102 歌わせてください
サラドから「精霊を信じるか」と聞かれ、若き吟遊詩人が思い浮かべたのは、記憶にある唯一の肉親である祖母だった。
「私は早くに両親を亡くしまして。祖母に育てられました。片田舎の小さな村で、川の洪水被害が頻発し、土地も痩せていく一方でした。
田舎では精霊を信仰している年寄はまあまあいます。鍛冶師や炭焼は火の精霊、漁師は水と風の精霊、畑のあぜ道には土の精霊を祀っているのを今でも見かけますよね。それが強く残った地方だったのかもしれません。祖母はそのまた祖母から精霊を敬うように教えられていたそうです。
『水の精霊様だってたまにはむしゃくしゃして暴れることだってある。だから洪水が起きても水を恨んではなんねぃよ』って口癖のように。
私は子供心に偶々どころか癇癪持ちなのかなって思ったものですが…。
結局、長雨で水嵩を増した川を魔物が占拠し、洪水と共に襲いかかられ村は滅びました。目の前で魔物が人を激流に引きずり込んでいく中、祖母と私は奇跡的にも難を逃れました。祖母は命が助かったことを精霊に感謝していましたよ。
救済で連れて行かれたのは鉱山で、掘り出した岩を砕く仕事に祖母と私は就きました。きつい作業でしたね。救済なんて体の良い言葉…屋根の抜けた荒ら家に食料の配給も少なく、山に入ってしまえば昼も夜もなく働かされました。
祖母は程なくして体を壊し、そのまま帰らぬ人に。苦しくても祖母と一緒だったから耐えられた。この先、生きていても…と絶望しましたよ。最期にも『川の側に帰りたい』って言っていましたね…。
祖母の弔いのために山を降りていた日、坑道が崩落し、土砂崩れが起きました。山にいたらおそらく私も生き埋めでした。…きっと、祖母が私を助けてくれたのでしょうね。
寂しくて悲しくて、祖母が教えてくれた童歌を口にしていた時に師匠に拾われたんです。「良い声をしている」と。
祖母が『精霊様の導きだから、この人に付いて行け』と言っている気がしました。
だから、自然と私も精霊はいると…思えるんです」
吟遊詩人にしてみれば「精霊を信じる」というよりは「精霊を信じていた祖母を信じる」が正しい。
ただの愚痴に近い苦労話を穏やかな笑顔で聞くサラドに、吟遊詩人も自然と口元を引き上げた。久々に思い出した祖母は最期の苦しそうな姿ではなく、荒れる濁流から避難した丘で幼い彼を抱きしめ「困ったね」とおっとりと笑う顔だった。
祖母の思い出を語る若き吟遊詩人の側で風の精霊がクルリクルリと遊んでいる。「精霊はいる」と適当に話を合わせているだけでなく本当に信じていることが伝わり、それだけでサラドの顔は緩みっぱなしだった。
「貴方の詩を…風が楽しんでくれるでしょう」
「風、ですか?」
吟遊詩人から視線を外して虚空を見つめ、突拍子もないことを言い、微笑むサラドを訝しむが、「風」と彼の口から聞いた途端に祖母と暮らした日々が堰を切ったように思い出された。鼻がツンと痛み、眦が濡れてくる。
「そういえば、祖母はよく寝物語も聞かせてくれたな…。出だしはいつも『物知り風が伝えるに、昔々の物語』とか『物知り風が伝えるに、遠い海の物語』って…。あれ、この…成句、いいかもしれない」
祖母の昔話はゆるやかに歌うような語り口。話の詳細は覚えていないが始まりの言葉にはいつもわくわくし「はやく、はやく、続きを聞かせて」とせがんだのを覚えている。
ハッとして、いつも弾き語りに使う楽器を引き寄せ、ポロリ、ポロンと弦を弾き、喉を震わす。
「物知り風が伝えるは、遙か昔の愛の歌…人と精霊が手を取り合う、愛しき日々の物語…」
そこまでで口を噤み、弦に添わす指も止めて吟遊詩人は考え込んでしまったが、彼の歌に好奇心旺盛な風の精霊が「なに? なに?」というように更に集まってきた。
――もう、終わり? もう歌わないの?
