106 悪魔が教えてくれたこと
誤字報告、ありがとうございました
助かりました (^_^;)
大きめの水瓶に汲んだ湧き水を、がに股でよろよろとディネウが運んでくる。
「ありがと。さすがは腕力だけはあるディネウ!」
「だけ、言うな」
シルエはその水に感謝を捧げ、柄杓で大鍋に移し煮沸する。〝治癒を願う詩句〟を唱えながら予め準備していた薬草類を煮詰めたどろどろの液体を加え、ゆっくりと撹拌する。青臭いような渋い匂いが広がった。間違いなく苦くて不味そうな色と匂い。
「――っと。あとは粗熱がとれてから漉し取れば完成。内服でも外用でも効果抜群! 僕自慢の妙薬!」
「助かる。万一でも薬があるってだけでもあいつらも安心するだろ」
「傭兵たちが頑張るっていうんだから、薬ぐらい用意するよ。…まあ、本当はちゃんと診察してからにしたいんだけどね。これで命は繋げるでしょ」
大鍋を火から下ろすのはディネウに頼み、シルエは漉し取り用の木綿の布と漏斗を準備する。次の大鍋を火に掛けてシルエはしみじみと呟いた。
「それにしても、もともと力のある水だから手間がひとつ省けて楽だね。もっと早くに使わせてもらえば良かったなぁ」
「ああ、そうだな」とディネウが気のない返事をする。タプンと柄杓が水に沈む音が水瓶内に響いた。
二つ目の鍋に薬が完成する頃、大きくて浅い木箱を何段も抱えたサラドとノアラが帰宅した。
「おまたせ。空の小瓶、分けてもらってきたよ」
「ありがと。良く融通してもらえたね」
カチャカチャと音をたてて木箱が下ろされる。その側からノアラが小瓶に清めの術を掛けた。
「そういえば、聖都でも作っていたのか? オレは『神官から譲り受けた導師の薬で助かった』ってセアラが言っていたけど」
「へぇ…。養護院に来た子供が重い病気だったり、思わぬ大怪我をすることがあったから。信用できそうな人に預けて秘密の場所に置いていたんだよ。一服使ったら補充するようにして。複数あるとすぐ悪いこと考える人がいるし」
「そうなんだ」
「施療院があるのに重症の人を追い返したりしていたからね。だから時々目を盗んで治癒していた。どんどん監視が厳しくなっちゃったけど」
シルエはからからと笑うがサラドもディネウも沈痛な面持ちをした。ふっと顔が陰り、しんみりと「そうかぁ、あの薬がサラドを…無駄じゃなかったな…」と独り言つ。
手分けをして小瓶に木綿の布を敷いた漏斗をセットし、定量が掬える小さな柄杓で薬を注ぎ入れ、蓋をして封緘紙で閉じる。薬草類の繊維や粗い滓が取り除かれた薬は黄緑色のサラリとした液体。今回用意できた小瓶は磁器製なので色味を確認することはできない。時間が経つと茶色っぽく変色してしまうが、品質には問題なく、内服する場合に渋みと苦みがやや強くなる。
「ディネウ、薬を届けに行く際は一緒に行く」
「おう? ノアラが自分から行くって言うの、珍しいな?」
ノアラも自覚はあるのかこくりと頷く。
「何か気になることが?」
「まだ…憶測の域を出ないが」
「詰め替えに時間もかかるし、護符と違って荷物も嵩張るし、出来上がった分から届けてくれば? ノアラも何か調べたいことがあるんでしょ?」
こくりと頷くノアラ。細かい作業はあまり得意ではないディネウも「じゃあ、そうさせてもらう」とさっさと立ち上がり、完成した小瓶が並ぶ木箱を持つ。
「一応、言っとくけど。僕はこの薬を売るつもりはないから、くれぐれも横流しとかされないようにしてね」
「わかってる」
ディネウはきっぱりと言い切った。
「あ、待って。こっちはいつもの傷薬と打ち身や捻挫の炎症を抑える薬。基本はオレだけど仕上げはシルエだからいつもより効き目は良いと思うよ」
「おっ、こんなに作ってくれたんだ。悪ぃな、二人とも」
ディネウとノアラの二人が転移した後もシルエはちまちまと小瓶に薬を注ぐ作業を続けた。
「ここの所ずっとディネウは行ったり来たりだよね。なんだかんだ言って傭兵仲間を見捨てられないんだろうなぁ」
「ディネウは面倒見が良いから。…なあ、シルエ、かなり薬草を消費したから、ちょっと森に行って来てもいい? この時期は自生しているのは少ないけど…」
