112 束の間の休息
ノアラの屋敷に帰り着いてまず目に入ったのは、大きな鹿毛の馬だ。付け根からくいっと上がった尻尾を揺らし、ご機嫌な様子で駈けている。いや、跳ねている。立ち上がったり、後肢で蹴ったり全く落ち着きがない。小さければ無邪気でかわいい仕草もその大きさと予想のつかない動きで恐怖になる。
「あれに乗っていたのか?」と呆気に取られるディネウに、シルエが「まるで曲乗りだよ?」と苦笑した。
二人に気付いた馬はピタッと止まり耳をこちらに向ける。
サラドは井戸端でノアラの衣類を濯いでいた。傍らには泥を落とすのに使ったブラシや灰汁桶もある。丁寧に汚れを手揉み洗いしている様子から、ノアラには大事がないことはすぐにわかった。ディネウとシルエはどちらからでもなく視線を合わせ、ほっと息をついた。サラドの片頬が赤く腫れていることから、目覚めたノアラに衝動的に殴られたと察する。
「ただいま」
背後から肩をトントンと叩き、人指し指を付き出すと、無防備に振り返ったサラドの頰に食い込む。その瞬間に治癒をかけると、むにっと頬を歪ませたまま「おかえり」と穏やかに微笑まれた。
「何するんだよ」と軽く怒ってもいいのに、この無反応さがサラドに対してちょっと不満な点だった。同じ事を仕掛けた場合、ディネウなら突き指するくらいに力を入れるし、ノアラは目茶苦茶嫌な顔をする。その前に肩に触れようものならぐるっと腕を回して振り払わられるが。
シルエが「もう…」と不満気な声を漏らして指をどけると、サラドは頬を触れる程度に擦った。
「どうすんだ、あれ? 飼うのか」
じっとこちらを見据えている馬をディネウが顎で指した。サラドが顔を向けると馬もピクッと反応を示す。
「え? だって、用は済んだから何処へとなり行け、って放すなんておかしいだろ。好きな時に好きな所に行くのは止められないけど」
サラドは眉尻を下げ、手を再び動かした。ディネウに問われて、寝藁や飼い葉の確保や寝小屋にする場所の改修について思案しはじめる。
「鞍や馬銜、どうすんの? 移動に便利かもしれないけど、ちょーっと大き過ぎ。薬草畑や作物、食べ尽くされそう…」
「食べてはいけないものについては話してあるよ」
「話すって…言葉、通じるの?」
「多分? みんなの事も伝えたし、すぐ懐くと思うよ」
「ホントに?」とシルエは懐疑的だ。懐いたのはサラドだからこそだろう。
パンパンと洗濯物をはたいていると、おっかなびっくり馬が近寄って来た。たらいの水に口をつけようとしてサラドに体で遮られている。洗濯用のたらいでも、馬の顔に対しては小さい。サラドは「大きな水桶も必要だな」とのんびりしているが、水を飲みたいのか、じゃれているのか馬はかなり強めの力でぎゅうぎゅうと押してくる。
その様子に「ホントに食べてはいけないものを聞き分けられるのか」とシルエは甚だ疑問になった。見かねたディネウがたらいをひっくり返して排水すると、水飛沫に馬はブルルッと鼻を鳴らした。
「何だ、その…。驚くことがたくさんあると却って冷静になるもんだな」
たらいを手にするのに下げた頭に鼻孔をつけられ、しきりに匂いを嗅がれたディネウは「食われるかと思った」という言葉はギリギリ口にせず「警戒が解けたようで良かったよ」と馬を撫でた。
「シルエも」と促され、しぶしぶ袖をまくって手を出すも、なぜか嫌われたらしく、馬は顔を上げ耳を後ろに倒している。「べ、別に、いいし…」とシルエが引こうとした手をサラドが取り、鼻梁にあてる。
「試しに…『解毒』をかけてくれないか?」
「解毒? 元気いっぱいに見えるけど、何か毒物を口にしちゃったの?」
サラドはちょっと困ったように微笑んだ。溜め息交じりにシルエは鼻梁から拳を握るようにして手を引く。ぽわっとした光が馬の体を包むも、毒が抜けたという手応えはなかった。しばし拳に意識を集中させていると、フンッと勢いよく鼻息がかかりフゴフゴと匂いを嗅がれ、腕ごとびしょびしょになった。ディネウと同じように頭ごと嗅がれそうになって「僕は食べ物じゃないから!」とシルエは慌てて手で防いだ。
