116 魔馬ヴァン
腹を裂かれた巨大な山犬が舌を出してどうと転がる。それを見て、通常の山犬たちは耳を伏せ「キューン」と鳴き声を上げた。尾を後ろ脚の間に巻き込み、姿勢を低くして動きを止める。
ビュンと空を切る音を立てて大剣を勢い良く振り、ディネウがひと睨みすると山犬の群れは林の奥へと退いて行った。
住民や家畜が被害に遭ったわけではないので、脅威となる魔物を倒せればそれで良い。自警団の若者たちも無理に山犬の群を追撃しない。
「大人しく逃げてくれて良かった。このまま縄張りまで帰るだろう」
サラドが弓をくるっと回して持ち換えた。声に出さずに紡がれる鎮魂の祈りに、導かれた小さく淡い光が天に昇っていく。木漏れ日に紛れて目立たない光の行方をディネウも見守り、胸に手を当てた。
「山犬は群れの絆が強いからな。一匹が魔物に变化しても逃げ出すどころか、リーダーに据えたんだな」
この場には山犬の他に巨大栗鼠も血を流して横たわっている。フサフサの尾はそれだけで毛の化け物のようだ。
人の手の平に乗るくらいの栗鼠がちょこまかと走り回り、そこら中に木の実を隠す姿は可愛らしい。だがひとたび人の子供ほどの大きさになると、堅い実を削る前歯も、幹に張り付く鋭い爪も、すばしっこい動きも、脅威でしかない。
巨大鹿を逃がしてしまった山犬はこの栗鼠の臭いを嗅ぎつけ横取りしに来たらしい。大きな体を維持するにはそれだけ獲物も必要とする。あのまま暴れる魔力を身に宿していては、いずれ群の仲間のことも忘れて傷付けただろう。
「くっそ。一気に増え過ぎだろ。これじゃあ他の生き物や木々も根こそぎ食い尽くされちまうぞ」
「この辺にあの土塊が撒かれたのが何日前なのか…。まだ警戒が必要だろうな」
「やはりシルエを叩き起こして連れてくるべきだったか。気休めでも浄化してもらいたいぜ」
ディネウは馬の背に放っていた毛皮を取り肩に掛けた。短毛で黒一色に見えるが、目を凝らすと同色で斑模様がある。以前に腰に巻いていた魔物の亜種の皮だ。滑らかな手触りだが、防御力は同じく高い。
馬は早く行こうと言いたげにサラドの背に鼻先をぐいぐいと押し付けている。
「お前ら、大事な糧だ。無駄にすんなよ」
ディネウが声を張ると周囲から「はいっ」と威勢の良い返事が返って来た。魔物を食すことを忌避する者もいるが、今仕留めた二体は大きくて凶暴ではあるが生態は普通の獣と変わらない。肉や皮や骨を無駄なく利用するのは大事だ。サラドたちや彼らより年上の傭兵たちは多少の悪食には慣れている。そうでもしなければ生き抜くことはできなかった。
「じゃあ、ここは任せて別の所も様子を見に行くか」
ガリガリと後ろ頭を掻くディネウの手に馬がフンフンと鼻を寄せる。頭髪をカプリと噛まれそうになり手で押し退けた。不満そうに吹きかけられた鼻息が手の甲を濡らす。
「なあ、こいつ、なんか小さくなったよな? こんくらいなら連れて歩いてもびっくりされるくらいだろ」
サラドとディネウ、まあまあ大男の二人が乗っても余裕があるように見える馬は、それでも最初に見た時よりも安定した。重量級の荷馬車を牽く脚も体つきもがっしりした大型の馬よりちょっと大きいくらい。ただ体格も脚も細身で、縮れたたてがみと尾が特徴的で見目は珍しい。
「後天的に肥大した魔力を徐々に抜いて大地に返してみたんだよ。その身に対して強すぎる魔力は苦しめる原因にもなるし。暴れるのはそれもあるのかなって」
「手負いみたいなもんか。だとしたらそのまま続けて魔力を抜けば元に戻れるのか」
サラドは眉尻を下げて首を横に振った。
「残念だけど、完全には抜けない。一度、体に巡った魔力を失くすのは命を脅かすから」
「そうか…。なら、鞍と馬銜を作ってやらないとな。あと名前はどうすんだ?」
ディネウが首の付け根をぽすぽす叩くと馬は目を細めた。茶色の大きな目は明るく光を映す。
「名前…うーん…ディネウに何かいい案はない?」
「俺か? こいつもお前につけてもらいたいんじゃないか?」
「オレよりディネウの方が乗りこなしそうだし。より懐くだろうから」
「…なら、ヴァン、はどうだ?」
「いいね。ヴァン。いい名をもらったね」
サラドがヴァンと名付けられた馬の鼻梁を撫でると、鼻面を伸ばして甘えてくる。傭兵たちも二度見する大きさと普通ではない体格でも、この仕草を目にすれば危険視はしない。
「よし、ついでに防具屋のおやっさんところに頼みに行くか。俺のも直してもらわないとだし」
ディネウはぼろぼろの小手に目をやって、愚痴をこぼす防具職人の姿を思い浮かべ「おやっさん、頑固だからなぁ…」と溜め息を吐いた。
「オレはもう少しこの辺を調べてみる」
「ああ、頼む。偵察組もかんばしくないみたいだしな。土塊を見たってヤツも、依頼主らしい姿を見たヤツもいない。…撒いたら始末されている可能性が高い」