シルエはちらりとサラドを見遣った。作業に集中するふりをして、目も合わせず気まずそうに言う態度は見覚えがあり、シルエは心中で溜め息を吐いた。精霊に何か相談事でもあるのか、サラドは今、ひとりになりたがっている。
「…いいよ。ここは僕がのーんびりやっておく」
「ありがとう」
シルエなりに「ゆっくりしてきて」と伝えると、サラドは目を細めて微笑んだ。
普段より森の奥へ分け入り、鬱蒼と陰になった静かな場所にサラドは腰を下ろした。荷物から国境の中州で土の精霊が集めてくれた緑色の粒子を二種類出す。
鼻から息を吸い、ゆっくりと口から吐く。それを繰り返し、瞑想状態に持ち込む。
慎重に名を呼ぶ。何度も、何度も。
(応えがない。やはりダメか…)
ディネウから魔物の出現の報告があった少し前からサラドは「警告」のようなものを受け取っていた。とても遠くから微かな伝達。意図は伝わるが明確な言語としてはわからない声。それが時折頭を、肌を掠める。
没頭できる作業をしながら、皆が寝静まってから、度々その声の主に接触を試みたが応えはなく、途切れてしまう。はじめはまだ見ぬ精霊の存在かと思ったが、どうにもいつもと勝手が違う。
そこで、テオと契約を結ばされていた悪魔に呼びかけてみることにした。悪魔の言語は難しく、力の差がありすぎてサラドの声は届きにくい。
(もう少し…、発音に注意して…)
繰り返し、ゆっくりと、大切に名を呼ぶ。
不意に手元に置いた緑色の粒子から金色の光が昇って渦巻いた。にわかに日が陰り濃い影がサラドを包む。圧縮された空気に当てられているような息苦しさ。星が宵闇で輝くように瞼の裏で金色がチカチカした。
――何用だ?
サラドの脳裏に浮かんだ声の主は、人の体型に似ているが手や足が胴に対して長くて末端が大きい。肉感のない骨張った艶やかな緑色の体表。尖った耳、その上には山羊に似た角。長く太い棘付きの尾。
使い魔だった召喚時よりも角と尾はより立派になり、輪郭は逆三角形に、鼻梁は大きく、口は小ぶりに、面立ちが変わっていた。その代わりに牙は鋭く口端から印象的に覗く。
「あの、警告をしてくれましたよね?」
――そうだ。あの馬鹿げた召喚、契約と同じくらい忘れるべき技術を使おうとしている者がいる
「忘れるべき技術?」
――お前が持っている、それも
「これ? あ、ちょうど聞きたかったんです。この緑色の鉱物は…」
悪魔が説明してくれたことによると、緑色の鉱物は深い深い地中に長い年月をかけてこの世界に満ちる力が降り積もり凝り固まったもの。古代王国の頃、大きな結晶は動力源として重宝されていた。
そして、この鉱物の含有物が悪魔の力を補うものとしても使用されたという。
――お前が持つのは絞り滓だな。それでも今の人間には害だろう。もらってやったから安心しろ
悪魔が掬うような動きで腕を振ると、金色がキラキラと螺旋を描き緑色の体内に吸収されていく。ゴクリと喉を鳴らし、濃い青紫色の舌が口周りをペロリと舐めた。金色の抽出物は悪魔にとって砂糖菓子のようなものらしい。
――それほど、美味くもない
美味くもないが借りはつくらない、ついでだと悪魔は話を続けた。
古代人は魔力持ちが主流で、その力の強さ、多さで優劣が決まり、寿命も左右されていたという。
――お前のような者も多くいたぞ
「オレのような、ですか?」
――精霊と契約を結んだ者。人は『愛』と呼ぶかもしれんが
「精霊と…契約? オレは契約なんて結んでいないですよ」
――通常、契約は一対一だ。下位であろうと数多の精霊と協力関係になるなど珍しい
悪魔はにやっと口角を上げた。鋭い犬歯は本能的に恐怖心を煽る。
優劣を決する魔力は生まれ持った資質が大きい。それ故、古代人は自身を強化するために別の力も欲した。そのひとつが精霊との契約。より強い精霊と契約できれば、生まれの低さをも覆せる。だが、精霊との契約はあくまで精霊から好まれるかどうか。努力云々では如何ともし難い部分もある。
