108 絵物語に隠された文字
最後の一瓶にしっかり封をし、木箱に収める。ズラリと陳列された薬の完成品にシルエは「完璧」と自画自賛した。あとは片付けを残すのみ。
底面に少量の水が残った水瓶にはノアラに作ってもらった『水を生む魔法石』を沈めておくことにした。表面に七色の艶を帯びる白っぽい石を両手で包み、魔力を流すと仄かに発光する。
(うん。僕の魔力でも問題なく発動するな)
水瓶の縁から静かに石を滑り落とし、着水した起点から広がる波紋が静まるのを待つ。じっと見ていると水面が揺れ、中央から波紋が広がるのを確認した。
ふと、ディネウに「湧き水を覗き込むな」と言われたことを思い出す。これは水瓶なので問題ないよな…と少しばかりばつが悪い。水瓶に蓋をすると空洞にぴちょんと水滴の音が反響した。
(これで増えた水も湧き水同様に力が備わっていたら凄い効果だ。ま、さすがにそれはないか)
明日になれば水位もいっぱいまで上がっているだろう。まさかと思いつつ、その検証をするのがシルエは少し楽しみになった。
「ただいま」
「おかえりー」(あれ? 元気ない?)
森から戻ったサラドの憔悴した様子にシルエはめざとく気付いた。顔色や仕草を注視した結果あれこれと質問するのは止めておいた。
「ディネウとノアラは?」
「二回目分を持って出掛けて、まだ帰って来ないよ」
「そう…」
心ここにあらずといった態のサラドが持つ籠には申し訳程度の木の実と草と根が入れられている。ふぅ、と吐息を漏らしているのも無意識だろう。
未使用分の小瓶をシルエが棚にしまいに行くと、当たり前のようにサラドは井戸に向かい大鍋をガシガシと洗い出した。お互い無言のまま片付け作業は着々と進む。
「サラド! 見て!」
少々重苦しい雰囲気を壊したのはテオの明るい声だった。紙束を両手で掲げる。薄く升目が引かれた紙に幻想的な絵が見事に描かれていた。
「もう終わったの?」
「うん! 見て」
絵物語の模写をテオに任すことにしたサラドは描きかけの頁を終えてから、テオが集中できる部屋に作業場を移した。改めて模写の仕方を説明しなくてもテオは直ぐに理解し、難なく描き進めていく。一度、様子を覗きに行ったが、指示がなくとも次の頁にはきちんと格子状に細木が組まれ、黙々と描き続けていた。
サラドは簡単そうな絵からはじめ、数枚を描いただけ。この絵物語の主題ともいえる、細密に描かれた『空を舞う精霊と背伸びをした人の手と手が触れ合う場面』は後回しにしていた。テオも同じだったようで最後に満を持して描いたらしい。
「サラド、あのね。この葉っぱは知ってる。これも、これも。でも、これは何?」
精霊と人を取り囲む種々の植物の中でテオが指さした葉は確かに奇妙に角張っている。
「あと、ここも線が繋がってないの。何でだろう?」
精霊の長く美しい髪が描く曲線も途切れた部分がある。人の衣服の皺にも不自然な角度が。テオは写していて気になった部分を次々に指摘した。原本は刷りを重ねて版が摩耗していたのか所々に掠れがあり、紙の劣化で全体が茶けてぼんやりしている。染みやカビた跡で見えづらい部分も。テオはそれをじっくりと観察して途切れた線も繋がりを補完せずにそのまま正確に写していた。
「ん…? もしかしてこれは…」
描かれた紙を裏返して日に透かす。近付けたり離したり、敢えて目の焦点をぼやかしてみたり。
すると、様々な線で円を描く構図が朧気に浮かぶ。不可解な線はそこに配された文字に記号。これは術の陣だ。古語と精霊語と術、いずれをも解するサラドだからこそ、それが何であるか気付けた。
しかしながら所々の部分でしかなく、召喚陣を再現するのはほぼ不可能と言える。
「鏡文字? いや違うな、左右逆さに絵を写したのか」
模写している時に感じた「この絵の作者は左利きなのかな」という描き辛さもそれなら納得できる。絵のバランスも裏から見た方がしっくりきた。
「すごいな! テオ、大発見だよ」
「え?」
「なに、なに? 僕にも見せて」
シルエがサラドの腕の下から紙面を仰ぎ見る。紙の片側をシルエが支えると、サラドが裏から指でクルッと円をなぞり、文字らしき箇所を指し示す。シルエは「わあー」と感嘆の声を上げた。
「うっわ。冗談のつもりだったのに、本当に術が隠されていたとか! テオ、お手柄だねー」
何が大発見で手柄なのかわからないが褒められたことは理解しテオが「えへへ」と笑う。
「でも、まぁ、陣としては不完全過ぎるね。勿体ないなぁ。図書館に渡した本はどうなんだろう?」
「ざっと見ただけだったけど、絵の構図は似ていた。あの本は時代的に新しいから、もっと失われている可能性が高いかな」
「ふーん、そりゃ残念」