「みんなと打ち解けたようで良かった」
「え? 打ち解け…? …たの、これ?」
馬の耳はもう両脇を向き、目も細められている。サラドに鼻を寄せ、ひとしきり撫でられて満足すると、またピョンコピョンコ駈け回りだした。
「お湯を沸かしておいたから、ディネウも体を流したら?」
「ああ、そうさせてもらう」
ディネウは思いだしたようにブルリと体を震わせた。体を清めたり、水やお湯をたくさん使う作業用の、タイル敷きの小屋は湯気で満たされていて温かい。小屋の中にお湯を移した桶と水瓶、手桶が用意されている。外に併設した二口ある竈の片方は湯を沸かす専用の器が設置され、管が屋内に繋がり、栓付きの吐水口がある。追加の水もコポコポと沸騰し始めていた。薪を足すとパチッと火が爆ぜる。サラドが腰に提げたランタンから小さな火が顔を出すと、張り合うように竈の火も一瞬大きくなった。
「お腹、空いているだろう? スープを持って行くから先に行ってて」
サラドは勝手口へ、シルエは玄関扉へと向かった。
シルエはディネウから託されたノアラの帽子を玄関脇のポールに掛け、マントを脱ぎ、杖を立て掛けた。床には薬の小瓶が並べられた木箱が積み重ねられたままになっている。
居間のテーブルではノアラが食事中だった。入って来たシルエの姿を見るなり、椅子をガタッと引いて立ち上がる。泥まみれだった頭は洗われ金色のサラサラ髪が復活していた。着替えも済み、袖口のボタンもきっちり閉じてある。疲れてはいそうだが顔色も正常。
「…ディネウは?」
「今、湯を浴びてるよ」
シルエは椅子に腰掛けた。ノアラものろのろと座り直す。テーブルに載せられた大皿に掛けられた布巾を捲るとふわっと美味しそうな匂いがした。薄切りにした灰色っぽいパンに蒸した肉と香味野菜を刻んで作ったソースを挟んだものが並べられていた。パンは小麦と草の実、雑穀を挽いた粉で硬めに焼かれているが、挟まれた具との相性が良く、湿らせた布巾で包まれていたことでしっとりとしている。
「はい、お待たせ。ノアラはおかわりは?」
サラドはシルエの前にマグカップを置いた。琥珀色に澄んだスープは肉を取ったあとの骨と野菜の皮や切り落とした部分をじっくり煮込んでとった出汁で具は無い。スプーンなしで手軽に飲めて、温かく胃に染み入る。
パンのひとつに手を伸ばそうとして、シルエはテーブルの隅に置かれたままになっている黒い板に目を留めた。テオへの伝言、留守番を頼むこと、食事の準備はしてあることの旨が蝋石で書かれている。サラドが石板の代わりにならないかと木炭と砂と撥水性のある樹脂などを混ぜて塗り、試作したもの。白い文字を擦ると簡単に粉となって落ちる。
「何これ? 軽くていいね。ちょっとしたメモなら紙を使うまでもないし。考え事の整理とかに便利そう。いいな、これ。木材なら、こんくらいの大きさで作れない?」
シルエが宙に手で四角形を描いた。中々に大きい。石板では難しい大きさだ。
「僕と、ノアラと、それからテオにも。三枚作って。あと、こう、立て掛けられる台も」
「うん。わかった。乾燥させるのに日にちが要るけど、やってみるね」
「あー…」と低音で唸る声が聞こえてきて、ノアラはまた椅子をガタッと引いて立ち上がった。
「すまない。ディネウ…」
居間に入ってきたディネウは腰に布を巻き、もう一枚の布で髪をガシガシと拭いていた。血に汚れた服と傷んだ防具は部屋の端にポイッと投げた。ほぼ裸の肉体が無傷なことにほっとしたのも束の間、ノアラの顔色がそれを見てサッと青ざめる。
「おう、ノアラも何ともないようで安心したぜ。魔力の方は大丈夫なのか」
「…半分くらい失ったが問題ない」
「あれで半分かよ」とディネウは苦笑いし、怪我の心配はいらないと手を振る。コップを使わず水差しから直接ガブ飲みし「ぷはー」と息を吐いた。
「気にしなくても、ディネウは頑丈だし。ねぇ、服を着なよ?」
