115 取り分
ビリビリと肌を刺す殺気を纏い一足飛びにやって来た巨大な牡鹿は頭を下げ、首を捻って角に絡む木を薙ぎ倒した。ドスンと地が振動し、泥山がバラバラと崩れ、誰かが「ひゃあ」と悲鳴をあげる。
光を吸収する漆黒の目、ゲ・ゲ・ゲ・ゲと響く威嚇の声は空を震わす。興奮しているのか、更に大きく見せようと後肢で立ち上がった巨体に日が遮られ、全てが影の中に収まった。
「皆! ここで押し留めるぞ!」
「おー!」
負けじと作業員たちが鬨をつくる。勢いをつけて頭突きを喰らわす鹿にスコップで応戦した男が吹き飛ばされ、角の尖が地を抉り土が舞った。後肢の腱を狙って斧を振った男も蹴り飛ばされる。巨体はびくともしない。
「くそっ! やられてたまるか」
攻撃を受けてもすぐさま体勢を立て直し、鹿に背中を見せまいとするが、それは殆ど気力の成せる技だ。
ショノアは剣を、マルスェイも杖を構えた。何度か踏み込もうとしつつも鹿の動きに翻弄されタイミングが掴めない。作業員たちの輪も次第に崩されていく。グンッと頭が振られ、鋭く研がれた角の尖が襲いかかる。間一髪、避けたショノアを鹿がほんの少し首を振ったことで向きを変えた角の別の尖が下方向から突き上げる。革鎧に大きな裂傷を作り、よろけて二三歩後退したところに振り戻した角が迫り来る。
(まずい。このままでは――)
目を剥くショノアの眼前で突然、虹色の光が弾けた。赤い閃光が視界を掠めたかと思うと、炎がその巨体を包み爆ぜた。鹿が唸り声を上げ、堪えるように四肢を折った隙に「どりゃあ」という雄叫びが頭上から降り、ドスッ、ドサッと二回に分けて地響きが起こった。ぬらぬらとした赤い血が足元を濡らしていく。
ショノアの胸前には動きを止めた角の先端がある。ほんの一瞬でも遅かったら…。
「やった!」
「すげぇ!」
「助かった…」
キーンと高音に塞がった耳に作業員たちの声が染みてくると、ショノアの冷えた心臓も主張を始めた。はっはっと短く息が吐き出される。
斬り落とされた鹿の首がどんと転がり、その向こうには巨体が横たわっている。鹿の片目には矢が刺さっていて矢柄が燃え落ちるところだった。
首の断面の近くではどっしりとした体軀の男が大剣についた血を振り払っている。左にだけ付けた肩当てには目立つ傷がある。それ以外にも革鎧のそこここには戦歴を語る傷がたくさんついていた。腰に巻かれている黒の鞣し革は端からもこもこの毛が覗く。紺の艶を帯びた黒髪と相まって、全体的に暗色で揃えられ渋みを増した姿は威圧感だけでなく、「この人さえいれば」という安心感も与えた。
「アニキ!」
「おう、怪我人はいるか?」
ディネウの周囲に作業員が集まりかけた時、空でパンッと何かが破裂し、青い煙がたなびいた。眉を顰め「ちっ」と舌打ちする。
「こいつは肉も食えるから無駄なく皆で分け合えよ。すまんが、後は任せた!」
ディネウはさっと胸に手をあて糧への祈りとした。射手の乗った大きな馬が風のように駆けつけ、ディネウを乗せるとビュンと去る。
「アニキ…行っちゃった…」
魔物が倒されたと知り、泥山の陰からそろそろと村の男衆が出て来た。「食べられる」という言葉はしっかりと耳にしていたらしい。これだけの巨体であれば分け合っても冬の備えに申し分ない。毛皮も値打ちものになるだろう。
「ショノア、大丈夫か?」
「ショノア様、大丈夫ですか?」
マルスェイとセアラがショノアに駆け寄って来た。ニナは逆手に構えていた刀身の細い短剣を静かにしまい、馬車の元へ戻って行く。
「…ああ、大事無い」
ショノアは穿かれていたかもしれない胸を擦って、深呼吸をする。遅れて冷や汗がどっと吹き出した。彼の無事を確認してセアラはぎゅっと握りしめていた手を解き、肩の力を抜いた。
街道が通る方向の林から微かに聞こえる喧噪に「ガルゥ」という咆哮が混じり、勝利に湧いていた人々も不安げな視線を向ける。