そして、精霊に受け入れられなかった者が目をつけたのが悪魔との契約。しかし悪魔の力は強大且つ人体と相性もよくない。たくさんの贄を用意して召喚に成功しても契約に至らず、臍を曲げた悪魔に内側から食い殺されることもあった。その失敗から自身が契約を結ぶのではなく、ほぼ魔力のない者――魔力無しを依代として使う方法が編み出された。一人の魔力無しにひとつの術を悪魔から授かる。魔力無しの体ではそれが精々だった。
まずは一人目に隷属の術を借り受け、別の魔力無しに使う。逆らえないようにしてから次の悪魔と契約させ術をひとつ覚えさせる。記憶を消す術、誘惑して意のままに操る術、呪殺、死霊術など。そうして多くの術奴隷を持つことで、行使できる魔力を底上げした気になっていた。
初めはささやかな罪悪感を伴っていても、成功した恍惚感に非道さ、残虐さは麻痺していく。力を求めるあまり魔力無しを見下し、寿命も大きく違う彼らを同じ命あるものとして見なくなった。
悪魔と一口に呼んでいるが力を貸したのはほぼ使い魔以下の力の弱い存在だという。力のある悪魔は他の世界への干渉による弊害を弁えているし、人間に手を貸す旨味もない。
ちょうど神界と些細な諍いが起きていた時期と重なり、狭間の歪みも生じやすかった。小さな生き物たちは人の世界からもたらされる甘い贄に我先にと食いついた。
弱い存在の魔力無しを悪魔(界の小さな生き物)との契約に堪えうる体にするために、この鉱物から抽出したものが使われた。魔力の強い者には強心剤的な使い道もあるのだが、多くの人の、特に魔力無しの身には毒といえる。少量で心臓が跳ねて死んでしまい兼ねない。それを極々微量ずつ幼い頃から与えて慣れさせる。
体に蓄積して耐性ができると常習性があり、より頻繁に、より多量に求める傾向があった。中毒者は血圧の乱高下、頻脈に加え、極度の興奮、凶暴性・嗜虐性の発露、痛覚の鈍化、快楽の増強などの症状が出る。
そのため体も心も壊れてしまう者が殆どで、寿命も短い魔力無しの術奴隷は消耗品扱いされた。繰り返し召喚に立ち合っていた主の体にも知らず知らずその毒素は溜まっていく。自身の考えがおかしいと疑問すら抱かないほどにじわじわと人格は破綻していく。
引き返せないほどに狂った者は他の魔力持ちを、その契約精霊を喰らいだした。それが自身の魔力を高めると信じて。中毒に陥った者には現に魔力を含んだ血肉が甘く美味と感じるらしい。
更に悪いことに、その抽出物を使って獣や精霊を魔物に堕とし、それらが暴れることで撒き散らされた毒で世界そのものの魔力を奪うことも覚えた。
強い魔力を持った古代人は寿命も長く、社会を形成せずとも生きていけるため、他者のすることには我関せずといった姿勢で生きていた。
だが、常軌を逸した行動はさすがに見過ごせない。問題視した有力者たちは重い腰を上げ、生まれ持った魔力以外の力を得る技術を禁じることに。度を超して更生不能と断じられた者は封じられ、多くの者が投獄された。
しかし、時既に遅く、世界は均衡を崩していた。
「そんな…ことが」
――お前たちは世界渡りの大きな歪み、暗い空と裂け目に遭ったのだろう? それ以前にも嵐はあった。その兆候を掴み、力ある者たちはこの世界を棄てて新たな世界を探して渡っていったな。その際、投獄された罪人や魔力無しと判じられた者がどうなったのかは…推して知るべし
「もしかして魔人はその罪人の生き残り…。現代の人は魔力無しとされた者の子孫…?」
独り言のように発したサラドの疑問に悪魔は回答しない。
――この人の世界がどうなろうと知らぬが、このままでは精霊も挙って逃げ、世界は再び歪みを呼ぶだろう
「そんな…。また、十年前みたいなことが…」
あからさまに狼狽え、目が泳ぐサラドに悪魔はくっくっと忍び笑んだ。
「…ありがとう。警告、感謝いたします」
――悪魔の言を信じる人間がいるなど奇特だな
そこまで話すと悪魔は会話を終え、ギャとジャの間の不快な笑い声を上げて、脳裏から消えた。窮屈だった息が元に戻り、闇も遠離ってサラドの顔を陽が柔らかく照らす。チーチーと小鳥のさえずる声も聞こえた。肺の空気を入れ換えるように深呼吸を繰り返しても動悸が治まらない。疲労感とズキズキと痛む頭にサラドは暫くその場にへたり込んでいた。