105 増えだした魔物
誤字報告、ありがとうございました
助かりました (^_^;)
「テオ、これ、お土産」
サラドが渡したのは顔料と粘土で作られた赤褐色のチョーク。型に嵌めて作られたチョークは少し硬めで細いため、折れないようにホルダーが必要だが、枝を焼いただけの木炭より薄く細い線が描ける。
それとは別に木枠で囲った石板と蝋のように柔らかい滑石。石板と擦れた程度で削れる為に筆記具として使える。拭けばすぐに落とせるので何度でも書き直しが可能。
「これでいっぱい字の練習ができるよ」
チョークには目を輝かせたテオだが石板と蝋石には微妙な反応を示した。テオは文字や計算の勉強はあまり得意ではないらしい。硬直した笑顔で受け取ったテオの腕が重みに負けて次第に伸ばされていく。石板の上に載せていた蝋石が転げ落ちそうになって慌てて持ち上げた。
石板は割れやすく重いため持ち運びには不便。文字や図形を提示する必要がある場合にサラドはこれまで焼き目をつけて黒くした板に水で文字を書いていたが、それだと気象などの条件によって、書いている途中で最初の文字が乾いて消えてしまったり、いつまでも湿ったままで次を書き進められないということがあった。
(…この間のシルエの護符、摺った模様が少し盛り上がっていて触るとざらついていたな。要は蝋石が削れる堅さと摩擦があればいいわけだし…。木板に炭と樹脂と砂粒を混ぜたのを塗ったら石板と同じ使い方ができないかな)
「おかえり! また何か思いついた顔しているよ。今度は何?」
「ああ、いや。思いついたとか、そんな大層なことじゃなくて」
サラドが帰ってきてからチラチラと視線を寄越していたシルエが、とうとう途中だった詠唱を止めた。居間のテーブルには浄化や退魔の護陣を書いた紙、鉱石、水鉢などがいっぱいに広げられている。
「ふーん? ところで僕にお土産は?」
「え…えっと、ごめん」
「…ちぇっ。おいて行かれたうえに、出先で思い出してももらえてない」
「いや、そのっ、夕食のおかずになりそうなものは買って来たよ。ほら、おつまみにナッツも」
サラドが荷物を指し示すと、シルエは「…まあ、いいけど」と呟いて手元の紙にひとつバツ印を書き加えると素材を標本箱に片付け始めた。
「いちいち運ぶの大変だろう? 自室が嫌なら作業に適した部屋をもらったらどうだ?」
「いいの。一番はじめに『おかえり』って言いたかったから」
紙を集めてトントンと軽く落とし、ひとまとめに揃える。ノアラは寝室を兼ねた自室に籠もることが多く、寝ている間にも急に覚醒して研究を続けるなんてこともざらだが、シルエは割とどこでも実験を始めてしまう。因みに、この屋敷のどこにいてもノアラは帰途の転移に応じることができるが、到着するのは玄関前だ。
「で、何処に行ってきたの?」
「酒と芸術の町に。吟遊詩人に会ってきた」
「ふーん。吟遊詩人ね…。歌ってもらうことにしたの?」
吟遊詩人という言葉にシルエは渋面をつくった。過去の出来事から吟遊詩人に対して良い心証は持ち合わせていない。吟遊詩人の都合など考慮せず、利用してやるぐらいであれば心配ないのだが、サラドに限ってそれはないだろう。
「うん、話はしてきた。それで、この本なんだけど、人に託してもいいか?」
「僕は構わないよ。術のヒントがあるわけでもないし」
「え? そう…なんだ」
自分で持ち出してきたにも関わらず『精霊と人の恋』にはさほど興味もないようで、シルエはぼろぼろの本を一瞥しただけで片付けに戻ってしまった。
「だってねぇ…。うん、美しい恋だと思うよ? 古語の入門にはいいかもね。あれ? 実は精霊と人の関係で何か隠された事実があるのを読み取ったとか?」
「えっと、…ない」
「そ、」