「…うん」
サラドは中空に目を向けた。魔物が現れた事による一時的なものかもしれないが、精霊が極端に減っている。このままでは今冬の気候は荒れ、春の芽吹きにも影響が出ると予想される。
「じゃあヴァンのこと、頼むね」
ディネウが片手を挙げて応え、ひらりとヴァンに跨がる。早い段階でサラドに保護され、自我を食い尽くされて暴れるだけの存在に成り下がらずに済んだヴァンは、本能で身の内に宿った魔力を走る力に換えた。魔馬ヴァンはそれが喜びであるように飛ぶ如く駈け出す。まだ鞍がなく、調教も十分ではないため、背のディネウが一瞬ぐらりと揺れたが、振り落とされることはなかった。
――愉しそう
「一緒に行ってあげて」
その走りを見てうずうずした様子の風の精霊に声を掛けると、ヴァンを追いかけるように歌いながら飛び去る。びゅうと突風がサラドの髪を引いた。
ディネウに上がった報告では今のところ情報なしだったが、町や村での聞き込みは傭兵も動いてくれている。サラドは街道や人里から離れ、村々を繋ぐ細道を通り過ぎ、林の奥へと進んだ。不自然に折られた枝や樹木に付けられた目印の傷がないか、獣道に人の足跡がないか、新しく踏みしめられた草がないか注意を払う。
そこにフラフラと流離うような人の足跡を見つけ、行き先を追う。あまり土地勘がないのか、意気地がないのか奥へは向かわず、道とある程度の一定距離を保った範囲を進んでいた。引き返す向きのものがないことにサラドは嫌な予感がした。人の匂いを警戒したのか、動物の第六感が働いたのか、小獣が避けて通った形跡もある。
ここまでの追跡で立ち止まった様子がある箇所には必ず枯れた倒木や朽ちた古木があった。生命が宿るのと精霊が宿るのは似て非なるもの。大樹や長樹齢であれば必ず木の精霊が宿っているわけではない。人の手が入り整備された林には精霊が宿る木は多くない。それでも、この一致は精霊の宿っていそうな木を狙ったと見ていいだろう。サラドは悔しさにギリッと歯噛みした。
(ディネウのいう子供は山の火災場所に撒けと指定されたというし…。山火事があった場所はその熱がきっかけで芽吹く種もあれば、枯れた木を好む虫、その虫を求めて鳥が集まる。再生しようと活性化する地の力を狙ったんだろうか)
とうとう足跡が途切れた。ちょうど人が横たわったくらいの範囲で下生えと土の一部が黒く焦げている。五官の作用を用いて人がここで消されたと断定した。燃え残ったほんの小さな布の端切れを拾い上げる。
その傍に立つ、根元に大きな洞を持つ大木に声をかけてみるが返事はない。幹の途中にある小さな洞から栗鼠が出入りをしていた。引っ越すことにしたのか巣材を咥えてる。
木の洞は小獣や虫にとって良い隠れ場所や巣となる。長寿の広葉樹には代謝を減らすためにも樹洞が存在することが多いが、それが大きくなりすぎると自身を支える力を失い、倒れる要因にもなってしまう。この木はもう生命を終えてしまったようだ。
はぁと重く息を吐いて、鎮魂の祈りを捧げた。ざわざわと枯れかけた樹冠が風に揺れる。
祈りで澄まされた耳に魔物に気圧された精霊の怯える声が聞こえてきた。その声を追って進む。ここの精霊はまだ留まっているが、仲間が一斉に精霊界に戻った気配は感じているらしい。
――逃げたい
――怖い
――苦しい
特定の土地や大岩、川や泉などに愛着をもっている土の精霊や水の精霊は安易には離れない。完全に精霊界に帰ることを決するのは見捨てることと同義だ。まして木の精霊は宿った樹木と運命を共有する。
(うん。もし、手助けが必要なら、道はここに)
右肩の鎖骨付近に手を添える。この林や周辺の村の暮らしを思いやるなら精霊にいて欲しいと願うべきだが、本来なら我慢強い土の精霊が苦しむ声を聞いているのはサラドにも苦痛だった。
(一時的な避難でも、ずっとでも)
それを決めるのは個々の精霊の意思。サラドは止めることはしない。
更に奥へ奥へと分け入り、周辺よりも太く立派な木の元で足を止める。
「ごめんね。他の精霊たちが帰ってこなかったら、苦しいよな」
土と水が乏しく、風が季節を巡らせなければ木は徐々に弱っていくだろう。
――大丈夫 ゆっくり待つ
「…うん」
――『痛い 腐らされる』と仲間の叫びが聞こえた 根元に変なものが置かれたと それから声が届かなくなった
「変なもの…」
――土と同じく見えて違うもの ここにはまだ来ていない いずれ順番が来るのか…
サラドは言葉を詰まらせた。木の精霊の怯えた声に根拠のない気休めなど言えない。
――…死の匂いがした
足元の影から遠慮がちな声がした。
「死の…、それは」
傷付いたように、戸惑うように揺れる影にサラドは息を呑む。
「それは、まだする?」
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