――もっと、歌えばいいのに
詩を求める風の精霊の様子に背を押されサラドは思い切って歌も伝えることにした。
「えっと、それで…。ちょっと恥ずかしいのですが。ここの精霊の歌は多分…こんな調子です」
絵物語の後半の、ひとりになった精霊が想い人を懐かしむ歌。精霊が聴かせてくれた旋律をハミングで歌う。その途中から吟遊詩人は目を見開き、雷に打たれたように硬直した。
「っ! なんて素晴らしい曲! もう一度、お願いです、もう一度、聴かせていただけませんか」
照れながらも今度はもう少し伝わるようにと小声で歌う。人が話す言葉はなく吟遊詩人にとっては意味不明な音の羅列。
実際はもっと複雑な音の組み合わせだが、サラドの技量では狭い音域の簡単なイメージしか再現できず、恥ずかしくなって声もどんどん尻つぼみになっていった。
吟遊詩人はすぐに練習中の楽器に持ち換えて、聴いたばかりの旋律を奏でると、荷物から紙と筆記具を出して何かを書き留め出した。様々な記号や注釈も書き込んでいく。
「これは?」
「楽譜です。旋律はもちろん、音の高さや長さ、拍子、速度、強弱などを著しておくんです」
「へぇ、なるほど。この記号を読み解くと曲になるのか…。歌って口承なのかと思っていました」
「それだと徐々に変化しかねません。こうしておけば歌詞だけでなく楽曲も最初の意図通りに演奏できます」
説明しながらもペンを走らせてスラスラと記号を書き進めていく。サラドには似た記号が段違いに並び不可思議な模様を描いているようにしか見えない。
「聴いたばかりなのに記憶して、すぐにこの記号に変換できるものなんですか」
「慣れですよ。師匠が即興で奏でた曲を写譜していましたので」
「しっかり下積みをされたんですね」
「いえ…。師匠が基本を叩き込んでくれましたし『忠実であれ』って人だったので。それなのに注目を浴びるために歌詞を改竄するなど、本当に恥ずべきことをしました」
吟遊詩人は恐縮して深々と頭を下げた。
「その…、厚かましいお願いですが、もう一度だけ聴かせてくださいませんか」
吟遊詩人の願いにサラドは目を瞑って恥ずかしさを逃し、小さな声で歌う。じっと耳を傾け、書き留めた音譜を目で追い、所々に修正を入れ、筆記具を置くと楽器で演奏した。弓を下ろしても残響がしばらく空気を震わせていた。
「どうです? 違いますか?」
「大体あっています。オレが聴いたまま歌えないのでそれ以上を伝えられなくて申し訳ない…」
サラドが主旋律に付随する音があること、その印象を伝えると、楽譜の余白にメモを書き加えながら、吟遊詩人は真剣そのものの表情で傾聴した。
「こんな曲があることを今まで知らずにいたなんて…。一体どこで聴いたのですか?」
その質問にサラドは曖昧に微笑むだけ。吟遊詩人は追求することは止め、神妙に頷くと再び楽器を構える。
「…今の曲調に似せて、二人の語らいはこんな感じで…どうでしょう」
弦を押さえる左手が目まぐるしく動き、弓も角度を変えながら緩急をつけ、時にのびやかに、時に小刻みに音を刻んでいく。低くゆっくりめの旋律と高めの軽やかな旋律を交互に繰り返すとさながら男性と女性の会話のようだ。
「…すごい」
「もう少し、二つがひとつの曲であるように違和感をなくしたいところですが…」
取り憑かれたように、次々に新たな短い楽句を夢中で弾いてはメモを取る。その指先に血が滲む程に。
「とても…とても楽しくて。頭に音が溢れてきて…興奮しています」
痺れか興奮か、震える手を宙に留めて、吟遊詩人はガバッと勢いよくサラドに向き直った。
「どうか私にこの物語を歌う栄誉をください」