素っ気ない返答に少々落胆するサラドに追い打ちをかけるように「状態がいいのが一冊あるし。ノアラも気にしないと思うなー」と軽い調子で返される。精霊と人だろうが、人と人であろうが大差はなく、単に恋愛の絵物語とみなしたシルエにはその内容は大して価値のないものらしい。
「サラドのいいようにしなよ。ただし、ちゃんとサラドの意図を汲んでくれる人なら、ね」
「うん。ありがとう」
集中して作業をしたい場合、サラドは調薬室を使うことが多い。建物の端に位置する円形の倉庫の一室である調薬室は薬の材料ばかりでなく毒になり得るものも数多置いてあるため、独特のえぐみのある香りが少し離れた場所までして近寄りがたい。
テオは出入りが許されておらず、先日、一人で留守番をした際もこの部屋には鍵が掛けられていた。だが、サラドがその部屋にいる時はその限りではない。
トントンと遠慮がちに扉をノックする。聞こえないのか、返事はない。もう一度、少し強めにノックをすると「どうぞ、開いてるよ」と中から声がした。
部屋に入るなり吊されたたくさんの植物や壁面の棚に所狭しと並べられた瓶詰めや小引出しに目が奪われる。教わった植物もあることからテオは仰け反るようにしてしばらく見上げていた。惚けて口が半開きになっている。
上から順に視線を落としていくと、小さな竈の近くに笊に入った松かさがある。松かさは開いて種を飛ばすが、雨が降ると遠くに飛ばせなくなるため閉じる習性があること。森に暮らす小さな動物は中の種ばかりでなくこれも食べること。松脂を多く含むため火が着きやすく、しばらく燃え続けるため薪に火が移る前に消火してしまうという失敗を免れる。それらを一緒に拾い集めながら教えてもらったばかりだった。絵を描いておこうとしたが形を捉えるのに難儀したのでテオはよく覚えていた。
「どうしたの?」
「あ、えっと…。サラドを呼んできてって」
秤や薬研、乳鉢といった道具が正面の棚に整然と片付けられている。代わりに作業机には描きかけの絵と広げられた本。描き終えた絵も数枚端に寄せられている。
正確な線が縦横に引かれた盤上に本は載せられている。糸ほどに細く真っ直ぐ切り出された木を、その盤の線をガイドにして、本の挿絵に等間隔で格子状に置き、区切っている。同じく薄く升目を入れた紙に挿絵を模写しているところだった。テオの熱視線にサラドが作業工程を説明した。
「こうして、このひとマスひとマスの中で位置取りをしていけば写し取りがしやすいだろう? 写す方の升目を大きくすれば拡大して描くこともできるよ」
「この真っ直ぐで細くて薄い線はどうやって引いたの」
脇に用意された数枚の紙には既に升目が引かれている。それを見てテオが興味津々に聞いてきた。
「これくらいの大きさの紙なら定規をあてるものだけど。今回は、予め必要な枚数分の縁に印を付けておいて、淡い色の顔料を染み込ませた糸を、こう、印と印を繋いで位置をしっかり定めてピンと張る、とこんな感じで。家を建てる際の長い材木や歪みやすい布なんかで使う方法だけど、慣れると早いから」
「わあ」
新しい糸を出して水に浸し、実演してみせる。色はつけていないが湿って線が浮かんだ様を見て、大袈裟なくらい歓声を上げるテオにこそばゆくなる。
テオは強請って正方形に区切られた一箇所を描かせてもらった。じっくり観察して四角の中にどう線があるかを見ながら褐色のチョークを動かす。
「この、写すの、もっとやってみたい」
「そう? じゃあ、残りの頁はテオに頼もうかな」
「いいの? 本当に?」
「うん。その前に、オレを呼びに来たんだろう? あまり遅いと心配されるから行こう?」
机の上に置いたランタンを手に取ってサラドが立ち上がると、居眠りをしていた小さな火がくるりと体をまわした。歪みの強いガラスを通して灯りがゆらめく。