「あの馬に乗っていた射手はサラドさんですよね」
セアラは馬が走り去った方角を切なそうに見遣った。
「これが剣匠の技…」
鹿の首は骨を砕くことなく、継ぎ目で断たれている。
「大魔術師はどこにおられたのだろうな? 燃やし尽くすのではなく、瞬間的に大爆発して消える炎など…。なんて変種に富んだ術だろう。素晴らしいな!」
相変わらずのマルスェイ節に放心状態だったショノアも我に返った。
「セアラ、怪我人がいるようなので頼めるか?」
「はい、もちろんです」
「私も手伝おう」
マルスェイが馬車の荷台に救急道具を取りに走り、セアラは一番重症と思われる人の元に行き〝治癒を願う詩句〟を唱えた。作業員たちも各々、応急処置を始めている。とても手慣れていた。
「…ありがとうございます。だいぶ痛みが引きました」
「完治できなくてごめんなさい」
「とんでもない! 奇蹟の力を使っていただけるだけでも、どれほどありがたいことか」
恐縮する怪我人にセアラは眉尻を下げて困ったように微笑んだ。ポケットを漁り寄付金になりそうなものを探す手をそっと握って留め、首を横に振る。
「…本当にありがてぇ」
今度は拝むように手を合わせられセアラはますます困り顔になる。
「はいはい、彼女も困っておりますので、そこまでにしてください。傷を見ますよ?」
追いついたマルスェイが薬や包帯が収められた箱型の鞄をセアラに渡し、呼吸を整えて清めの術の詠唱に入る。
(この世の万物に…水に感謝を…その力を借り受ける…)
心を鎮めて体を巡る魔力に意識を集中させる。馬車旅で連日訓練していたマルスェイはやっと少しコツを掴んできた。
「冷たっ」
驚きの声を上げ、体をビクつかせた怪我人は傷が滲みて顔を歪めるも、血と泥汚れが洗浄されいることに戸惑いの表情を浮かべた。
(…上手くいった? やったぞ!)
マルスェイは拳をぎゅっと握り、心の中で歓声を上げた。微細な制御ができず、衣類や髪までびしょびしょではあるが、やっとそれらしく発動できた。怪我人を前にして成功の喜びに口端が上がりそうなのを堪える。
セアラはテキパキと手当てし、マルスェイは次の怪我人の元でまた清めの術を唱えた。
村人の一人が鹿の解体のために人手を集めに帰り、わいわいと巨体を囲むところに王子の一行が様子を窺いつつ戻って来た。
「…これが魔物」
王子は目を見張り、血の生臭さに「うっ」と口鼻を覆った。護衛と従者はまだ警戒を解かず神経を尖らせている。兵士たちは仕留められた切り口の鮮やかさに吐息を漏らした。
「立派な角だな」
再び平伏した村人たちは低い姿勢のまま顔を見合わせる。鹿の角は小物作りなどにも重宝するが、王子の言葉の意味はなんとなく察せられた。角は献上されることになるのだろう、と。
「誰か、この角を王都まで運べ」
村人と作業員、それぞれの代表者は領主の元を訪れるように言い渡し、王子は馬車に戻った。
「殿下、一度王都へ戻りましょう」
侍従は何度目かになる説得を試みた。
近々、聖都では身罷られた導師の鎮魂の儀が執り行われることになり、王族も出席する予定だ。常ならば王配殿下が女王陛下の名代として向かうところだが、外交を担っていた王子の父である王配殿下は未だ聖都の神殿で禊と療養の身。
そんな折に王都付近で魔物が出現し、女王はその対応に追われている。王都の護りの源である火の指輪が壊されたことを知るのは女王と第一王子のみ。いつ魔物が王都に侵入するか気が気ではない。
また、王都の火事騒動で求心力も落ちていた。王家は強固であると、民に心を砕いていると示しておかなければならない。王子は大事な儀式である収穫祭を終えるのを待って、山火事の被害にあった者たちを慰問することに決めた。父に頼ることができない今、自らが力を誇示しなければと思った故だ。