「えっと…、そもそも依頼をしたいとお話ししたのはオレで…。ただ相場がわからなくて。オレは今、稼ぎもないから…」
「お金などいりません。こちらが逆に権利を買いたいくらいです」
「でも、それでは…」
「では…そうだ! これ、この衣装のお礼ということにしてください!」
刺繍の入ったマントの裾を持ち上げ、羽根飾りの付いた帽子を振って主張する。吟遊詩人のあまりの勢いに負けてサラドは首を縦に二度ほど振った。
「ただ…正直、文面は少ないので曲としては少々短くなりますね。残念だな…」
「あー…、例えば、その…、お芝居にするとしたらどうなると思いますか?」
「芝居ですか? これだけでは場面に過ぎないので起承転結をつけるため、出会いなどのエピソードも追加して、盛り上がるようにするでしょうか」
「そうか、やっぱり…」
急にサラドが浮かない表情になったのを見て吟遊詩人は不安そうに「何か問題が?」と問うた。
「その…、もしかしたら、この絵物語を題材にしたことで他と…、結構大きな団体と競合してしまうかもしれません。難癖を付けられる可能性もあるから、やはりこの話はなかったことに…」
「そんなっ、ここまで聞いて…、諦めるなど到底無理です! 例え揉め事となってもご迷惑はおかけしませんので、どうか歌わせてください! せめてこの曲だけでも」
「でも、本当に…」
「大丈夫です! 陛下の御前で一度『終わった』と絶念しましたから。ちょっとやそっとのことではへこたれませんよ」
引き気味のサラドの灰色のマントを掴んで、吟遊詩人はなおも縋り付く。
「うん…。じゃあ…。どうか精霊の愛を広めてください。お願いします」
「はい! 是非お任せください! …とはいえ、短い歌だけで終わらすのは勿体ないな…」
もう一度、紙を破らないように細心して絵物語を最初から見始めた吟遊詩人は空を舞う精霊と駆け出すように背伸びをした人の手と手が触れ合う直前の絵でひたと目を止めた。
「そうだ…。今住んでいる所に同じくケントニス伯爵夫人から支援を受けている踊り手がいるんです。男女のペアなんですが、男性が女性を高く持ち上げたり、脚を真っ直ぐに跳ね上げたり、やたらくるくると回って離れたり近付いたり。喜びや悲しみの表情を浮かべ、ただ音楽に合わせて踊るというよりも演劇をしているような雰囲気なんですよ。精霊…ということですし、台詞よりも音楽と彼らの踊りだけでこの二人の愛を表現するのも面白いかもしれない。私の歌で背景を語り音楽とその踊りを組み合わせたら…良いものができそうな予感がします」
「その辺りはお任せします。本は持ち帰らないといけないのですが、これはどうぞ」
訳が書かれた紙を受け取った吟遊詩人は再び勢いよく腰を折った。
「ありがとうございます。必ずや良いものに仕上げてみせます」
握手を交わしたサラドの手は骨ばっていて皮膚が固く、かさついているがとても温かかった。
見送りを終え、早速帰って作曲に取り掛かるべく、楽器をしまうおうとして、ふと弦に触れた指先の異変に気付いた。何日も長時間の練習をしていたために指先にできていたマメは先程の無茶な演奏で確かに潰れ、爪も割れて血が滲んでいたはずなのに、傷がない。親指の腹で他の指先を撫で、じくじくした痛みもなく、きれいに皮膚が再生していることを確認する。
(あの人は一体…)
ぎゅっと指を握り込んで、降るように思い浮かんだ旋律が頭から逃げないうちに吟遊詩人は借りている部屋に急いだ。
お読みいただきありがとうございます ヽ(^0^)ノ
「いいね」という機能が加わったそうなので
どこかしら面白いと思っていただけましたら、お気軽にお願いいたします
喜びます