この原本にも更に元があって、写本を重ねるうちにいつの間にか反転し、隠された文字の大部分は失われたのだろう。悪魔から聞いた話も合わせると、これは精霊召喚及び契約の教本の一部だった可能性が高い。描き込まれている植物も樹齢が長く精霊が宿りやすい木、あるいは精霊が好んで休む草木だ。単に模様か空白を埋める線かと思っていたものも川や陽炎や雲なのかもしれない。純真な子供の方が精霊も警戒せず近くで遊ぶ傾向がある。魔力の上乗せのためにも、幼い頃から精霊と交流できるように潜在意識下に刷り込んでいたのだろう。
「精霊…契約…か。愛では…なかったのかも」
全ては優位に立つ力を得るため。
ぽつりと呟かれた言葉にシルエは眉を僅かに動かした。何か重要な手がかりを得たのであれば自ら話してくれるはず、と問い質したい気持ちを抑え込む。
「…どうしたの? サラド、悲しい顔してる。この絵、おかしかった?」
「違うよ。テオの目がとても良いから、大事な秘密が見つかったんだ」
「秘密?」
「そう、秘密」
気遣うテオにサラドは穏やかに笑んだ。
「いや、これ見ても、全く気付かないから」
ぼろぼろで今にも綴じがばらけてしまいそうな件の頁に顔を近付けてシルエが目を細める。
改めて原本とテオが写した絵をつぶさに観察しても、他の頁にはこのような隠し文字は見当たらなかった。
「あの絵物語のように想いが通じ合う人と精霊がいたって思うのは夢見がち、かな」
ひとりになったサラドはつい胸の内を吐露した。薬草類を加工しているうちに考え事に耽っていく。
(もし、あの物語が力を得るためのものだとしたら、精霊の歌を広めるのは良くないだろう。精霊だって利用されるのは不本意なはずだ)
――嫌な人には力、貸さない
クルッと舞った風がサラドの耳横の髪を揺らした。
愛を交わした人を懐かしむ精霊の歌は、人伝ではなく精霊から聞いたもの。少なくともあの旋律は偽りない精霊の心情。
古代王国が世界渡りの大きな歪み、空に開いた裂け目で崩壊したとして。その後に戻って来てくれたのは人と契約したことのある精霊だったのではないだろうか。世界の力が削がれ、精霊力を落とし下位に下がったとしても。
サラドが今まで接してきた精霊は総じて信じる心を持つ人に好意的だ。
(人々が精霊を信じてくれたら…、皆に感謝をしてくれたら、オレは嬉しい。オレが感じているように大事な友達だと。あの歌がそのきっかけになったらって。…人が歌うことを、許してくれる?)
――サラドも大事な友達
――歌、好き たくさん響くと良い
――ともだち ともだち
(ありがとう)
返ってくる精霊の声にサラドはほっと笑みをこぼした。ランタンの中でも小さな火が伝えたい気持ちがあるのか、ぐるぐると回る。落ち着かせるようにガラス面を手で覆うと勢い良く飛び出した外炎でチリっとした痛みがはしった。傷付けた事に気付いた火は体をぎゅっと縮こませる。赤い小さな水脹れができた指におずおずと近寄り、また奥に引っ込む。
「大丈夫。大して痛くもないよ」
蜥蜴を象った火はしゅんと項垂れたように見える。サラドはくすりと笑って、ベルトに挟んでおいた丈夫な革手袋をはめ、指先で火を撫でた。
「あれ? 二人はまだ帰ってないの?」
「そうなんだよ。遅いね。どこかでご飯にでも誘われたのかな」
「…ノアラが一緒なのに応じるかな」
「うーん、そうなったらディネウを置いてノアラだけ帰って来るだろうね」
空は夕暮れの朱の色と宵の紺色が層になっている。外に出して乾かしていた大鍋を取り込みながらサラドは早くも輝きだした星を見上げた。この季節はあっという間に暗くなる。
「何もないといいけど」
胸騒ぎの原因は先程微かに感じた精霊の悲鳴と魔力の奔流。しかし距離が遠いためか、すぐに消えたこともあって追えなかった。
夕飯を済ましテオを寝かしつけた後も、二人が帰って来る様子がない。サラドが左手の小指を唇に、耳に寄せる。もう何度目にもなる動作だ。呼びかけのリン…という小さな音は虚しく消えていく。
「そんなに心配したってしょうがないよ」
そうは言いながらもシルエの手元にある紙には謎の渦巻き模様が増えていっている。ペンを置き、インクに蓋をすると「あーあ」とわざとらしく大きな伸びをした。
「僕、先に寝るよ。サラドもあんまし気にしない方がいいよ。じゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
サラドは庭先に出て宵空を見上げた。左手の甲を口元に近付け、瞑目する。
(風よ。伝えて。ノアラに、助けは必要か、と)
クルクルと回る小さな小さな旋風がサラドの頬を撫で、髪を揺らす。ぶわっと一気に突風へと変じて空高く抜ける。遠くで木々がザワッと揺れた。
――ノアラ、寝てた 言葉、伝えられなかった
待ちに待った風の精霊からの報告は不安を増長させるものだった。夜半も過ぎており、確かに眠っていてもおかしくはない。時間が押して泊まっていけという話になっただけかもしれない。
…だが。
(寝てる? それは、もしかしなくても失神しているってことでは…?)
結局、二人は戻って来なかった。
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