緑色の結晶のほんの小さな破片。
(この貝殻そのものの形を保ったまま、浄化の力を込めるのにも引き出すのにも僕は苦労したっていうのに…)
この形に落ち着くまでにシルエは何種、何個もの貝殻を無駄にした。水の中で力を発揮し続けるようにと貝殻にノアラの力も付与しようとしたが成功しなかった。結晶の破片には音術がノアラにより付与されている。
音術は護符に術をかける際は風の術で振動の振幅を大きく作り、シルエの詠唱と術の行き渡る範囲を拡げたが、今回は水の中で使用するため水の流れる音に浄化の力がのるように工夫されていた。
(ちょっとの間に音の汎用が利くように進歩させているとか…。しかもこんな何でもなさそうな石に、浄化と相性が良さそうだからって、清めの術を応用させるとか! くぅ…ノアラの有能さめ…)
夕暮れが迫り、水場から人がはけるのを待つ。町を縫うように走る上水道のうち、効果の確認のしやすさからも住宅の多い地域の一本に狙いを定めた。屈んで水を汲む振りをして取水口を覗く。魔道具が流されてしまわないよう、排除されないよう、また取り外す必要が出た場合も考慮し慎重に設置する。
(水瓶ではそれっぽい反応はあったけど、水道でもうまく三種が連動し続けるかな…。内緒で試験場になってもらうのは悪いけど、効果が出なくても悪影響なんてないはずだし。とりあえず、支流の一本につけて…っと。うーん、この土地柄ならもう少し南に生息する貝殻の方が馴染みそうだな)
魔力を流すとポワリと光り、サラサラサラとせせらぎが一瞬大きく聞こえた。初動は問題なさそうで安堵する。
そこにいるであろう水の精霊に「水の恵みを」と感謝し、シルエはずぶ濡れになった腕を振って水を払った。
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