114 愛とはどんなもの
ノアラの屋敷はもともと豪奢な造りではなく、柱や壁、調度品に彫刻や意匠を凝らしたものはない。荒れていた部分の修繕を行い、住みよく整えると部屋数や広さはそこそこあるが、素朴な家といえる。
シルエが寝室として使用している部屋もこれといった飾りもなく、殺風景だ。同じような広さの部屋が数室続いていることから、元は使用人の居住区だったのではないかと思われる。寝台と小ぶりの書き物机と箪笥、書棚があるくらい。書棚も本が数冊と書付けが乱雑に積まれているだけでスカスカだった。聖都での暮らしとさほど変わらないが、窓の鎧戸を開ければ陽射しと風が入る点は大きく違う。風は少し冷たいが心地良い。
居間のテーブルで硬直したままのシルエを「手が冷えてる。ディネウもああ言っていたし、休んだ方がいいよ」と下がらせたのはサラドだ。当たり前のように皆が使用した食器を台所に片付けに行くサラドを追いかけるようにして居間を出て、気付くとひとり、部屋にいた。ドサリと寝台に身を投げ、横たわる。
嫌でも先程心に去来した違和感が頭を占める。
以前より、シルエは自身が他人と比べ異質なのかと疑問に感じていることがある。生物として本来あるだろう色欲、それに付随する情動に欠けるのでは、と。
恋や愛などの感情は未知のもの。魔物との闘いや災害救助の真っ只中に身を置き、それどころではなかったのもある。その後、聖都に軟禁され、周囲の人間は観察対象、いざという時に使える人物かどうかの見極めばかりしていた。
サラド、ディネウ、ノアラには兄弟として仲間として親愛や友情はある。養育してもらったジルやマーサに感謝している。血の繋がりなど関係ない。偶にイラッとすることはあっても、皆大事な人で、一緒にいたいと心から思える。
サラドは絶対的な信頼を置ける。一番の弟でありたい。この力があることでサラドの近くにいられる。サラドの役に立てる。そういう意味では奇蹟の力に目覚めて良かったと思っている。
子供の頃から「サラドに依存するのも大概にしろ」とディネウに諫められることが何度もあった。そういうディネウだって「安心して背中を預けられるのはサラドだけ」だって思っているくせに、と反発もした。
サラドが他人を目に掛けるのは面白くない。嫉妬もする。普通の兄弟にはない執着だろう。それは自覚している。
こと恋愛においては、相手の想いどころか、自分の感情にもピンとこない。
子供の頃、少し年下の女の子が恥ずかしそうに村祭りに誘ってきたり、自分のために花を摘んでくれとせがまれた時には煩わしいとさえ思った。その娘自体はどうか知らないが、その親兄弟がサラドのことをよく言っていなかったのもあって、近付きたくもなかった。
ディネウの伝手で色街に寝泊まりした時も、体が成長すると発散しなければならない欲望が出るとか、面倒くさいなと思った程度だ。ディネウも慣れているからか、娼婦たちが薄着でうろうろしていても気にしていなかったし、自分が何も感じなくてもそんなものかと思っていた。
ディネウの初恋を目の当たりにした際は「よく知りもしない相手に何で?」と疑問に感じたくらいだ。しかも生きてすらいない相手。シルエからすれば気付かない方がどうかしている。
気の毒ではあるが、恋は盲目というのは本当で、ディネウはどこまでバカになるのだろうかと心配になったくらいだ。
ディネウはその後も一途だった。どんな美人からの秋波にもなびかず、娼館で無聊を慰めるようなこともしない。酔っ払って「もう必要ないから羅切したい」と言い出した時には本当の阿呆になったのか、それとも変なものでも食べたのかと耳を疑った。それをサラドが真に受けて一生懸命宥め諭してしたから余計にたちが悪い場面だった。
サラドが特定の誰かに特別な感情を持ったことは、シルエの知る限りはない。助けられた人がサラドに淡い想いを抱くのは何度も目にしている。けれどサラドは寄せられる好意には鈍感だし、深く関わることに臆病だ。だからこそ、求婚しようしたという話には心底驚いたし、未だに信じられずにいる。
ノアラはとにかく人全般と接したがらないから、そんな話が出たらそれこそ世界がひっくり返るだろう。
ディネウのように相手に出会えば一変するのかも、と思った時もある。だが、そんな日は終ぞ訪れない。だんだんと他人に対しての感情や興味が希薄なのかもしれないと気付き出した。
吟遊詩人の詩も芝居も酒場の与太話でも恋や愛は溢れているのに、すべて架空のことのように感じる。溺れるように他人を求めるなんて滑稽としか思えない。
世の人々もそんな経験をしてみたい、という憧れだけなのだろう、と。同調圧力やそれが普通だと刷り込まれ、周囲の皆もそうだから、そうしなければと思い込んでいるだけなのではないだろうか、と。もしくは子孫繁栄のため大いなる意思にでも操られているのだろう、と。
だが、どうやらそうでもないらしい。自分とは違う価値観の者が大多数らしいのだ。
恋する切なさも苦しみも喜びも知らない。だからといって困ることもない。
この無味乾燥とした情が、もし高魔力を保持する故ならば――。
ゾワリとした寒気が背中を這い、指先、足先が冷えていった。
ふわふわとした眠気に瞬きを数度すると、窓の鎧戸は閉じられ、布団が掛けられていた。薄暗い部屋の中で、書き物机の上に置かれたランプが温かな光を灯している。
「いつの間にか眠ってたんだ…」
神殿にいた頃の習性が抜けきれず、常に気を張り詰め、シルエの眠りは浅い。部屋に誰かが侵入したことにも気付かないなんて、と自嘲気味に顔を両手で覆った。
居間に降りると、テーブルの上に準備された軽食とメモを記した黒い板が置かれていた。玄関の脇に積んだ薬の木箱がなくなっている。庭先ではテオが写生に勤しんでいた。馬の姿は見えない。日の高さからまだ昼過ぎくらいに見えた。
(あれ? まさか丸一日寝てたとか?)