何故この部屋に来たのかをすっかり失念したテオは「あっ」と声を上げサラドの手を引いた。
「…という訳で、弱っちいが魔物の報告が散見されている。今のところ、腕利きの傭兵や統率が取れていれば自警団で対処できているが」
「アンデッド系は出ていないんだよね?」
「不自然な場所で腐敗が進んだ遺体は発見されているらしい」
「警鐘の方は?」
「そっちの異変はまだ聞かねぇな」
「ふーん…」
ディネウの報告の途中からノアラは比較的大きめの紙とペンとインクをテーブルに運び、中央に石塁を思わせる模様に『堕ちた都』、その右に牆壁を表すような円に『王都』、左に三重の円に『聖都』、と次々に書き出していく。
「アンデッドや厄介な魔物なら遠慮するな、とは言ってあるが、普通程度の魔物なら多少は気張れとも言ってある。援護や治癒の要請が増えるかもしれないが、よろしく頼む」
「いいよー」
シルエの軽い返答が緊迫した場を弛緩させた。街道に周辺の町や村、山や丘に主要な川が書き込まれ、ノアラの手元には必要な範囲の地図があっという間に出来ている。地図は居間の壁にも掲示しているが、何も見ずにノアラはそれを書き上げていた。
「うっわ。ノアラの頭の中どうなってんの?」
「? 転移のためには必要な知識だ」
「うえっ」とシルエが気持ち悪そうな顔をした。壁の地図と今し方ノアラが書いたものとを見比べて、その再現率に舌を巻く。おそらく町の面積比率も大体合っているのだろう。
褐色のチョークを借り、ディネウが把握している魔物の出現場所にバツ印を入れていく。更にインクの色を変えて警鐘で死者が蘇った町村にも印を入れた。
「人の生活圏の近くでこんな…。山奥とかではもっと発生しているのかな?」
「そうでもないらしい。片田舎から応援要請は来ていないっていうしな。ノアラの屋敷の周りだって静かなもんだろ?」
「そうだね…。森からは特に精霊が騒いでいる様子はない」
非常に大きな獣と違って魔物は凶暴で見境無く人を襲う。実体のない『迷い込みしもの』はそれこそ殺意の塊で戦闘を避けるのはほぼ不可能。
バツ印が描くもやっとした影を見てシルエがディネウを見上げた。
「ねぇ、サラドのことを下男扱いした子たちは今どの辺りにいるのか知ってる?」
「別にそんな事実は…」
サラドは否定をしようとしたがそれを無視してディネウは地図上を指で辿る。
「灯台の町で見かけて、この村にいたろ。…ってことはまだこの辺じゃないか」
「ふーん…。じゃあ、僕が掛けた護りが破られて、あの媒介にされた子がまた魔人に使われたわけでもなさそうか…」
「ニナのこと?」
サラドの顔が心配そうに陰った。魔物のバツ印は中央から南東にかけての範囲、主要な都市を結ぶ街道、港町、山林の町の周辺に集中している。偶然かもしれないがショノアらとサラドが一緒に行動した範囲と被る。王都の近辺もちらほらあるが、近くなりすぎると傭兵たちの情報が少ない場所のため実情はわからない。聖都内についても同様だ。
山や森など人里から離れた場所から徐々に魔物が侵攻してきた過去とは明らかに違う。
対して警鐘で遺体がアンデッド化した町や村は堕ちた都の付近から西、南西へと扇形に、離れるほど減り、ショノアたちが偶々滞在していた端の村、サラドが駆けつけた所だけ例外のように遠い。
ショノア一行がいそうだとディネウが予想したのは『酒と芸術の町』付近だ。バツ印とは重ならない。
「もし魔人が魔物を誘引しているのだとしたら、討伐された個体がある程度増えた後に死霊の術を使うつもりなのかも…」
「やべぇな。…かといって倒さないわけにもいくまい?」
「倒した後、人里からなるべく遠くに運ぶのも…難しいだろうな」
バツ印の分布を眺め「堕ちた都」とノアラがぽそっと呟いた。