しかし、王都周辺、主な街道にも魔物が出現している中、王子にばかり護衛や兵士を割くことはできない。その身を失わせてはならないと臣下は賛成しかねた。港町、街道の魔物は比較的すぐに傭兵や自衛団が対処し、被害も少なく済んでいるという。王都周辺はといえば、騎士団と兵士が出向いているが、怪我人もそれなりに出ており、退役を余儀なくされた者、または望む者が増えているのが現状だ。
「まだ、山火事の現場すら見ていない」
「…ご覧になったでしょう。あの巨大で凶暴な鹿を。御身を第一に考えませ」
「しかし、来る聖都での儀は大事な外交の場にもなる。隣国の要人とまみえる際に、何も知らぬ王子では立つ瀬が無い」
寧ろ街道に魔物が出ていることの方が由々しき事態である。儀式の延期が望ましいが、神殿は王家と一線を画す存在のため要望は出せない。
主である王子に実績を作りたいのはやまやまではあるが、侍従はやきもきとした。
翌々日、ショノアたちは馬車で鹿の角を載せた二輪の荷車を牽引して王都を目指していた。前を行く馬車は黒塗りの立派なもので、周囲を護衛と兵士に取り囲まれている。連日、轍の残る悪路を通って来たので石畳の敷かれた街道は快適だ。
「あの場に居合わせた第三者として公平な意見を述べて欲しいだなんて、良いように使われたな」
マルスェイが皮肉げに肩を竦める。
道の復旧作業をしていた傭兵中心の者たちはもとより地元の村人と争う気などなかった。一方的に詰られ、作業を邪魔され、最終的には鹿の皮革と肉の取り分でもいちゃもんを付けられていた。村人たちは自分たちの生活範囲内で仕留められたものだから、そのほぼすべてを置いていけと言い出していたのだ。当然、自分たちのものにならないとわかった角の運搬には協力しようとしない。本来は危険な倒木の除去に使う目的で用意されていた荷車を傭兵から借り受けてショノアたちが領主の館まで運ぶことにし、なし崩しで王都までとなった。
「確かに、我々の目的地は王都ですから、ついでに済みますし? 我々の主は陛下並びに王族ですけどね」
「そう愚痴るな。これも我々の仕事といえるだろう」
ショノアは道の両脇に広がる林を眺め、魔物の気配に注意を凝らす。巡回している自警団の姿は何度も見かけたが、あれから異変は起きていない様子だ。
「このまま治まってくれるといいのだが…」
あの後、この土地を治める領主の館では王族の突然の来訪に上を下にの大騒ぎとなっていた。
領主は確かに『最強の傭兵』から道の惨状、山で魔物の発生が懸念されることを伝えられたという。其れを以て、もし魔物が出ても応戦できる傭兵に復旧作業の依頼をした。山の見廻りもそうだ。隣接する町村にはその旨の伝令も派遣していたのだが、あの場に居合わせた村人はそれを聞く前だったらしい。鹿の分配も領主の采配で取り決められた。どちらかといえば実際に戦った作業員に村々にも分けてくれないかと要請した形だ。代表の傭兵は快く了承したが、村人は最後まで「工事の報酬だって本来は自分たちに割り当てられたはずなのに」と納得していない様子だった。
マルスェイは村人たちの態度に立腹気味だ。彼も領主の息子として、多少なりとも領民と関わってきた。国境を有するモンアントでは領民との協力体制は強固。いざという時には私兵としても活躍してもらう。その分、領民を守る力を領主はつけねばならない。
如何に山火事の被害で先行き不安だとしても、あの強欲さには呆れてしまう。傭兵たちが作業を投げ出したとしても、彼らが肩代わりするとも思えない。何時までも復旧しない道に対し、文句だけは領主と傭兵の両者につけることが目に見えた。
「助けられるのは当然で協力はしないなど…。ショノアも騎士だってハッキリ告げて咎めれば良かったものを」
「…それを言うなら貴殿も宮廷魔術師だろう?」
「民には宮廷魔術師がどれほどの地位か伝わりにくいし、そもそも認知されていない」
マルスェイは不貞腐れたように腕を組んだ。
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