屋敷の中に人の気配はない。ノアラの部屋、地下の演習室、と次々に部屋をあたっていく。調薬室とは逆の端に位置する円筒形の書庫まで来るとノアラが文献を漁っていた。
「どう? 何か見つけた?」
突然かけられた声にノアラはゆっくりと振り返って首を横に振った。足元は書棚から引き抜かれて山積みにされた本で埋まり、足の踏み場がない。
「裁判や処刑を世捨て人が気にするとは思えないもんね」
「他から力を得た記録や、寿命に関するものがないかと」
「古い文献か…。聖都と王都の書架…。ちょっと潜入してみようか」
シルエがぼそっと呟いた。ノアラの眉間に皺が寄る。
「…。相談してからの方が良いのでは…」
「ノアラは小心者だなぁ。大丈夫だって。ま、その前にご飯を用意しといてくれたみたいだから一緒に食べない? テオにも声かけて」
シルエに誘われて書庫を出ようとしたノアラの傍でドサドサと本の山が崩れた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
街道から離れた町村を繋ぐ道は舗装がなく轍がくっきり残りガタゴトと揺れる。ヒヒィン、ブルルと馬が控えめに嘶き、カポカポと歩みを緩め、馬車が停車した。
「ニナ、何かあったのか?」
ショノアが外に顔を出すと、進行方向の道を塞ぐ形で揉めている集団がいる。ニナは馬車の方向転換が可能で且つ騒ぎに巻き込まれない距離を見定めていた。
「おや、土砂や倒木がすごいですね。奥には…立派な馬車があるようですが…」
「何があったのか、俺が聞いて来よう」
マルスェイが遠くに目を凝らす間にショノアが馬車を降りた。
「何をしている! さっさと道を開けないか」
「ここはおらたちの土地だ。それを勝手に小奴らが。きっと山を荒らしに来たに違いない」
「違う! おれたちは道の復旧作業を言い付かっているんだ。領主の許可も得ている」
「嘘こけ! さっき山で見かけん男らがうろうろしていた! お前らの仲間だろう!」
倒木を前に土で汚れた作業員に詰め寄る地元の村人と思われる男衆。「おらたちの財産を奪う気だ」と声を荒らげている。道を塞ぐ土の山を麻袋に詰めて荷車で搬出する作業をしていた男たちの邪魔をし、一触即発の事態だ。
倒木や土砂はぎりぎり馬車一台が通れるくらいまで除けられていたが、村人たちは脇に揃えていた倒木を道に崩したらしい。それに対し、向こう側にいる馬車に随行している兵士が「早く通せ」と怒鳴っている。主人を待たせているからか苛立って居丈高だ。
(何だか、複雑そうだな…)
ショノアが仲裁に入る前に奥の馬車から身形の良い男が降り、従者が止めるのも聞かず、護衛を引き連れて前に出た。
(あれは…。まさか)
「山火事の見舞いに来たが、これはどうしたことだ? まるで洪水の後のようではないか」
「殿下、危のうございます。馬車にお戻りください」
「殿下の御前だ。控えよ」
従者の言葉と纏った衣服に付けられた紋章に、村人たちは慌てて平伏し作業員たちも跪く。ショノアも臣下の礼を執った。
そこにいたのは第一王子だった。
「その方らはこの土地の者か? 山火事のその後はどうだ? 災害に紛れて貴重な木を切り倒して売るうつけ者もいると聞く。見廻りはどうしている? 冬の備えに支障はないか?」
王子は現地で質問しようと準備していた事柄を矢継ぎ早に問うた。だがここには身分の高い者と接する機会などまずない者しかおらず、皆必死に額ずいている。王子はちらっと従者を見遣った。
「この騒ぎは何事ですか? 状況を説明してください」
「はっ。こちらの道の工事を請け負った者たちと地元の者が揉めているようでして」
コホンと咳払いをした従者に最初に前に出ていた兵士が答える。
ただならぬ様子を感じ取ったマルスェイはそっと馬車を降りて、いつの間にかショノアの横についていた。
「どうしよう。私たちも行った方がいいのかしら?」
「…馬車の傍で頭を低くしていればいい」
ニナが御者台から降りて膝をついたのに倣ってセアラもオドオドとその横で同じ姿勢をとった。
「双方、言い分もあるでしょうし、作業は中断してもらい、ここは一旦、領主に話を聞くとしましょう」
王子を早く馬車に戻したい従者がそう切り上げた。促されて王子が渋々馬車に引き返した時、街道側の林から鳥がチッチッと騒がしく鳴き一斉に飛び立った。礼を執っていたためと王子殿下を前に頭を上げてもいいものか迷い反応が遅れる。
こんもりとした木々から突き出る三又に分かれた枯角、その直後に低い笛の音が空を裂いた。
「警戒だ!」
その笛の音に不敬を恐れてまごついていた作業員たちも手持ちのスコップや斧、熊手、ナイフなどを構え臨戦態勢をとる。その動きに王子を襲う気かと護衛や兵士が剣を抜くが、彼らの視線は王子には向いていない。
「早く安全な所へ!」
「あんたらはこの泥の影に隠れろ!」
「ひいぃ」
護衛は王子を取り囲み、馬車に押し込めるように乗せ、急ぎ方向を変えて道を戻らせた。兵士も第一の使命である王子を守る為、馬車に従い陣形を組む。村の男衆は言われるまま壁のような泥山の陰に身を潜めた。