呆れるシルエを意に介さず、ディネウはどかっと椅子に腰を下ろした。
「まあ、いいや。それで、その謎の土塊の見た目をもう一回詳しく聞かせて」
「ああ、大きさはこんくらいで…。えっと…ちょうどいい、それ、貸してくれ」
ディネウは親指と人差指で丸を作って示し、テオへの伝言が書かれた板を引き寄せた。表面を布で拭き取り、星のような模様を描いて円で囲む。
「こんな感じだな。裏はなかった」
「確かにこれは神殿の象徴と思われるだろうね。ただ重なりが逆だな…」
簡易な着替えとスープをディネウに渡し、サラドもテーブルにつく。マグカップに口をつけたディネウが「あちっ」と舌を出した。
「吸い上げられた魔力が魔物を形成して、ノアラの意識とは無関係に術まで発動していたんだよね?」
「抵抗するので精一杯で、記憶にないが…」
「ふーん。ディネウの命があるってことは、そんな状態でもノアラは術に手心を加えていたのかな」
ノアラは考えるように宙を見て、ゆっくりと首を傾げた。
「嫌な言い方をするな」
「だって、そうでしょ? 繰り出されていた術は初歩程度じゃないの? でなきゃ…ねぇ?」
「う…まあ…」とディネウは言葉を濁す。ノアラに全力で術を放たれたらおそらく不可避だ。
「ディネウもノアラも腕が鈍っているんじゃない? 手合わせでもしたらどう?」
「そういうお前はどうなんだ? 九年引きこもっていただろ」
「引きこもりじゃないですぅー。隷属状態でも動いていた身を舐めんな」
「それ、自慢になるのか?」
ディネウとシルエの応酬にノアラはまごまごと手を彷徨わせた。いつの間にか大皿は空になっていて、代わりに干し果実と炒り豆が置かれている。スープのカップと引き換えに、薬草茶が注がれた。ゆるりと昇る湯気を前に囲むテーブルは穏やかな日常のひとときのよう。
「それで、サラドの話は?」
サラドに視線が集まり、空気がピリッと緊迫感を持つ。
「うん。この間、悪魔との会話を試みた」
「はあ? 召喚したの?」
「まさか、違うよ。会話だけ」
シルエが勢い余って倒した椅子をディネウが起こし、低い声で「落ち着け」と窘めた。
「会話だけでも…危ないことに変わりはないでしょ」
責めるような、怒りを我慢するようなシルエの声にも、サラドは静かに首を振り、テーブルの上に二つの容れ物を置く。
前にも見た粒子、両方とも鮮やかな緑色だ。片方は以前見た時と同じ『黒いのと煩いの』が来て『キラキラしたものを抜いていった』という少量の瓶。毒素も魔力も薄い品だ。
もう片方の大きい方は悪魔召喚の時にも使用した金色をはらんだような黄みがかった明るい緑色だった筈が、その特徴とも言えるキラキラが失われている。むしろ、少量の方と比べても確実にそれだけが抜かれ、より澄んだ緑色に見える。
「どうやったの? これ…」
シルエは大きい方の容器に手をかざす。確かに毒素的なものは感じられない。魔力に関してもノアラが首を横に振った。
「それから、これ。ノアラが握り込んでいたんだ」
テーブルに置かれた包みを開くと緑色の結晶がコロッと転がった。小指の先より小さい欠片と細かい破片。
「…毒っぽいものはないね。ノアラの魔力が急激に結晶化した?」
ノアラはやはり記憶が曖昧なようで首を傾げる。ただ粒子とは異なり、結晶には魔力が豊富に蓄えられている。
「古代王国でこの結晶は動力源として使われていたんだって。この粒子から金色を抜いたのは悪魔だよ。悪魔にしてみれば嗜好品らしいけど、これは絞り滓であまり美味しくないって言っていた」
「待って。じゃあ、『黒いのと煩いの』って…」
「それは違うと思う」
サラドは全てを聞き終わる前に強く否定した。悪魔との会話を想い出し、最も適した言葉を探す。
今回の魔物の出現前から警告を受けていたこと。その声が悪魔であったこと。そして悪魔が語り聞かせてくれたことをサラドは三人に話した。
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